第三章

 フランスの社会学者、エミール・デュルケームは、自身の著書『自殺論』において、自殺の形態を四つに分類した。


 その四つとは『利他的自殺』『利己的自殺』『アノミー的自殺』『宿命的自殺』である。


 この中で真に着目すべきは、『利己的自殺』に他ならない。『利己的自殺』こそが、最も多く人を自殺に向かわせる要因だからだ。


 『利己的自殺』とは、過度の孤独感や焦燥感により、個人が集団との結びつきが弱まることによって起こる自殺の形態である。


 人は社会的生き物だ。人と繋がりなくしては生きてはいけない。それは物理的な意味で言える。アリストテレスの『国家』における『ボリス的な動物』がそれを端的に表わしている。


 集団から疎外されることは、本来なら死を意味するはずだ。群れから追い出されたライオンには、未来がない。だからこそ、群れの秩序を守り、生きるために群れに恭順しようとする。人間ならば『法律』、またはボリス的な動物としての『善』である。


 しかし、こと日本のような先進国においては、仮に孤独だろうと、生きてはいける。しかし、『利己的自殺』による死が後を絶たないのは、なぜだろう。


 おそらく、孤独を避けるように、本能として組み込まれているからだ。人間が社会的動物として進化した以上、孤独は業病のように、忌避されるべきものだと、遺伝子に宿命づけられているのが答えである。


 つまりは、そこが人類のウィークポイントとも言えるのではないだろうか。




 翌日、学校での昼休み。食事を終えた俊孝は、再び純佳に声をかけられた。


 「天海君って、パソコン部に入っているの?」


 俊孝は、読んでいた本から顔を上げ、純佳を見る。


 純佳は、小動物のような大きい目をこちらに向けていた。


 昨日から、一体何なんだろうと思う。やたらと話しかけてくるが、何か魂胆でもあるのだろうか。


 面倒臭いが、無視はよくない。答えようと思う。それに、訂正しなければならない部分もあった。


 「パソコン部じゃなくて、情報処理部だからね」


 「どっちも同じだよ」


 純佳は、おかしそうに笑う。


 「それで、入部しているんでしょ?」


 俊孝は頷く。


 「そうだね。入部しているよ」


 「どんなことしているの?」


 俊孝は、純佳の顔を伺った。興味があるような表情だ。まさか、情報処理部に入りたいと言い出すんじゃないだろうな。


 確か純佳は、バレー部だった気がする。身長こそは高くはないものの、スポーツをやっているお陰か、スタイルは悪くなかった。そこそこ活躍しているようだし、部活動に不満を抱いているようには見えない。


 「えーっと、部員によって違うけど、俺はアンドロイド用のアプリケーションを作っているかな」


 隠すようなことでもないので、正直に答えた。


 純佳は、目を丸くし、声を高くする。


 「それ、すごいね」


 純佳は体を近付けてきた。身を引くような真似はしなかったが、少し、恥ずかしくなる。


 「そうかな。慣れれば誰でもできるよ」


 「慣れても私には無理そうだなー。ねえ、どんなもの作っているの?」


 「簡単なゲームだよ。横スクロールのアクションゲーム。マリオみたいな」


 俊孝はそう説明しながら、教室の前方に目を向けた。


 聡史は、いつものように神山達と雑談を行っている。近くの席の長月千夏もそれに加わっているようだ。聡史は、こちらの様子は気にしてはいなさそうである。


 「へえー。面白そう。私やってみたい」


 俊孝は、溜息をつきそうになった。また面倒なことを、と思う。こいつはゲーム好きだったか? 以前も思ったが、話しかけてくる意図がわからない。


 第一、まだゲームは試作レベルなのだ。あまり人にプレイして欲しくないし、受け渡す際に行われるコミュニケーションも億劫だった。


 ここは適当に誤魔化そう。


 「まだ作り始めたばかりだから、当分先にになると思うよ。完成するとも限らないし」


 「そうなんだ。じゃあ完成させたら遊ばせてね」


 「わかった」


 俊孝は同意するも、心の中で、それは一生やってこないけどね、と呟く。


 これで会話が終わりと思いきや、純佳は続けた。これが、会話の目的だったようだ。


 「ねえ、天海君。だったらスマホ持っているよね?」


 「スマホ? 持ってるけど……」


 純佳は、ナチュラルショートの髪をかき上げると、少しだけ間を置き、言う。


 「じゃあさ、電話番号交換しない?」


 「え?」


 俊孝は、一瞬、純佳の発言の意味がわからなかった。何を言っているんだこいつ。


 「どういうこと?」


 「どういうことって、電話番号を天海君と交換したいだけだよ」


 「なぜ?」


 怪訝そうな俊孝の質問に、純佳は、若干戸惑いの表情を浮かべた。瞳の奥底に、チクリとした痛みが走ったように見える。


 「嫌なの?」


 「嫌って言うわけではないけど、理由がわからなくて」


 純佳の目的が不明だった。少しだけ、不安の気持ちが差す。まさか、例の『ゲーム』のことを嗅ぎ付けたのではと、疑念が芽吹いた。そうでなければ、わざわざこちらの電話番号など聞いてくるはずがない。


 しかし、それはそれでおかしい気がした。何かしらの疑惑を抱いたとするならば、この方法は悪手である。こちらは当然警戒をしているので、わざわざ意図を相手に悟らせる真似にしかならない。それは必然的に純佳も推して知るべし理屈だろう。それとも、それすら考慮できないほどの馬鹿だということなのか。こいつは。


