第5話 王城で朝食を

 ミュリエルは夜遅くまで、証明書や営業許可書を眺めて過ごした。眠れないほどに明日からの生活が楽しみだった。


 カルヴァン邸に戻らなくていいという解放された喜びと、モーリスやジゼル、犬たちとの生活を想像して期待に胸を膨らませた。


 翌朝目が覚めると、いつも憂鬱な気分で迎えていた朝を、初めて気持ちいいと感じた。


 テラスに立ち足踏みしてみる。心なしか足取りも軽いようだ。今なら人目を気にせず、スキップもできてしまうのではないだろうかとミュリエルは思った。


 支度を済ませて、アンドレが訪ねてくるのを待ちながら、何の気なしに庭園を眺めていると、ドアをノックする音がしたので、ミュリエルはドアを開けた。


「おはよう、ミュリエル」


「おはようございます。アンドレ王子殿下、本日は、ご同席いただき、望外の喜びでございます」


「あまりかしこまらないでくれ、楽しく食事をしよう。スッキリとした顔をしているようだが、昨晩はよく眠れたか?」


「はい、こんなにも、朝を清々しいと感じたのは、初めてです」


「私との婚約が破談になったというのに、清々しいとは、少し複雑な気分だな」


 ——まただ、とアンドレは思った。昨日から時折見せるミュリエルの微笑に、アンドレは激しく動揺していた。


「失礼いたしました、ずっと願っていたことが叶ったので、つい浮かれてしまいました」


「君も浮かれるなんてことがあるんだな」


「お恥ずかしながら、何度も書類を見返しては、胸が高鳴っておりました」


「もっと気軽に喋ってくれていい、食事の合間の雑談だと思ってくれ」


「……気軽に喋ったことがありませんので、どのように喋ればよいのか、分かりません。申し訳ありません」


 まずいことを言ってしまったと、アンドレは感じた。先程まで少し楽しそうに話している気がしていたが、今は落胆しているように見える。


 ずっと、ミュリエルを無愛想でつまらない女だと思っていたが、よく見ると、僅かに表情や瞳が動いているのだと、アンドレは気がついた。


「別にいいんだ、どんな喋り方でも。君が楽しいと思っていてくれたらそれで——」


 自分は何を言っているのだろうか?今更、楽しんで欲しいと思っているなんて、毎週やってくる鬱陶しい午後のティータイムで、彼女のことを、ずっと無視し続けていたというのに。


 話をする時間なら、いくらでもあった。子供のころは、自分が話すばかりで、ミュリエルの話を聞こうともしなかった。


 ミュリエルがあまり喋らないのは、ただ会話が苦手なだけだと気づいていたのに、話しかけるのが億劫になったからといって、無視するべきじゃなかった。


 話を聞いてやらなかったのは自分で、顔を見ようともしなかったのも自分、彼女を理解しようともしなかった。後悔したところで何も変わらない。


 後悔……しているのか?とアンドレは自分の心が分からずにいた。


 喜んでいいはずだ、マドゥレーヌを正妃にできるし、彼女だけを愛せるのだから——


「王子殿下?」心ここにあらずなアンドレに、ミュリエルが心配そうに話しかけた。


「すまない、少し考え事をしていた。何の話だっけ?」


「万一、ご病気にかかられたり、お怪我をされて困ったときは、私を訪ねてくださいという話です。アンドレ王子殿下もケクラン卿もエクトル卿も、いつでも歓迎いたします。私の作るポーションは、万能なのです」


「そうさせてもらうよ。どんな風にポーションを作るんだ?」


「病気や怪我の治療に使う薬草は1,000種類以上あるのですが、それらを組み合わせることによって、治療に最適なポーションを作り出すことができるのです」


「その知識をモーリス薬店の店主に教わっていたのか?」


「モーリスさんに教わったこともありますが、ほとんどは、カルヴァン家の図書室で見つけた本から得た知識です」


「本が好きなんだったな、エクトルから博識だと聞いた。毎日本を読んでいるのだろう?」


「本が好きかどうかは分かりませんが、本を読むことで時間は潰せます」


 また余計なことを言ってしまった。自分はこんなに配慮に欠ける人間だっただろうかとアンドレは首を捻った。


「もし、困ったことがあったら何でも言ってくれ、元婚約者のよしみで、いつでも力を貸す」


「ありがとうございます、アンドレ王子殿下。あなたが私の婚約者でよかったと思います」


 またミュリエルが微笑んでくれた。アンドレは、それだけのことで無性に嬉しくなった。

 そうしてアンドレとの朝食を終え、ミュリエルは晴れやかな気分で王城を出て、途中、明日から着る服や、靴を買い揃えながらモーリス薬店に向かった。

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