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 笑みを残し、人の波をかき分けて森の駅へ入ってしまった。動き続ける人混みで立ち尽くすわけにもいかず、建物横の小さなスペースに逃げ込んだ。

 日陰にひっそりと設置された自販機と小さなベンチ。まるで隔離されたような小さな空間。

 木製の硬いベンチに腰かけ荷物を降ろした。重い物なんか入っていないのに妙に肩が凝る。死ぬことに緊張を、いいや違う。休憩している場合じゃない。杏さんを止める方法を考えないと。

「そんなの、できるのかな」

 背を丸めながら空を見上げる。影になっているこちらからは太陽は見えず、清々しいほどの青空が広がっている。その透明度に、脳裏にあった杏さんの表情をいくつも並べてしまった。

 喜怒哀楽はもちろん、細かなしぐさも困った表情も。恋をした時はこういう気持ちになるのかな。杏さんに対しては友愛だろうけど、多分似たようなものだろう。

 またも考えが脱線してしまう。いつの間にか育った諦めがそれをよしとしてしまう。これから死ぬ人間が、人の生き死にを思うこと自体間違っているのかな。どうせ死ぬのなら、最後まで杏さんと一緒に――。

「こんにちは」

 視界の外から届いた声。明らかに杏さんではない男性の声に、思わず飛び上がってしまった。

「ああ、驚かせてごめんね。自殺防止活動をしている者なんだけど、少し質問させてもらっていいかな? 今日は観光?」

 一瞬だけ呼吸が止まった。この人が声かけ隊。あれこれ考えていたはずの思考はぴたりと止まり、指先が徐々に冷たくなっていく。

「え、あ、はい」

「一人で?」

「い、いえ。えっと、と、友だちと一緒にです」

 明らかに挙動不審。髪をいじる手はわずかに震え、受け答えもかなり怪しい。まともなのは服装だけで、後は全て声かけの対象になってしまった。

「どうやって来たの?」

「車で、来ました」

「君が運転して?」

「いえ、友だちがです」

「お友だちが?」

 いぶかしむ視線はずっと私に向けられたまま。素直に年上の友だちと伝えるべきか。いや、年上の友だちと来たと言って怪しまれたらどうしよう。

 事務所に連れて行かれ、死ねなくなったらどうしよう。いや、それでいいんだ。杏さんの自殺を阻止できるのだから。

 保護されて家へ帰されてしまうけれど、杏さんも保護されて警察に……いやいや、そうなれば杏さんはきっと逮捕される。

 捕まった後、出所するまで生きている確信は全くない。かといって話さなければ死んでしまう。どうすれば、杏さんに生きていてもらえるのだろう。

「なんだ。こんな所にいたんだ」

 不穏な空気を割いた明るい声。喧騒の中から杏さんが姿を見せた。

「急にいなくなるからびっくりしたよ。こちらの方は?」

「あ、あの、えっと」

 二人の間で視線を行き来していると、男性が首からぶら下げた許可証のようなものを杏さんに見せた。

「自殺防止活動をしている者でして、少し質問させてもらっていたんです。もしかしてお友だち、ですか?」

「友だち?」

 杏さんのまばたきと、目を細めた男性。真実しか口にしていないのに、最悪の未来へと近付いている予感がする。

「ああ、そういうことね。この子、友だちの妹なんです」

「妹?」

 男性と同じように声を出して驚きかけるも、目を見開くだけに抑え込んだ。

「私、大学で植物学を専攻しているんです。夏休みにフィールドワークで青木ヶ原樹海に行くって友だちに話したら、妹も連れて行ってほしいって頼まれちゃって。樹木の分布に興味があると聞かされたら、つい嬉しくて」

「なるほど。友だちというのは?」

「ここに来るまでに仲良くなったんです。何か問題が?」

 根拠のない自信と真っ赤なうそ。思わず目を見張る。ここまでハキハキと受け答えのできる人間が自殺するだろうか。何も知らない人から見れば、ただの観光客にしか見えない。

「お時間を取らせてしまってすみません。気をつけて楽しんでくださいね」

 杏さんに続いて私にも会釈をし、男性は人混みの中へと消えた。何も、できなかった。予想もしなかったことにただ驚き、成り行きを見守っていただけ。私は何がしたいのだろう。

「いやー、気付かれなくてよかったね」

 杏さんが腰に手を当てて深く息を吐いた。

「声かけは二人でやるって聞いてたけど、片方はトイレに行ったのかな。ほんとラッキーだった」

「あの、杏さん、えっと」

「お礼なんかいいよ。それより樹海への行き方、聞いてきたよ」

 差し伸べられた白く細い手。その手を取るのが怖い。取ってしまえば終わり。このまま樹海へ消えてしまう。

 自分が死ぬことに恐怖はない。未練もない。何もない人生がただ終わるだけ。しかし杏さんの存在が消えてしまうのは怖い。もう笑うこともなく、あの冗談も聞けない。繊細な気遣いも、見ただけで胸を痛める涙も見ることはない。

「あんちゃん?」

 私の中の何かが、杏さんへ手を重ねた。

 か弱い力で引っ張られ、杏さんについて行く。胸に巣くった諦めが、全てを終わらせようとしている。

 どうせ死ぬのだからどうだっていい。初めての友だちと終わりを迎えられる喜びを噛みしめよう。そんな甘い言葉に脳が侵されていく。もうどちらが本心なのか分からない。

 杏さんを救いたかったのか、一緒に死にたいのか。思考が目まぐるしく回る中で、帽子越しに頭を熱する太陽に操られたように人混みに飛び込んだ。

「こっちは溶岩洞窟に行く道なんだって。途中から散策コースに入れるけど、もう一つ別の道がおすすめらしいよ」

 杏さんの説明も耳から耳へ抜けていく。とぼとぼと歩く姿はどう映っているのだろう。また声をかけられてしまうのだろうか。その時私は、いや、もういい。私なんかが救おうとしたことが間違いだったんだ。

 人の群れから離れ、駐車場を横切った。今にも倒れてきそうなほど駐車場へ枝を伸ばした木の下を歩けば、いかにも樹海へ繋がっていそうな道が現れた。

 車の侵入を防ぐようにポールがあるだけで、看板や標識は見当たらない。それに加えて剥き出しの土と大木の根が這っている。いかにもな入り口に、つい生唾を飲み込んだ。

「思ってたより明るいね」

 杏さんが足を踏み入れた。その後ろ姿を追う。木々がトンネルのように覆い被さっているものの、空の青さも木漏れ日もよく見える。陰湿な場所だと思い込んでいたけれど、これなら観光客が押し寄せるのも頷ける。

「行こう」

 杏さんが被っていた帽子を取り、リュックへと仕舞った。栗色の小さな尻尾がそよ風に揺れている。

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