飼い主に、愛情はなかった

僕は犬である。名前はまだないし、たぶん、これからも無いだろう。なぜなら僕の飼い主は、僕を虐待しているからだ。彼にとって、私は愛情を持って扱うべき対象ではなく、ただの道具なのだ。僕に愛情をもって名前をつけることなど、この世が終わるまで待っても、ありそうにない。


不公平なことに、僕には名前がないのに、僕を虐待する飼い主には名前がある。高野と言うらしい。

「高野刑事の名はな、正義の代名詞なんだよ。絶対に悪人に勝たなきゃダメなんだよ」とブツブツ言いながら僕を殴るので、嫌でも覚えてしまった。


どうやら、『刑事』という人間の職業によって苛立ちを抱えており「俺は高野刑事だ」と言い聞かせながら僕を殴ることで、気分転換をしているらしい。

つまり僕を「犬」として見ていない。刑事という肩書きによるプレッシャーで蓄積したストレスを、解消するサンドバックなのだろう。


もちろん僕の方だって、僕を生き物と見てくれない腐った心の高野をご主人として見ていない。


隙さえあれば逃げる準備をしている。

準備とは、具体的には、穴を掘ることだ。


僕の首輪に付いた鎖は、地面に刺さった杭に繋がっているので、杭の根元を掘り杭を抜けば、自由になれる。

本当に杭が抜けるのか。自信はない。でも、抜けるかもと思うことで未来に希望が持てる。


僕は毎日、アイツが家を出て仕事に行っている間、自由を夢見ながら杭の周囲の黒くて冷たい土を穿っていた。




だから、今日、普段刑事の仕事中であるはずの昼の時間に、高野が帰宅してきて、「クソがぁ!」と言いながら犬小屋を蹴飛ばしたとき、バレてしまったのかと思った。

犬小屋の後ろで穴を掘っていることを指摘するために「本当は休みなのに出勤したフリをして、僕が穴を掘り始めてしまった段階で帰宅して怒鳴る」という作戦だと考えたのだ。


何も歯向かっていない、通常の僕でも、骨が折れるんじゃないかというくらい殴られている。

穴がバレたらどうなるだろう。

僕の背筋が冷えていく。


「おい。はやく殴らせろ」

高野の声が頭上から聞こえた。

「こっちは聞き込みをこっそり抜けてお前を殴りに戻ってきてるんだよ。無差別に密室殺人したうえに被害者のアカウントで通販で買い物する、イカレた殺人鬼の捜査がある。はやく署に戻らないといけねぇんだ」

さっきの予想は、深読みしすぎだったらしい。


僕が思うより高野は猛獣的だった。

もしかしたら『刑事』をやっている時間の高野は理性的なのかもしれないが、少なくとも僕の前にいるときの高野は暴力を振るうことしか頭にない。

高野がイレギュラーな時間に僕の前に来たというのは、イレギュラーな時間に僕を殴りたくなったという事しか意味しない。


高野は「犬小屋のかげに隠れてないで出てこい。犯罪者も犬も、刑事の俺に無駄な抵抗しすぎなんだよ」と吐き捨てた。全身から殺気があふれている。相当苛立ちがたまっているらしい。


僕はゆっくりと犬小屋の後ろから顔を出した。

静かに高野に向かって歩き始めた。


あと数歩近づけば、高野の拳が届くエリアに入る。

その瞬間に骨を砕くようなパンチが降ってくるだろう。

数秒後に訪れる激痛から逃れようと、僕の意識は、思い出の中に沈んでいく。


だが、ペットショップで高野に買われただけの僕の犬犬生いぬけんせいに、良い記憶などほとんどない。

だから現実逃避する時に頭に浮かぶのは、いつも水野瀬名の体臭だ。


となりに住んでいる人間の少女である水野瀬名は、僕のことを憐れんで、数日に一回のペースで、餌をこっそり僕にくれた。心の優しさを反映しているのか、彼女の体臭はどの人間よりもいい匂いがした。高野に殴られ続けるクソな毎日が続いても心が折れなかったのは、水野瀬名のおかげだ。


あぁ、そういえば、最近は水野瀬名が家に来てくれていない。今、優しい体臭をしたあの子は、どこで何をしているのだろう?


ぼんやりと水野瀬名のことを考えている僕の頭頂部に、ついに、高野の拳が振り下ろされた。


強烈な痛みが僕の脳天をつきさして、頭部のどこかの骨が折れる音がした。直後に、全身から力が抜けていく。あぁ、これは、死だ。


絶命を自覚し意識が遠のいていく僕の耳に最期に聞こえたのは「うわっ、殺しちまったよ。明日から何殴ればいいんだよ」という高野の嘆きの声だった。


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