 何にせよ、これは拒否する他なかった。


 俊孝が、断ろうと口を開きかけた時、純佳は、こちらにグイっと体を寄せた。机の上に、半ば乗りかかるよう形になる。


 純佳は、制服のポケットから、ピンク色のケースに包まれたスマホを取り出した。


 「理由なんてないよ。ただ交換したいだけ。ほら、天海君も早くスマホを出して」


 純佳は、強引に電話番号を聞き出そうとしてくる。少し演技くさく、無理をして言っているようにも感じたが、それでも俊孝は、困惑した。


 左隣の席にいる八島利博やじま としひろと、それまで共に談笑していた田淵登たぶち のぼるが、物珍しそうにこちらを眺めている姿を目の隅で捉える。二人は会話を止め、こちらの動向に耳を傾けているようだった。滅多に人と会話をしない俊孝と、クラスメイトの女子のやりとりが気になるのだろうか。


 俊孝は、この場を離れたくなった。


 「えーっと、そう言われても、突然だから困るよ」


 俊孝は遠慮がちに拒否の姿勢を見せたが、無駄だった。純佳は、スマホをこちらに突き出す。


 「なに女の子みたいなこといってるの。早く。昼休み終わっちゃうよ」


 駄目だ。聞く耳を持っていない。俊孝は、舌打ちをしそうになる。なぜここまで執拗なのか。


 純佳を置いて、この場を離れようかと思ったが、結局は意味がないのだと悟る。この調子だと、いずれまた催促してくるだろう。しかもそれは、断ったとしても同じではなかろうか。強い意志を持って拒否をすれば、通るだろうが、それだと面倒なことになりそうだ。


 周囲の視線は、八島達のみならず、他にも増えていた。前の席の下條里奈しもじょう りなも、こちらを気にしているようだ。

 警戒心や疑念よりも、この状況を終わらせたい気持ちの方が強くなる。人から注目されることは苦手なのだ。全身を針で刺されているような苦痛があった。


 「わかったよ」


 俊孝は観念した。溜息と共にそう言う。


 仮に、純佳が何かしらの思惑を抱えていたとしても、電話番号を知られたという点だけでは、致命傷には至らないはず。いざとなれば、手間ではあるが、番号変更を行えば済む話だ。


 それに、向こうの意図を察知するきっかけにもなる。本当に『ゲーム』のことを知り得て、接触してきたかどうかの見極めや、背後関係などの情報、そして最終的な目的を読み取ることが可能なのだ。


 むしろ、事が起こる前に接触してきたパターンの方が、後々のことを考えると幸いであるとも言えるかもしれない。なぜならば、俊孝達にとって一番まずいのは、自分達の与り知らぬところで姿の見えない誰かが蛇のように動き、こちらが気付いた時にはすでに、毒牙が首筋に食い込んでいる――そんな状況なのだから。


 二人は電話番号を交換した。それが終わると、純佳は礼を言う。


 「ありがとう」


 純佳は、屈託のない笑顔を浮かべていた。へこんだ笑窪が印象的だった。





 俊孝は、自室にあるパソコンのバックグラウンドで『幻想交響曲』を流しながら、キーボードを叩いていた。


 モニターにはマイクロソフトのワードが表示されている。テキストの中身は、仁科楓を自殺に追い込む『計画書』だ。


 進捗はまあまあで、訂正箇所もほとんど潰している。ほぼ完成形と言っていいだろう。この後は一通りチェックを行い、聡史から了承を得ることができれば、実行に移すことが可能だ。


 俊孝は、キーボードから手を離し、息を一つ吐く。連日、『計画書』を煮詰めていたせいで、疲労が生まれていた。試験勉強とは違い、神経と情熱をすり減らして案を練っているのだから、脳のCPU使用率は段違いだった。それに加え、学校の課題と、ネットゲームもこなさなければならないため、なかなかにきつい。


 俊孝は、机に置いてあったマグカップからコーヒーを一口飲むと、マウスを使い、最初のページへテキストをスクロールさせる。そしてチェックを開始した。


 今の時刻は午後九時過ぎ。これでチェックが終われば、十時ごろには『Sky Face』へログインができるだろう。さきほどLINEで、聡史からログインしたとの通達がきたので、先に待っているはずだ。その時、ついでに『計画書』が完成した旨を伝えようと思う。


 マウスのホイールを回しながら、テキストを上下させ、『計画書』を何度もチェックする。そうしている内に、頭の中に雑念が生まれ始めた。これは、目の前にある既知の情報を、繰り返し認識しようとするために起きる意識の鈍化だ。脳は、新鮮な情報には鋭い反応を見せるものの、慣れた情報には怠惰なのだ。


 俊孝の脳裏に、様々な想像が生まれ出る。学校のことや、将来のこと、『ゲーム』のこと。余った脳内リソースは、際限なく、俊孝に迷走した思考を形作らせた。


 やがて、以前に遂行した『ゲーム』の被害者の顔が、幻影のように目の前へ浮かび上がってきた。


 最初は、ほんのささいなきっかけだったと思う。何も始めから人を自殺に追い込む趣味を持っていたわけではなかった。


 二ヶ月ほど前の話になる。


 岡部真澄おかべ ますみ。一番最初の標的である女子生徒だ。彼女はとても真面目で、大人しい生徒だった。しかし、気が強い面があり、品行方正というよりかは、四角四面、悪くいえば、暗くて頑固な性格だった。


 その彼女を前から知っていたわけではない。ちょっとしたきっかけがあり、関わりができたのだ。


 関わりと言っても、瑣末なものだった。階段を下りている時、たまたま俊孝と肩がぶつかった、それだけだった。しかし、彼女は――向こうからぶつかってきたにも関わらず――凄まじい形相で俊孝を睨んだ後、誤りもせずに、その場を立ち去ったのだ。


 そして、それが俊孝の心に、逆棘のように残っていた。


 その頃はちょうど二年に上がったばかりであり、すでに聡史との交流ができていた。


 俊孝は、『Sky Face』のチャット内で、その件を聡史に話したのだ。


 聡史は、岡部真澄のことを知っていた。聡史は顔が広く、俊孝よりは遥かに学年の生徒達のことに詳しかったためだ。


 そこで俊孝は、岡部真澄の人物像について聞いた。成績は良かったこと。尖った性格でありながら、裁縫部に所属していること。嫌われ者であり、疎ましく思っている者が多いこと。


