43


 いつしか閉じていたまぶたの裏に鮮明に描いていく。その思い出に映る杏さんを見るたびに胸が締め付けられる。諦めたはずの心が何かを訴えている。

 何もできなくて諦めたはずなのに、私は何がしたいの。どうしたいの。杏さんにどうあってほしいの。

 ぐちゃぐちゃになった感情は、ついには外へと流れだしてしまった。しゃくり上げる声も震える肩も、杏さんには見せてはいけない。膝を抱えて顔を埋める。私のわがままで杏さんの決意を邪魔していいわけがない。けれど、けれど。

「あんちゃん?」

 木漏れ日のように降り注いだ暖かな声。意識を外へ向ければ、すぐそこに杏さんの気配を感じる。こちらに目をやる杏さんの表情は簡単に分かった。

 心配そうにこちらを見下ろす顔。それを想像するだけで涙が止まらない。胸の痛みが増していく。どうしたらこの痛みはやむのだろう。どうすれば涙は止まるのだろう。

 答えのなかった痛みから逃げるように、顔を上げた。想像が現実のものとなった瞬間、本音があふれるのを抑えきれなかった。

「嫌、です。駄目です。駄目、どうして」

 意味のない拒絶が呼吸するように口から漏れる。死んでしまうのが嫌。別れるのは嫌。いなくなるのも嫌。

 どうして二度と会えなくなってしまうんですか。そう告げたとしても杏さんはきっと首を横に振る。それを知っているからこそ、これ以上は何も言えなかった。

「あんちゃん落ち着いて。大丈夫、大丈夫だから」

 涙でぼやける視界の中、杏さんが困ったように目を泳がせている。そんな顔を見たかったわけじゃない。ずっと笑っていてほしかっただけなのに。

「もしかして怖くなった?」

 杏さんがしゃがみ込んで手を握ってくれた。違う、そうじゃない。自分の命なんかいらない。ただ杏さんが生きていてくれれば――。

「すごく、怖いです」

「うん、うん。怖いよね。死んじゃうもんね」

 頭を撫でてくれる優しい手。涙も鼻水も拭わずに、しゃくり上げながら頷いた。この姿に杏さんは心打たれるだろうか。心許ない最後のチャンスに杏さんは心揺さぶられるだろか。

 私が死ぬのをやめた時、杏さんも生き続けてくれるかもしれないという一種の賭け。誰かと死ぬという連帯感を失った時、杏さんがどう動くかは分からない。しかしとっさにひらめいた最後のチャンスに賭けるしかなかった。これで駄目ならもう、命を委ねるしかない。

「死にたく、ないです。怖いです」

「……そう」

 手の動きとは違い、どこか寂しげな声色にどきりと胸が鳴る。今のはどちらだろう。死ねなかった諦めか、それとも一人で死ぬ決意か。歯を食いしばって恐怖を抑え込み、杏さんの顔へ目を向けた。

「それなら私、一人で死ぬね」

 視界が急に遠退く。見えていたはずの杏さんが焼き焦げるように黒く染まっていく。杏さんが振り返った先、岩に敷かれたハンカチの上で佇む彼氏さんが見えた。

 そんな、嫌、違う。どうして生きると言ってくれないの。どうして離れていってしまうの。耳のそばで聞こえるような鼓動と、言葉すら選べないほどの衝撃。口から出るのは荒い呼吸だけだった。

「あんちゃん」

 頬に添えられた手によって杏さんと目が合った。

「今までありがとう。私のわがままについてきてくれて、すごく嬉しかった」

「あ、や、そんな」

 首を振ろうとしても顔の皮が揺れ動くだけ。目を細める杏さんに、まるで何をしても無駄と言われているよう。

「できるのなら最後まで一緒にいたかったけど、親友に無理強いはできないもんね」

 今、確かに聞こえた。私に対して使われることのなかった言葉。けれど胸に宿った温かいものを標にゆっくりと口を開いた。

「親友?」

「ええ」

 杏さんの表情が和らいだ。

「一方通行だけど、私はあんちゃんと一緒にいてすごく楽しかった。だから親友。誰よりも大好きで、初めてで、一番の親友」

 幾度となく見てきた柔らかい表情に、余計な思考は全て消し飛んだ。

 杏さんが頑固だから聞いてくれない。

 死にゆく私がそれを言うのはお門違い。

 うそに全てを賭けよう。

 そんなのいらなかった。親友に画策もうそもつく必要なんかない。ただ伝えればいい。心の真ん中にあった想いを。

「死なないで、死なないでください。杏さん!」

 地面に膝を突いていた杏さんに抱き着いた。バランスを崩して尻餅をついた杏さんをつかみ、さらに強く力を込める。

「ちょっとあんちゃん、待って、落ち着いて」

「死んじゃ駄目なんです。死んでほしくないんです! お願いします、お願いします、お願いします!」

 華奢な胴体へ抱き着いた。呪文のように何度も何度も懇願し現実が変わるよう、心の底から祈った。側から見ればみっともない光景なのだろう。高校生にもなって泣きじゃくって、涙も鼻水も流したまま抱き着いて。

 けれどそんなこと気にならない。プライドも尊厳も何もかもいらない。全てを失っても杏さんを生かしたい。生きていてほしい。私より一秒でも長く生きて笑っていてほしい。

 他人に死んでほしくないなんて初めて。でもそうしてもらうために私は今ここにいる。そのために生まれてきたと確信できるほど、杏さんと離れたくなかった。

「私なんか、生きていても仕方ないよ」

「そんなことありません。杏さんがいないと駄目なんです。私、杏さんに出会えて本当に幸せだったんです」

「嬉しいけど……彼が私の全てなの。私の世界そのものだったから」

 後ろ手を突いていた杏さんが姿勢を正した。胴に抱き着く私に手を当て、まるで子どもをあやしてるよう。けれどもただ宥められるわけにはいかなかった。

「彼氏さんを愛する気持ちは否定しません。だけどそんな狭い世界に閉じこもるのは、違うと思います」

 抱き着いていた腕を解き、苔だらけの地面に座り直した。涙を拭い鼻水をすする。猫背をしゃんと伸ばしても杏さんより低い目線。

 こちらを見下ろす杏さんは鋭い視線で私を射抜いている。怖い。嫌われるのが怖い。だけども親友としての役割を放棄する方がよっぽど怖かった。

「杏さんが生きる世界はもっと広いはずです。現に杏さんが私の世界を広げてくれたんです」

 黒く濁った眼から逃げすに告げる。杏さんは答えてくれない。

「人との関わり方や、誰かと一緒にいる楽しさを教えてくれたんです。それこそ私の世界を作ってくれたんですよ。ずっと孤独だと思っていた私に、独りじゃないって言ってくれたじゃないですか」

 杏さんが一瞬だけ目を見開き、すぐに顔を背けた。けれどもすぐに険しい顔つきでこちらに目をやった。

「その言葉は嬉しいけれど、これから死ぬあんちゃんに、私の生き死になんて関係ないでしょ?」

 視線に込められた敵意にたじろぐ。言葉の裏に隠された真意を汲み取り過ぎて胸が締め付けられる。けれどもまだ伝えたいことを口にしていない。それまではどんな痛みだって耐えられる。

「つい三日前に出会った赤の他人が死ぬ。それだけよ。私がどうなろうがあんちゃんには何の影響も――」

「私が悲しみます!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る