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はにかみながら頭を下げる杏さん。怒ってはいないけれど、その笑顔には癒やされた。きれいなのに子どもっぽくて、周りもつい笑顔になる杏さん。うらやんでも意味がないと分かっていても、ついため息が漏れてしまう。
「持ち帰り用のパンとパック、お持ちしました」
店員から受け取り、とんかつをパンで挟んでプラスチックのパックに仕舞った。持ち帰るとして、どこで食べようか。
「とりあえず出よう。外で待ってる人もいるだろうし」
杏さんがお盆を持って入口へ。片付けはセルフか。杏さんが戻ってくるのを見計らい、自分のお盆を片付けてパックを手に入り口へと向かった。
「あの、ありがとうございます。ごちそうさまでした」
「いいのいいの。また機会があったら一緒に来ようね」
ぎこちなく笑ってみせた。そのまま外へは出ず、会計する杏さんの横で待つ。なんだか一人で外に出るのは気が引けたから。
「坂本さん、ごちそうさま!」
「また来ておくれよー!」
「はーい」
手を振る杏さんの横で小さくお辞儀をし、ガラス戸を引いた。外に出れば道に沿って何人か並んでいる。こんな炎天下で並んでまで食べたいお店。あのとんかつを食べた後なら、その気持ちはすごくよく分かる。
「ねえあんちゃん」
待機列を追っていた視線を杏さんへ戻した。
「これからのこと、少し詳しく話しておかない?」
「え、はい」
真面目な話の予感。とんかつ入りのパックを両手で持ち、背を伸ばした。
「あんちゃんの目的は富士急ハイランドだったよね」
「はい」
「どんなスケジュールか聞いてもいい?」
「すけ、じゅーる?」
歩道の真ん中で足が止まる。ポカンと立ち止まっていると、一歩先を歩いていた杏さんが戻ってきた。
「まさか日帰り? 夜もヒッチハイクで帰ろうとしてるの?」
「まあ、そうですね」
「さすがに危ないでしょ」
真剣な目と視線が交じる。そのすごみに胸の奥がきゅっと締め付けられる。
「ご両親にも日帰りだって伝えたの?」
「それは、あの、心配かけないように二泊三日だと」
顔をそらしてにらむような視線から逃げた。
「そっか。うん、なるほどね」
独り言のように呟き、杏さんが再び歩きだした。横に並ぶのは怖くて、去りゆく背中について行く。
街路樹と同じように並んだ木漏れ日を踏みながら、杏さんの背中に不安を投げた。今思うと不用心だった。きっとそれを杏さんは心配してくれたんだ。
それでも、急に黙り込んだ理由は分からない。何を言おうか思案しているのか、それともただ満腹感を楽しんでいるだけなのか。憂いが膨らんでいく。両手で抱えられないほど大きくなっていく。
かつて毎日感じていた嫌な気分。杏さんと会ってまで感じたくない。吐き出そうとするけれど、口は重く開こうとはしない。
恐らく杞憂なのだろう。怒らせたという被害妄想で終わる話。そう分かっているのに、急激に存在感を増した恐怖に思考が目まぐるしく変わっていく。思い付く限り、最悪の未来が浮かんでは消えていく。
「ねえ」
足を止め振り返った杏さんにぶつかった。少しずれた眼鏡を戻すと、思っていたものとは全く違う表情がそこにあった。
「変な悲鳴。でもあんちゃんらしい」
小さく笑う杏さんのポニーテールが小刻みに揺れている。
「らしいですか」
「うん。それよりも提案があるんだけど」
「……はい。ここまで、本当にありがとうございました」
深く頭を下げ、とぼとぼと踵を返して――。
「待って待って。どこ行くの?」
「どこって、またヒッチハイクしようと思って」
「はい?」
この反応は、また間違えたのだろうか。
「車から降りてほしいって話ですよね」
「何がどうなったらそうなるの?」
「いやだって、私が怒らせたんですよね?」
「怒ってないよ。それにあんちゃんとはもっと一緒にいたいもの」
温かい言葉と満面の笑み。胸の奥にはびこっていた痛みが一瞬で消えた。
「よかったら私と旅してみない?」
「旅?」
「そう。富士宮にある実家へ行く話はした……よね?」
たび重なる言い忘れのせいか、確かめるように疑問符を置いた杏さん。こくこくと頷く。不安げだった表情が晴れた。
「富士急ハイランドへは、実家がある富士宮市を経由して行くつもりだったの。でもあんちゃんさえよければ、あちこち寄りながら二泊三日ぐらいの旅をしてみない?」
「乗せてもらった上に旅行まで……」
「あんちゃんを乗せたのは誰のわがまま?」
「杏さんの、です。一応は」
「だから旅行も私のわがまま。必ず富士急にも連れていくし、帰りも送ってあげる。あんちゃんは旅費も食費も気にせず、ただ来てくれたらそれでいいから」
「旅費はさすがに、あの、貯金を崩して持ってきたので」
いつかヒッチハイクのためにと、五年かけてためた三十万円。杏さんとの旅行に使えるのならば惜しくはない。
「それはまた別の機会に使って。お願い。一緒に来てほしいの」
両手を合わせた上目遣い。こちらを見る杏さんに心が揺らぐ。できれば真っすぐ目的地へと向かいたい。けれど、杏さんを見捨てられない。かつて縛られていた他人の気持ちに、またもや悩まされる日が来るとは思ってなかった。
「あんちゃんと会ったのは運命だと思うの」
地面へ落ちていた視線が杏さんの目へ向けられた。曇り空の下、肺を焦がすような熱い空気を深く吸っても目をそらせない。
「ヒッチハイクで会った人と名前が似ていて、しかも目的地も近いって運命だと思わない?」
「それは、まあ」
「だからあんちゃんと行きたいの。理由に、ならないかな」
定食屋で威勢よく話していた時とは別人のよう。愁いを帯び、何かに怯えているようにも見える表情はまるで――違う、そんなことはない。私と同じなんて失礼にもほどがある。ぶんぶんと頭を振って杏さんと目を合わせた。
「私で、いいんですか」
自分の必要性を確かめるずるさ。こうでもしないと首を縦に振れなかった。杏さんをまだ信用しきっていない自分が嫌になる。
「あんちゃんじゃないと嫌」
杏さんの射抜くような視線。この旅行ではきっと何も生まれない。分かっているけれど、自分を必要とした人を裏切りたくない。それが生まれて初めてなら尚更だ。どうせ短い旅路なのだから、最後にちょっとだけ寄り道してもいいだろう。
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