 かくいう聡史も、あまり好きではないタイプらしかった。


 本来ならそこで、愚痴を少し話して終わりだったろう。俊孝も、あまりこだわるつもりはなかった。


 だが、予想に反して、岡部真澄への愚痴は盛り上がった。悪口をやり取りするうちに、少し懲らしめてやろうとの結論に至ったのだ。


 取った行動は単純なものであった。インターネット上に存在する学校別のBBSサイトにアクセスし、東陵高校のBBSを見つけると、そこに岡部真澄の誹謗中傷文を書き込んだのだ。聡史が知っている彼女の悪評や、創作した醜聞も含め、ひっきりなしに。


 アクセスカウンターは、それなりの数を示していたので、複数の東陵高生がこのBBSを利用していることは確かだと思った。必ず東陵高生の間に、この誹謗中傷文は知れ渡るはずだと俊孝は踏んだ。


 初めの一週間は大した動きはなかった。だが、諦めずに俊孝達は、書き込みを続けた。


 効果が見え始めたのは、十日ほど経ってからだった。BBSを覗いてみると、俊孝達が書き込んだものとは違う、岡部真澄を誹謗中傷する内容の投稿が相次いでいたのだ。


 俊孝は、自分達の仕掛けが蝮毒のように回り始めたことを確信した。一度点いた炎は、これから際限なく燃え広がり、岡部澄子を焼き尽くすだろう。その根源には、性欲と情熱を持て余している高校生達がいるのだ。


 それからの岡部真澄の疲弊ぶりは、見ものだった。普段も孤立しがちな彼女は、さらに孤独を深め、誰も近寄らなくなった。それまで親しかった友人や部活の仲間までもだ。


 聞くところによると、机やノートにすら落書きをされるいじめにまで発展していたらしい。


 そして、彼女は不登校となった。


 最初はただ、懲らしめるために行った計画だったが、ここまでの進展を見せ、俊孝は喜びが感じた。まるでヒトラーのような扇動者になった気分だった。


 岡部真澄が不登校になった時には、俊孝達はBBSへの書き込みを停止していた。必要以上に中傷文を書き込むと不自然さが際立つと判断したからだ。二人が書き込まなくても、岡部真澄に対する糾弾は土石流のように留まることを知らない。俊孝達は、自然の成り行きに任せることにした。


 それは、彼女が不登校になっても続いた。


 『あいつがいなくなって嬉しい』『このままずっと学校に来なければいいのに』『あのブスが死んだらもう顔を見なくて済む』こういった岡部澄子の不登校を喜ぶ投稿がBBSに並んだ。おそらく、これも彼女は見ているはずだ、と俊孝は予測した。


 そして、岡部真澄は自殺をした。長津田にある陸橋から恩田川に飛び降りたのだ。死因は溺死であった。丁度大雨で増水している中でのダイブだったようで、(後で聡が聞いた噂だが)死体を検分した際、胃や口の中から大量の泥や藻が流れ出たという。まるでそれらを大量に飲み込み、窒息死したかのように。


 衝動的な飛び降りらしく、遺書はなかった。しかし、飛び降りる瞬間を目撃した者がおり、事件性はなく、自殺と警察は断定した。


 その頃にはすでに、BBSの岡部真澄に対する誹謗中傷の書き込みは削除されていた。岡部真澄が死んだことを耳にした直後、俊孝がサイトの管理人へ匿名の通報を行い、削除を要請したためだ。


 これで、彼女の自殺と自分達を結びつける証拠はなくなった。


 もっとも、書き込みの当初から、書き込む際は、自身所有のスマホやパソコンは決して使用せず、ネカフェや学校のパソコンなど公共性のあるデバイスからの書き込みを徹底していたため、仮に露見したとしても、こちらに辿り着くのは不可能だったはずである。それに共犯者は全校生徒なのだ。しかも匿名の。


 これで主犯が俊孝達だと判明させるのは、シャーロック・ホームズでも不可能だろう。


 岡部真澄の自殺を受けて、東陵高校では、全校集会が開かれた。夏目漱石を思わせるちょび髭の太田原校長は、つとつとと、命の大切さを喧伝していた。


 しかし、そこは最近の若者らしく、生徒達の反応はドライだった。皆は一様に集会を疎ましく思っていることは明白で、反抗的な態度こそは取らないものの、死者を弔う姿勢を持っているものは皆無だった。泣いている生徒も一人もいなかったと思う。


