29
「ご両親にも挨拶がしたくて、実家の場所を……」
念仏のように聞こえていた悲しい惚気。それが突然やんだ。
「杏さん?」
ハンドルに手を置き、じっと前を見る杏さんは石像のように動かない。
「あの、どうかしましたか?」
「思い付いた」
突然ハンドルを切った杏さん。駐車スペースを見付けたのかと思いきや、駐車待ちの列を離れ、つい先ほどくぐったアーチ状の入り口を出てしまった。振り返れば遠ざかる遊園地。別の思い出の場所を思い出したのだろうか。
「あの、どこへ?」
「彼の実家。場所だけは教えてもらってたの」
こちらを見ることなく、じっと前だけを見据える杏さん。まるで猪のようで不安になってしまう。
「別れてしまったのに、行くんですか?」
「そんな小さいこと気にしないで。いつか思い出の場所になるから」
よく分からない理論にも頷くしかない。爛々と輝く目、にんまりと口角の上がった口元。興奮気味というか、何かに憑りつかれたようにも見えた。
「案内は、どうしますか」
「しっかり覚えているつもりだけど、迷ったらお願いしてもいい?」
「はい」
そう答えた後、杏さんは口を閉ざし彼氏さんの実家へと急いだ。いつもより速く景色が流れていく。信号で止まる際も急ブレーキのように前へつんのめる。杏さんの気持ちが手に取るように分かって仕方がなかった。
「あの突き当りを左だったはず」
杏さんの表情ばかり気になり、いつしか住宅街に入り込んでいることすら気付かなかった。きれいめの一軒家やマンションは一切なく、ただ古びた家とアパートが並ぶ町並み。なぜか理由のない胸騒ぎがする。
「よく、ご実家の場所を覚えてますね」
胸いっぱいの不安を吐き出そうと、つい口を開いた。
「それが不思議なんだよね。方向音痴で地図を見るのも苦手なのに、ここだけは一度聞いただけでずっと覚えてるの。なんでかな」
「不思議、ですね」
深く考えれば答えは出るのだろう。しかし何かがこれ以上深追いするのを拒んでいる。つまらない人生で得た経験だろうか。とりあえず様子見と口を噤んだ。
真昼間の住宅街に人の気配はない。誰もが家の中で涼んでいるのだろう。こんな暑い中で外になんか出たくない。寂れた家々がそう語っているような気がした。
まるで路地のような道をのろのろ走り、ようやく突き当りへと到着。杏さんの記憶なら、ここを曲がれば彼氏さんの実家。けれども実家に行って何をするのだろう。
まさか荷物を預ける? 会ったこともない彼氏さんのご両親に? さすがに常識というか論理というか、いろいろと飛ばし過ぎている。彼氏さんに連絡を入れたのだろうか。とうに別れているのに? 考えれば考えるほど混乱してしまう。
シートから背を離し、前のめりに成り行きを見守る。狭いT字路をゆっくり左に曲がった先、奥に古びた二階建ての家屋が見えた。それから、パトカーが二台。
「戻るよ」
疑問を声に出す前に、急に車が後ろに下がった。慣性でフロントガラスへつんのめる体。バック音が響く車内。杏さんが慣れた手つきで転回し、来た道を戻って行く。呆然として視界を妨げる髪の毛を払うこともできない。
「あんちゃん。ねえ、聞いてる?」
語気の強い声かけに我に返った。
「お願いがあるの。聞いて」
「はい」
「今から静岡に行くから、ルート検索して」
「静岡?」
「そう。今日泊まるホテルも探したいから、とりあえず富士山近くのコンビニまで案内して。できるだけ県道と国道を通らずに、高速に乗るルートを」
背筋の凍るような、あの冷たい視線。慌ててスマホを取り出し、言われたとおりに指を動かしていく。しかし表示されたのは杏さんの希望にそぐわないルートばかり。高速に乗るには、必ず大通りを通らないといけない。
そもそもなぜ避ける必要があるのだろう。それに彼氏さんの実家に行かなかった理由は? なぜ逃げるように遠ざかったのだろう。
「あの」
「何」
短い返事の後、赤信号で車は止まった。
「どうしたの?」
かつて見た冷たい瞳がまだそこにある。穏やかな空気が崩れ、緊張に汗が滲む。今にも呼吸が乱れそうな中、口から飛び出したのは脳裏に焼き付いたあの疑問だった。
「パトカーが止まってましたけど、何かあったんですか?」
なぜ私は聞いたのだろう。これも本能的な勘なのだろうか。自分で口走った意味を必死に考え込んでいると、杏さんがシートにもたれて天を仰いだ。
「分からないけれど、今は近付かない方がいいと思って」
「そうなんですか?」
天井からこちらに流れた杏さんの視線。胸が詰まるような温度をしている。
「あれこれ聞かれて、私とあんちゃんの関係性も尋ねられるよ。そうなったらどう答えればいいの?」
「それは、あの」
さらに強くなった語気に何も言い返せない。
「ヒッチハイクだって信じてもらえると思う? 荷物検査されて遺書なんか見付かったら一大事だよ。そういう面倒ごとを避けるために逃げた。これでいい?」
突き刺すような視線と刺々しい言葉。背中を伝う冷や汗が気持ち悪い。額に触れれば汗が滲んでいるかもしれない。けれどその動きすらも逆鱗に触れそうで怖かった。
けれどもこれはただの意見交換。そう、それだけに過ぎない。それに杏さんに悪意は全くないのだろう。厄介ごとから助けてくれただけ。杏さんとの旅を終わらせたくないと願っていたくせに、そんなことも分からない自分が恥ずかしい。恩を仇で返そうとしていた自分が情けない。
「余計なことを聞いて、すみませんでした」
「説明不足だった私が悪いから。それよりルートは出た?」
杏さんの表情がふっとほどけるのと同時に、車も動きだした。
「えっと、県道か国道のどちらかを通らないと高速には行けないみたいで」
「ほんとに? 抜け道とか路地裏もないの?」
体を傾けてスマホを覗く杏さん。ふわりと柑橘系の香りが鼻をくすぐった。
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