第22話 パンデミックの予感
ミュリエルたちが教会に往診へ向かう準備をしていたとき、ミュリエル薬店に急患が運び込まれた。
「薬師様!助けてください。息子の様子がおかしいんです」
大粒の汗を、額に浮かせた50代くらいの男が、ぐったりとして動けなくなっている20代の若い男を背負っていた。
その隣にいる、目に涙を溜めた20代の女は、手が塞がっている男の代わりに、《受付終了》の札が下げられたドアを叩いた。
ミュリエルは、診察に必要な道具を、教会へ持って行く鞄に詰め込んでいた手を止めて、薬店のドアを開け、2人と背負われた男を中に通した。
「どうしましたか?」
「昼頃に熱を出して、熱冷ましを飲んだそうなんですが、熱は上がる一方で、呼びかけても返事をしないんです」
「診察台に寝かせてください。お名前は?」ミュリエルは診察台を手で示し促した。
「こいつは
マルタンの後に立ち、手で口を押さえ、声を呑み込むようにして、むせび泣いているアニーが軽く頭を下げた。
ミュリエルはセルジュの熱を測り言った。
「セルジュさんのお仕事は何ですか?」
「アタナーズ商会で働いています」マルタンが答えた。
「外国には最近行かれましたか?」
「倅はアタナーズ商会会長のエドガーに同行してスルエタに行っていました。昨日戻ったばかりです」
今朝、教会で倒れた男性が、エドガーという名前で、スルエタから戻ったばかりだと言っていたはずだとミュリエルは思い出した。
ミュリエルはマジックワンドをセルジュの体に這わせて言った。「流感です。通常ポーションを飲めば回復するはずですが、セルジュさんは昏睡していて、とても深刻な状態です。手は尽くしますが、覚悟をしておいた方が良いでしょう」
マルタンは膝を地面にどさりとつき、両手で目を覆い、声を殺して涙を流した。
アニーはセルジュに縋りついて懇願した。「そんな!嫌よ!セルジュ、私を置いていかないで、お願いだから1人にしないで。どうか神様ご慈悲を、私の夫を救って下さい」
ミュリエルは奥の工房で受話器を取り、ハンドルを回して電話交換手に繋ぎ、相手の電話番号を伝えてサンドランス教会に繋いでもらった。
しばらくして応答があった。「サンドランス教会です。何か御用でしょうか」
「ミュリエル薬店の店主です。今朝診察した患者さん、エドガーさんの容態を知りたいのですが」
「ミュリエル薬師でしたか、私クラリスです。エドガーさんはポーションを飲んですぐ、熱が下がったのですが、夕方になってからまた上がり始めました。来てくださるんですよね」
「今から伺います。その時に、別の患者さんを連れて行きたいと思っています。エドガーさんのお知り合いのようで、同じ症状なので同時に治療をした方が、効率が良いのですが、了承していただけるでしょうか?」
「エドガーさんのお知り合いって?私も知ってる人かしら」
「アタナーズ商会の従業員でセルジュさんです」
「セルジュさんが!ああ、そんな——セルジュさんもアニーさんも教区民ですし、善き信者さんです。新婚の素敵なご夫婦なのに、可哀想に心配だわ。司祭様にお伺いしてみますので、しばらく、このままでお待ちになってください」
「分かりました。待っています」ミュリエルの耳には、受話器から送られてくるジージーという雑音だけが低く響いた。
「ミュリエル薬師、お電話を代わりました。アレクサンドルです。話はクラリスから大方聞きました。セルジュさんも病に倒れられたとか、エドガーさんの意識も未だ回復しません。是非セルジュさんを、こちらに連れてきてください。そして、ミュリエル薬師に治療を施していただきたいと思っています」
「ありがとうございます。すぐに向かいます」ミュリエルは電話を切って、ギャビーの手にお金を握らせた。「ギャビーさん、荷馬車を手配してきてもらえますか?」
「分かりました。すぐに連れてきます」ギャビーは辻馬車の停留場へ走った。
モーリスとフィンにセルジュを馬車まで運んでもらいたいが、なるべく2人を患者に接触させたくはない。特効薬がない今、感染すれば命を落としかねない。フィンは若く体力があるが、モーリスはどうだろうかとミュリエルは思案した。
診察室に戻り、抜け殻のようになって肩を落とし、小刻みに震えているマルタンを見て決心した。
「フィンさん、頼みがあります。セルジュさんを馬車に乗せるのを手伝ってもらえますか?私が足を持ちますので、フィンさんは頭を持ち上げてください」
「ミュリエル、お前は下がってろ。俺とフィンで運ぶから」モーリスが言った。
「ですが……」
「心配するな。このくらいで怯むようなら薬師を40年もやってないさ。それに俺もお前を信じてる。ミュリエル、お前なら絶対にこのウイルスに勝てる」モーリスはセルジュの体を片側に傾け、その隙にフィンは担架をセルジュの体の下に滑り込ませた。
ギャビーが手配してくれた馬車の荷台にセルジュを乗せ、マルタンとアニーは意識の無いセルジュの隣に座り、力を合わせるように、互いを励ますようにして3人で手を繋いだ。
「お義父様、どうしよう、セルジュが、セルジュが死んじゃう」
「大丈夫だ。セルジュは強い、きっと助かる。気をしっかり持つんだ」
ミュリエルはギャビーと一緒に診療道具やポーション、薬草が入った小瓶を詰め込んだ鞄を積み込んだ。
「ギャビーさん、ご家族は今晩ここへ来る予定ですか?」
「はい、それぞれ仕事が終わったら来るはずです」
「今晩、私たちは帰って来られないと思います。前回使ったゲストルームは覚えていますね、今日もその部屋を使ってください。何かあれば、ジゼルさんに言って助けてもらってください」
「分かりました。お気をつけて行ってらっしゃいませ」ギャビーは遠ざかっていく馬車が見えなくなるまで、薬店の前に立ち見送った。
お金がなくて満足に食べられない、自分たち家族の食事の世話までしてもらったり、避難できる場所を提供してもらったり、庇護されるばかりで、何の助けにもなれない子供の自分が、とても無力で苛立った。
字の読み書きしか出来ない今は、受付しかさせてもらえないが、たくさん勉強して、いつかフィンのように賢くなって、必ずミュリエルの助手になるとギャビーは心に決めた。
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