 これは、岡部真澄の人徳に拠るところと、自殺の真相を知っている者も複数いたためだと思われた。


 そのような中、俊孝は、人知れず歓喜の渦に包まれていた。自分達が発端となって起こしたことが、人一人の命を奪ったのだ。しかも罪に問われることなく。


 結果としては、初めから狙ったわけではないにしろ、これは極めて誇りに思っていい成果だろう。完全犯罪を成し遂げたも同然なのだ。


 その後、聡史と『Sky Face』のチャットで意見を交換した。やはりと言うべきか、聡史も完全犯罪のような結果に、強い達成感と喜びを感じていたようだった。


 不思議に罪悪感はなかった。それは聡史も同様のようで、むしろ二人共、コンクールで一位を取ったかのように、ハイになっていた。


 少しの間、チャットウィンドウ内に、お互いの努力が結実したことを労う言葉が並んだものだ。




 俊孝は、『計画書』から目を離し。大きく伸びを行う。チェックは全て終わり、後はこれをプリントアウトすれば完了だ。


 俊孝は、時計を見る。壁掛け時計は、午後十時前を指していた。空想を伴った作業だったとは言え、概ね予定通りである。


 空になったマグカップを手に取り、一階へ下りる。居間では母の恵美子がソファに座ってテレビを観ていた。父はまだ出張から帰っておらず、暇を持て余しているようだった。


 俊孝が居間へ入ってきたことを悟ると、恵美子は何事か話しかけてきたが、俊孝は生返事で返す。そして、対面型カウンターに置かれてあるネスカフェのバリスタの前に立った。


 ドリップグリッドの上にマグカップを置き、ブラックコーヒーのボタンを押す。マグカップの中に、黒い液体が注がれていく。


 それを見ていると、俊孝の脳裏に、もう一人の女子生徒の姿が浮かび上がる。一度過去のことを思い出したので、芋づる式に記憶から引っ張り出されたのだろう。


 彼女の名は、宮澤朱実みやざわ あかり。一学年上の先輩で、男子バスケ部のマネージャーだった生徒だ。




 岡部真澄が死亡してから、一週間ほど経った日のことである。


 あれは『Sky Face』でいつものようにプレイしていた時だ。確か、大規模討伐イベントで、複数のプレイヤーと共闘を行い、神クラスの強さを誇る難敵、『エレキシュガル』を討伐した後のことだったと思う。強力な武具の素材を入手し、潤沢なお年玉を貰った時のように、ホクホクと喜んでいた俊孝の個人チャットに、聡史からのメッセージが届いたのだ。


 当初は、強敵を討伐した健闘を称える言葉が発せられたが、すぐに本題に入った。


 内容は、バスケ部の女子マネージャーがウザい、といったものだ。


 なんでもその女子マネージャーは、男子バスケ部のキャプテンの彼女らしく、虎の威を借る狐の如く、威張り散らしているとのことだった。ろくにマネージャーらしいこともせず、まるで偉ぶるために入部したかのような態度に、聡史のみならず、男子部員のほとんどが辟易しているらしかった。


 聡史の説明を聞き、俊孝はおぼろげに宮沢朱実のことを思い出した。彼女は東陵高生には比較的珍しい、少し派手な女子生徒で、校則違反ギリギリの赤みががったミディアムヘアを晒していた。柄もあまり良くなく、問題行動も多いと聞く。他者に興味のない俊孝でも知っているくらいなので、相当目立つ生徒だったのだろうと思う。


 岡部真澄と同様、忌み嫌われている存在のようだが、その嫌われ方のベクトルが違うらしく、下手に逆らう輩はいなかったようである。


 聡史と意見を交わすうちに、次第に宮沢朱実を『処理』する方向へと進んでいった。阿吽の呼吸のように、自然とその流れになったのだ。


 そして『計画』を立てることにした。今回は、岡部真澄で使った手は通じないと考えた。BBSの誹謗中傷程度では、自殺を考える玉ではないだろうと。


 俊孝は可能な限り、宮沢朱里に関する情報を集めた。それには顔の広い聡史の活躍があった。ただし、くれぐれも情報収集を行っていると悟られないよう、注意することを念頭において行動させた。


 そのようにして集めた宮沢朱里の情報を元に、計画を練る。


 完成した計画は『ガスライティング』を含有するものだった。


 ガスライティングとは、心理的虐待の一種であり、ターゲットにわざと誤った情報を提示し、ターゲットが自身の記憶や知覚、正気を疑うように仕向ける手法である。イングリット・バーグマン主演の映画『ガス燈』が名前の由来だ。


 最初に狙う矛先は、宮沢朱里ではなく、その彼氏であるバスケ部のキャプテン、尾川遼一おがわ りょういちだった。尾川は長身イケメンという女子から人気が出る要素を満たした男であり、事実、とてもモテていた。逆を言えば、宮沢朱里にはライバルが多いとの解釈が可能だ。俊孝はそこに目を付けた。


 まず俊孝は、聡史に指示を行い、バスケ部のメンバーへある噂を流させた。それは『宮沢朱里が複数の他校生徒と関係を持っている』といったものだ。ただし、それは、極力尾川の耳には入らないよう留意させた上でのことだった。尾川の耳に入るのは、噂が熟してからではないと効果が薄いためだ。


 それと同時に、俊孝は、フォトショップを使い、聡史が盗撮した宮沢朱里と他校の男子生徒達(適当に撮った)の写真を合成し『証拠』を作り上げた。DTP技術に八面六臂の才がある俊孝には、造作もないことであった。仕上がりも本物そっくりで、おそらく見破られる心配はないはずだと思った。


 やがてバスケ部内の噂が、少しずつ尾川の耳に入り始めた。しかし、それは直接尾川への告げ口という形ではなく、あくまでも間接的にたまたま小耳に挟む程度のものだった。人は心理的に、直接人から伝えられるより、間接的に知った方が、信憑性が補強されるのだ。


 そして強い疑心暗鬼を持ち始めた尾川へ、予め広めておいた『証拠写真』を提示した。それも聡史ではなく、他のバスケ部員がLINEグループのチャットを使って尾川へ知らせたのだ。これも聡史を使い、そう誘導させた結果だ。


 『証拠』を見た尾川はそこで初めて部員達に、噂の事実を確認した。ほとんどの部員はその噂を知っており、『証拠』も見知っているか、保持している者が多数だったため、尾川の疑心暗鬼は確信へと変わった。


 その後は修羅場だったらしい。部員達から話を聞いた尾川は、部室へ宮沢朱里を呼び出し、問い詰めたようだ。事実を認めない宮沢朱里と尾川の口論は、壮絶だったと聞く。俊孝はその場にいなかったため、現場を見ていないが、さぞかし愉快だったのだろうと思う。党首討論などとは比べ物にならないほどに、エンターテイメント溢れる趣向なのだから。


 その場の口論の趨勢は、完全に尾川優勢だった。噂に加え、多数の証拠があり、また蛇蝎の如く嫌われている宮沢朱里に、味方をする者などいなかった。終わる頃にはすでに、宮沢朱里の『複数の男子生徒との浮気』は事実になっていた。


