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思い返せばその通りだった。幼稚園の行事も小学校の入学式も中学校の卒業式も、お父さんはいつも仕事。夜遅くに帰ってくるか、出張で家にいないかのどちらか。経済的に恵まれていたとしても、精神的にはずっと何か物足りなかった。
「母さんに任せていたから、塾や学校のことで気になることがあっても強く言えなかったんだ。今まで何もしなかった父さんが口を挟むべきじゃないって結論付けてた」
「……ずっと、お母さんの言いなりみたいだった」
吐き捨てるような相槌にお父さんは頷いた。
「杏の言う通りだよ。見付けた遺書も、きっと母さんがなんとかしてくれるだろうって丸投げした。それじゃあ、駄目なのにさ」
お父さんがふるふると首を振った後で、再度視線が交差した。
「養うだけじゃあ駄目で、ちゃんと向き合わないといけないって分かったんだ。だから杏、何があったか全部教えてくれないか」
突き刺すような真っすぐな視線。威圧的にも思えるけれど嫌な感じは全くしない。それどころかぬくもりさえ感じられた。
「頼りないかもしれないけれど、親として力になりたいんだ。杏を第一に考えて母さんとも話し合う。だからどうか話してほしい」
初めて見た心配そうな顔。初めて聞いた心配そうな声。
もう分かり合えないと思っていた。誰にも頼らず孤独に生きていくと思っていた。杏さんのように強くなりたいと思っていた。
けれどそうじゃない。私を想ってくれる人がまだいてくれる。杏さんだけじゃない。父さんもそうであってくれた。
杏さんが言っていた、私が生きる世界はもっと広いというのはこういうことだったんだ。狭い視野で自殺を考えて、家族と話もせずに逃げ出そうとしていた。
それじゃあ駄目。ちゃんと口にしないと分からない。親友と呼んでくれた杏さんでさえ、想いを伝えないといけなかったのだから。
「私ね、高校でいじめられてたの」
語りだしたのと同時に、なぜか涙があふれた。うまく話せず言葉を切りながら口にするも、お父さんは静かに耳を傾けていた。きっと内心は驚きの連続だったのだろう。声には出さずに表情で驚きを表していた。
コンビニの駐車場という不思議な場所。そこでの初めての相談は、三十分ほどで過去から今へと戻ってきた。いじめられた春から自殺できなかった夏まで。それと、杏さんのことも。
「何も知らなかった自分が恥ずかしいよ。母さんも話してくれたらよかったのに……助けられなくて本当にごめん」
深々と頭を下げるお父さん。こちらへ歩み寄ってくれた姿勢が嬉しくて、つい笑みをこぼしながら首を振ってしまった。
「相談しなかった私も悪いよ。聞いてくれて、ありがとう」
「いや、礼を言うのは父さんの方だよ。そういえば、その杏さんはどこへ行ったんだい?」
涙を拭い、深く息を吸う。そして私自身が一番知りたい問いに首を振って答えた。
「分からない。自首したかもしれないし、そのまま樹海に行ったのかも」
「分からないなら、ちょっと調べてみようか」
眉をひそめたお父さんがスマホを取り出した。見捨てられたショックで、調べるなんて思い付かなかった。自分のことしか考えていない。私もお母さんと一緒で――いや、違う。そうじゃない。
今なら分かる。一方通行な思い込みでお母さんを悪者にしていたけれど、本音で話そうとしなかった私にも非がある。きっと、多分、話し合えば分かってもらえる。お父さんもそうだったのだから、かすかな希望は持っていたい。
「お、これじゃないか?」
その声に反応してスマホを覗き込んだ。どうやらニュースサイトの記事らしい。ページの真ん中に太文字でタイトルが躍っている。
『交際相手をアパートで殺害。死体損壊と遺棄の疑いで女を逮捕』
恋人を殺したと自首した女性が、遺体遺棄も認めているといったもの。杏さんが話していたものと一致する。恐らくは本人なのだろう。
素直に喜んでいいのだろうか。見捨てられた上に杏さんは自首した。きっと私に会いたくないんだ。そのために私を置いて行ったのだから。
「あんまり嬉しくないかい?」
「生きていてほっとしたけれど、分からない。杏さんはもう私に会いたくないだろうし」
「どうして?」
「私を置いて行ったんだよ? 親友だって呼んでくれたのに見捨てて――」
「親友だからこそ、置いて行ったんだろ?」
膝に注いでいた視線が跳ね上がる。
「杏が大切だから置いて行ったんだよ。一緒に警察なんかに行ったら、知らなかったとしても遺体遺棄で捕まっていただろうし」
「それは、そうだけど」
「それに杏さんは最後に言ったんだろ?」
最後。お父さんの言葉に別れの場面を思い出す。トイレに行くと鍵を手渡して……ああ、そうだ。そうだった。
「すぐに戻るから、待ってて」
「ああ。きっと杏さんはうそをつかない人だと思うよ。だからこそ、親友として待つべきなんじゃないか?」
多分、その言葉を待っていた。
親友なのに裏切られた。親友なのに見捨てられた。そういうネガティブな感情に埋もれていた小さな希望。
それを信じられるだけの根拠が欲しかった。けれどそんなもの、いらなかったんだ。根拠も理由もなくたっていい。弱い私に必要なのは、そっと背中を押してくれる誰か。それだけあればよかった。
それがこんなにも近くにいた。本来であれば頼っていいはずの存在に私自身が逃げていた。あれこれ理由を決め付けて、まるで悲劇のヒロインのように閉じこもっていた。
もうやめよう。そんなことしている場合じゃない。私にはもう、生きる理由がある。
「罪を犯した点では擁護できないけれど、杏の友だちなら父さんも会ってお礼を――」
「お父さん!」
あごを撫でていたお父さんの腕を捕まえた。目を丸くして固まっている。その新鮮さを感じるのは後でいい。今はやらなければならないことがある。
「車って引き取れる?」
「え?」
目に続いて口までポカンと真ん丸に。説明するのは大変だけれど、何が何でも説得しないと。
杏さんと結んだ約束の第一歩。それが私の生きる理由に繋がるはずだから。
うちに着くまで二時間ちょっと。世界が徐々に明るくなるのとは裏腹に、私の表情は曇りゆくばかりだった。
狭い道路に並ぶ一軒家。その中でも地味な色合いの我が家。三日間離れていてもそれは変わらなかった。
「杏、着いたよ」
駐車場から見える玄関を凝視して、体が動かない。お父さんの心配そうな横顔が視界に入るも四肢に力を込めることはできなかった。
「母さんが怖いかい?」
目を細めたお父さん。そう言われて微かな手の震えに気付いた。これは、恐怖なのだろうか。叱られるかもしれない。怒鳴られるかもしれない。いや、これじゃない。そんなもの慣れている。それなら、一体何に怯えているのだろう。
「大丈夫。父さんもいるから」
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