 そして、宮沢朱里はバスケ部のマネージャーを辞めたのだ。


 しかし、これではまだ甘い。ここからが『ガスリーディング』の本領発揮である。


 俊孝はBBSを使い、宮沢朱里と浮気をした男子生徒だと名乗り、書き込みを行った。フォトショップを使った『証拠』も併せて貼り付ける。それはいわゆる『ハメ撮り』と呼ばれる類のものであり、ネットの画像も流用しての作成だった。


 また、Spoofboxなどの偽造メールアドレス作成アプリを使い、ツイッターにもアクセスすると、東陵高生とおぼしきアカウントを狙って、コンタクトを取った。そして、ある程度話が進むと、宮沢朱里と付き合っていた他校生徒なのだとぶっちゃける。それも、何も知らずに関係を持ち、浮気をされたのだという被害者の体で。


 しばらくそれを続けると、宮沢朱里は完全に『ヤリマン』だと位置付けられるようになった。


 見事アバズレ女へと転落した宮沢朱里に対し、火が点いたように糾弾したのが、尾川遼一へ好意を抱いている女子達だった。他にも宮沢朱里の普段の素行の悪さに恨みつらみの念を抱き、攻撃している者もいたようだが、そこには尾川と付き合っていることに対する嫉妬も含まれていたようで、結局は両者とも等しく、個人的な感情が根幹にある私憤に過ぎなかった。


 当の宮沢朱里は、何から何まで事実無根だったのだが、いくら否定しようとも無駄であり、次から次に出てくる証拠と証言、そして山のような糾弾に、精神的に追い詰められていった。しまいには、尾川から痛烈な別れを切り出されるまでに至った。


 この辺りで、宮沢朱里の言動が妙なものになり始めたらしい。プライドがあるせいか、不登校にはならなかったようだが、精神に著しい不調を来たしたのは確かである。


 詳細は本人しかわからないものの、おそらく、突き付けられる見覚えのない証拠と、蔓延している幻影のような噂を事実だと思い込み、精神が錯乱しつつあったのだろう。まさに狙い通りである。これこそが『ガスリーディング』の真骨頂なのだから。


 そのような状況が続き、やがて宮沢朱里は自殺を行った。駅のホームから快速電車へと飛び込んだのだ。高速で走る大質量の物体に、柔らかい女子高生の肉体は無残にも引き裂かれ、顔がざくろのように割れたらしい。赤みがかったミディアムヘアが、さらに赤く染まったことだろうと思う。


 通学鞄に残された遺書には、パソコンで『一人になったのでもう生きていけない』との一文が印字されていたようだ。宮沢朱里の性格を考慮すると、パソコンで遺書を書くのはどこか似つかわしくないと感じたものの、ペンを走らせる余裕すらなかったのだろうと解釈した。


 宮沢朱里が死ぬ時には、すでにBBSの書き込みは(猥褻画像込みだったので必然的に)消去されていた。それに加え、ツイッター側のアカウントも少しずつフェードアウトする形で消していった。これは宮沢朱里の死と同じタイミングで一気に消してしまうと、怪しむ者が出てくる危険性があったためである。


 これにより、背後に蠢く鼠の存在は認知されず、遺書のことも含め、宮沢朱里はあっさりと自殺だと断定された。


 連続した自殺に、高校側は再び集会を開き、さらにスクールカウンセラーを配置した。


 自殺を決行した二人の生徒が生徒なだけに、影響を受ける者はおらず、また根源には、俊孝達の姦計があったため、スクールカウンセラーは無用の長物になると俊孝は直感した。事実、今もってなお、入谷仁美は閑古鳥のただ中にある。


 そして俊孝達は、自分達の『計画』が功を奏し、無事逃げおおせたことについて、祝杯を挙げた。


 岡部真澄の時よりも喜びは甚大だった。何せ、今回は徹頭徹尾、こちらが立てた思惑通りに事が推移したのだ。高校生風情が、アルセーヌ・ルパンのように、人々を手玉に取り、騙し通せた功績は賞賛に値するだろう。


 岡部真澄の時と同様、罪悪感は微塵もなかった。間接的であるせいか、あるいは標的の性質のせいか、とにかく悪いことをしたという意識はなかった。


 祝杯は夜遅くまで行われた。場所は聡史の家だった。聡史は一人っ子であり、両親が共働きで帰りも遅いため、邪魔が入ることはなかった。


 俊孝はその時、人生で初めて酒を飲んだ。聡史が用意したものだ。神山達から貰ったらしい。


 飲んだのはカルーアミルクだった。自分はあまり酒に強い体質ではないらしく、少量にも関わらず、気分が悪くなった。


 聡史は酒に強いようで、平然としたまま、こちらをからかってきた。酔いのせいもあり、眩暈がしたが、反面、何だかちょっぴり大人になった気がして、とても楽しかった。




 マグカップにコーヒーを注ぎ終わると、俊孝は、二階へと向かう。コーヒーを零さないよう慎重に階段を登り、自室へと戻った。


 俊孝は、モニターに表示させたままであった『計画書』にざっと目を通し、印刷を行う。


 パソコン本体の横に設置してあるエプソンの印刷機から、A4の紙が数枚吐き出された。


 それらを最終チェックしていると、俊孝はまるで旅行計画書を読んでいる時のような、強い高揚感に包まれた。期待と希望が、足元から這い上がってくる。


 待つのが祭り、という諺が頭をかすめた。祭りの本番よりも、祭りの準備をしている時の方が、人は楽しさを覚えるもの、といった意味だ。実に、それは的を射た答えだと思う。往々にして、本番はあっけなく過ぎ去るものだ。本番が楽しいことも嘘ではないだろうが、未知の領域に対し、躍る心に勝るものではないはずだ。その期待や好奇心こそが、人類が宇宙まで到達できた原動力なのだから。


 ましてやそれが、あっけなくクリアしてしまった本番の後では、尚更だろう。




 そして、現在、最後の犠牲者となっている坪井順子のことを考える。


 彼女の一件は、これまでの『ゲーム』と比べると拍子抜けと言っても過言ではなかった。『計画』実行の際、あまりにもあっさりと終わってしまったためだ。何せ、彼女は、最初の下地作りの段階で自殺してしまったからだ。


 坪井順子の場合は『冤罪』を被せ、犯罪者に仕立て上げるというプランを立てていた。あわよくば、補導でもされたら大殊勲だろう。間違いなく、自殺に至るクリティカルな一撃になるはずだ。


 そこを目指し、俊孝達は実行に移した。


 初めは、軽いボディーブローのつもりだった。二年二組が体育の時、隙を見て、二組の生徒の荷物から財布を盗み出し、坪井順子の鞄へ入れたのだ。


 盗まれた被害者は、疑心と気が強く、クラスでも発言権のある女子を選出していた。確実に非難の矛先を、坪井順子へ向かせたい目論見があったからだ。


 それは成功した。見事、坪井順子は『盗っ人』へと降格した。後は、徐々に本格的な『冤罪』を被せていけば、目的へと到達する。これはあくまでも嚆矢に過ぎず、本番はこれからだった。


 だが、予想外にも、坪井順子に対する非難は苛烈を極めていた。相当早いうちから、それはいじめへと発展した。


 いじめの中心となったのは、二組の女子達だった。特に、財布を盗まれた女子が徒党を組むタイプだったので、一瞬にしてスクラムは出来上がり、坪井順子を追い詰めたのだ。


 そして、坪井順子は自殺をしてしまった。


 死因は失血死だった。浴室内で、果物ナイフを使い、手首を切り、お湯が張られたバスタブにつけて死んだらしい。正確には、切った傷ではなく、果物ナイフで深く手首を縦に突き刺し、奥にある動脈を傷付けたことによる損傷が、大量出血へ繋がったようだ。


 本来、リストカットなどの自殺は、静脈を切る程度の生易しい傷では死に至らず、せいぜい鼻血にも劣る血を垂れ流すにしか留まらない。本気で死にたければ、坪井順子が行ったように、動脈を狙うべきなのだ。それを坪井順子は知悉していたらしく、無事目的を遂げて天へ召されてしまった。


 結果的には目的は遂げたものの、あっさりし過ぎていて、肩透かしを食らった気分だった。何せほとんど俊孝達は、手を下していないのだ。『計画』が一人歩きしたも同然である。妙味に乏しく、達成感が湧かなかった。次こそは、との願いはその時生まれたのだ。


 そして、ふと、坪井順子の死後、疑問に思ったことがあった。


 なぜ、彼女はあそこまで攻撃を受けたのだろうと。


 これまでの犠牲者とは違い、坪井順子は人から恨まれるような人間ではなかったはずだ。性格も温厚で、保母さんのような温かみのある女子だった。弁解すれば、何名か味方に付いてくれてもおかしくなさそうである。それなのに、即座に針の筵に立たされたのは、何かしら理由でもあったのだろうかと邪推してしまう。今更確かめる気は毛頭ないが。


 相次ぐ自殺に、とうとうマスコミが動き、ニュースにまで取り上げられた。学校へ押しかけるような事態にはならなかったものの、東陵高側は連続自殺を重く受け止め、保護者会を開いた。


 結局は、打開策を見出せないまま、なあなあに終ったようだ。俊孝の両親も参加したのだが、具体的に説明はなく、進展がなかったことを暗に語っていた。そもそも、学校側は、連鎖自殺を『ウェルテル効果』のような現象が原因だと考えているらしく、そこに誤認があった。実情は人為的なものであり、その部分を排除しない限りは、自殺は続くのだ。


 つまり、まだまだこれからが本番である。




 俊孝は、印刷した『計画書』を用意してあった封筒へ四つ折にして入れた。この封筒は、青葉台駅にある東急スクエアで購入したものだ。白を基調としたレトロな長封筒で、四つ角にシックな音符がワンポイントとしてデザインされている。本格的な『計画書』が完成したら、これに入れて、聡史に渡すのが定番となっていた。誰が見ても、この封筒の中に人を自殺に追い詰める『計画書』が収められているとは思うまい。


 無意識に『断頭台への行進』を口ずさみながら、長封筒を通学鞄へ入れた。後は、これから『Sky Face』へログインし、中で待っている聡史へ『計画書』完成の旨を伝えれば、概ね準備は完了だ。そして、再びランデブーポイントを指定し、『計画書』を渡せばいい。どうせ聡史のことだから、内容に異論はないはずだ。それから計画実行である。


 俊孝は、画面一杯に広がっていたワードを閉じ、『Sky Face』へログインするため、ゲームアイコンをクリックした。


 その時、机に置いてあったスマホに、LINEの着信を示す、青いランプが点滅していることに俊孝は気が付いた。『計画書』作成に夢中で、目に入らなかったのだ。第一、着信自体少ないので、あまり意識もしてなかった。せいぜい、やり取りするのは、家族か聡史くらいだからだ。


 このLINE通知は、聡史からのものだろうと、俊孝は思った。おおかた、俊孝のログインが遅れていることに対する質問だろう。


 LINEを開いて、それが間違いだと気付く。発信元は桝本純佳だった。電話番号を交換したせいで、それと同期しているLINEに自動で登録され、それを元にメッセージを送ってきたらしかった。


 『こんばんわー。今何してるー?』


 それだけのシンプルな質問だった。


 俊孝は少しだけ悩む。既読無視をしようと思ったが、それだけでは何の進展もないことに気付く。明日追求もされそうだ。


 純佳が一体何を考えているのか知る必要があったので、ここは答えることにする。


 『勉強してたよ』


 簡潔な答えで返す。こちらからの応対を最小限に留めれば、向こうの言葉が多くなると踏んでのことだ。可能な限り、情報は引っ張り出したい。


 すぐに既読表示が付き、返信がくる。


 『そう、熱心なんだね。さすがだよ。そうそう、前に天海君が読んでた本、ネットで調べたよ。ペール・ジャーっていうんだってね。面白そうだったから、今度貸してね』


 なんなんだこいつは。俊孝は、妙な思いに捕われた。もしも何かしらの思惑があって接近を試みるつもりでも、これは遠回り過ぎる。もっとダイレクトなアプローチをかけるべきだ。警戒をしている相手に、いちいち外堀を埋めるような真似をしていては、逆に逃げる隙を与えるも同然だろうに。


 その後、俊孝は『Sky Face』にログインし、聡史に『計画書』完成の旨を伝えた。


 プレイをしている間も、純佳とのLINEのやりとりは続いた。


 『Sky Face』をログアウトした後も同じだった。ずっと、LINEのメッセージは終わらなかった。内容は、どれも当たり障りのない普通の会話である。

 それは、俊孝が寝るまで続いた。




 部活の終了を告げるチャイムが鳴り、俊孝は、キーボードを打っていた手を止めた。


 アンドロイド用に開発していたアプリケーションは、順調に進んでいる。後一週間もあれば、完成しそうだ。バグ取りが面倒だが、エミュレーターで逐一動作を確認しながら潰していたので、それほど労力は要らないはずである。


 俊孝はEclipseを閉じ、ウィンドウズを終了させる。そして、帰るために通学鞄を持ち、立ち上がった。他の部員二人は、俊孝よりも後に帰ることが多いので、今日も居残るつもりなのだろう。


 俊孝は、二人へ挨拶を行う。西野は挨拶を返したが、南条はやはり無視をした。後輩からとは言え、挨拶も返さないとは不出来な奴だと思う。こいつも『バグ』みたいな存在か。デバッグしてやりたい。


 俊孝は、アスレチックのような狭い部屋を歩き、『情報処理部』から廊下へと出た。


 この後は、聡史とランデブーポイントで落ち合う予定だが、その前にやることがあった。


 俊孝は自身のクラスである、二年四組へ向かった。今日、数学の授業で、提出用のプリントが出ていたことをすっかり忘れていたのだ。


 プリントは、教室の机の中へ入れたままであり、それをこれから取りに行くつもりだった。それに、尿意も感じていたので、ついでにトイレを済ませてしまおうと思う。


 ほとんど人気のない廊下を通り、階段を登る。二年四組へ辿り着き、扉を開けて中に入る。


 教室内には誰もいなかった。昼間の明るい喧騒が嘘のように、静寂に包まれている。薄暗いせいもあり、海の底へ沈んだみたいだった。


 俊孝は、一番後ろにある自分の席へ行き、机の中から数学のプリントを取り出した。そして通学鞄へ収める。


 そこでふと『計画書』のことが気になった。俊孝は、通学鞄のポケット部分から、長封筒を取り出し、中をチェックする。無事A4用紙が入ったままであることを確認すると、ホッとした。


 当たり前といえば当たり前だ。昨夜から入れっ放しとはいえ、通学鞄自体、ほぼ肌身離さず持ち歩いているのだ。失くすわけがない。


 俊孝は、教室を出ようとした。だが、思い止まり、通学鞄を机の上に置く。ここ最近、『計画書』に掛かり切りで、勉学を疎かにしていた。次の定期考査はまだ先だが、油断していると順位を落としてしまう恐れがあった。ここはいくつか教科書を余分に持ち帰り、勉強しようと思う。


 だが、その前にトイレだった。先ほどから尿意は、我慢の限界に近付いていた。


 俊孝は、教室の出入り口に向かった。


 廊下へ出ると、ばったりと人と鉢合わせをする。


 桝本純佳だ。濡れたような髪をしているので、部活終わりだろう。


 純佳は、ハッとした顔をしていた。まさか俊孝と出くわすとは思っていなかったのだろうか。瞳の奥に、少しばかりの動揺が見て取れた。


 同時に、俊孝も戸惑う。昨夜のLINEも含め、純佳の意図が読めない以上、気まずさが心の奥底に生じているのだ。


 僅かな静寂が二人の間を包む。口火を切ったのは、純佳だった。


 「天海君、部活帰り?」


 純佳は、首を若干傾げながら、そう訊いてきた。


 俊孝は、少し警戒しつつ、頷く。


 「うん。さっき終わったところ」


 「パソコン部だよね?」


 「パソコン部じゃなくて、情報処理部」


 「もう、どっちも変わらないってば」


 純佳は、小さく笑った。唇の隙間から、真珠のような白い歯が覗く。


 どうやら探りを入れているわけではなさそうだ。俊孝は、そう直感した。これは普通の会話だ。ただ、俊孝といきなり鉢合わせをした驚きがあるせいか、どこかぎこちない感じはするが。


 「今から帰るの?」


 純佳は、さらに質問をする。俊孝としては、もう会話を切り上げたいのだが、まだ話したいようだ。


 「うん。もう帰るよ」


 俊孝はそう言いながら歩き出し、純佳の脇を通り抜けた。もう尿意が限界だった。早くトイレに行きたい。


 「どうしたの?」


 「トイレ」


 まだ喋りたそうな純佳をその場に残し、俊孝は廊下を早歩きで進み始めた。


 背中に、声がかかる。


 「ねえ、今日一緒に帰らない?」


 その申し出に、俊孝は手だけを挙げて応じた。もちろん、一緒に帰宅するつもりは毛頭なかった。純佳の考えていることは未だにわからないが、必要以上の接触は避けるべきだろう。


 それに、これから聡史との『デート』の予約があるのだ。ダブルブッキングは人のマナーとして最悪である。先約優先なので、純佳には後で用事があるからと断ろう。


 俊孝は、男子トイレへと入り、用を足した。間に合ったと、一息つく。


 洗面台で手を洗っている時、ふと妙な感覚に襲われた。


 純佳の態度である。どこかおかしかった。俊孝と鉢合わせをしたからといって、あんな動揺を見せるのだろうか。腹に一物抱えているのとも違う、もっと直情的な反応だった。


 


 そんな思いが込み上げる。それならば、なぜ、声をかけなかったのか。


 俊孝は、教室へ入ってからの、自分の一連の動作を思い出していた。教室へ入って、俺は机からプリントを取り出し、鞄へ入れた。そして、トイレへ行こうとして、純佳と鉢合わせを……いやいや違う。その前に、俺は、通学鞄から『計画書』を取り出し、中身を……。


 気が付くと、俊孝は男子トイレを飛び出していた。汚泥のような不安が、足元から頭までせり上がる。とても嫌な予感がした。


 俊孝は、廊下を走る。そして、二年四組の教室へ駆け込んだ。


 純佳は、俊孝の席の前にいた。


 「何をしている!」


 俊孝は、純佳に怒鳴った。純佳は、驚いたように、振り返った。


 純佳の手には、例の長封筒と『計画書』が握られていた。俊孝の机の上に置いてあった通学鞄が開かれている。純佳は、狙ってそこから取り出したのだ。


 「こっちに渡せ!」


 俊孝は、純佳に詰め寄り、ひったくるようにして、長封筒と『計画書』を奪い取った。純佳は、俊孝の剣幕と勢いに息を飲み、怯えたように後ずさる。


 俊孝は、奪い取った『計画書』に目を落とす。折り畳まれていたA4用紙は開かれ、読まれてしまったことを示していた。


 俊孝は、純佳を睨む。怒りと不安が、腹の底でマグマのように煮えたぎった。


 「何で勝手に読んだ!?」


 俊孝の詰問に、純佳は喘ぐようにして言う。


 「ごめんなさい。手紙みたいな封筒を持っていたから、てっきり天海君が、誰かからラブレターを貰ったと思って、どうしても気になっちゃって……」


 「はあ!?」


 何を言っているんだこの女は。確かにこの封筒は、ラブレターに見えなくもないが、だからといって、なぜこいつがわざわざそれを確認するんだ? 行動原理がわからない。


 それとも、それは嘘で、初めから『計画』を探るために確かめたということだろうか。それならば、目的は達成したといっていいだろうが。


 いや、待てよと思う。もしかしたら済んでのところで止めることに成功し、中身まで目を通していないかもしれない。


 しかし、俊孝の希望的観測は、すぐに打ち砕かれた。


 純佳は、か細い声で訊く。


 「ねえ、その紙に書かれている内容って本当……? 人を自殺に追い詰める方法なんでしょ? もしかして今まで自殺した子達って……」


 俊孝は目を瞑りたくなった。『ゲーム』の素性は既に知られてしまっていた。万事休すか。冗談だと取り繕っても、信じてくれないだろう。これほど不自然に連続する自殺の原因を見つけたのだ。疑惑の寝を取り除くのは容易ではない。


 ならば、残る道は一つだ。


 「ねえ、答えて。天海君」


 純佳の声は、先程よりも強くなっていた。


 俊孝は、純佳に気取られないよう、周囲へ目を走らせた。一切人の姿は見えない。すでに部活動は終わりを迎え、生徒達は続々と帰路につき始めている。わざわざ用もないのに、こんな所へやってくる暇人はいないだろう。


 チャンスは今だ。証拠を見られた以上、殺すしか道はない。いくら自分が貧弱だろうと、相手は女子だ。素手でも充分、達成できる。首を絞めればいいだけだ。


 俊孝は、純佳の方へ一歩踏み出そうとした。


 そこで、頭の中に声が聞こえた。


 自分の声だ。


 本当に殺していいのか? その声はそう言った。


 声は続く。


 ここで桝本純佳を殺したとして、死体はどうするんだ? 何の準備もしていないお前が――一介の男子高校生に過ぎないお前が、女子高生の死体を処理できるとでも? 第一、この学校から死体を運び出すことすら不可能だろう。かと言って、エドワード・ゲインではないのだから、学校での処理も無理だ。考えろ。天海俊孝。


 声は、頭の中でマントラのように響き渡る。


 俊孝は、その場で踏み止まった。そして純佳を見る。純佳は、澄んだ瞳でこちらを射抜いていた。


 俊孝は、目を伏せた。じゃあ一体どうする? このまま野放しにするのか? もしも警察に駆け込んだら?


 俊孝の中で、様々な感情が、坩堝のように渦巻いていた。胸の鼓動は強く波打ち、呼吸が深くなっている。


 このままでは――。


 混迷を極めている俊孝に、純佳の声がかかった。


 「そう。わかったわ。やっぱり天海君の仕業ね」


 純佳は、俊孝が無言であることに、クロだと断定したようだ。今更弁解してもどうしようもない。


 「天海君」


 再び純佳の声がかかる。声の調子がこれまでとは違っていた。優しく嗜めるような声だ。


 俊孝は、顔を上げて、純佳の顔を見つめた。純佳の顔は、なぜか清々しさに包まれていた。


 「私、決めた」


 何をだろう。警察へ通報することをか。


 「私、天海君を改心させてみせる」


 「え?」


 言っている意味がまるでわからなかった。何て言ったのだろう。


 「だから、私が、天海君を改心させて人の道に戻してあげる。任せなさい」


 純佳は、ナチュラルショートの髪をかき上げると、エベレスト登頂を志した人間のような、決意した表情を浮かべた。


 ようやく純佳の言葉の意味がわかり、俊孝は、唖然と口を開いた。

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