第17話 喪失

 防衛線と化した病院受付。簡易的なバリケードが作られ、完全武装の警察官が的確な配置についている。その内部、椅子に腰をかけた雲霧優はゆっくりと息を吐いた。


 「そうか」


 誰にも聞こえぬような声で呟く。六徳花子の死にかけられる言葉はそれしかない。傷の出血は収まらないが気にならなかった。それよりも胸の奥が強く痛んでいる。静かに頬を伝う涙はそのためだ。望むと望まないに拘らず生命には死は必ず訪れる。食物連鎖の自然界を考えれば殺されることは珍しくない。そうやって頭の中で理屈を組み立てても、喪失感を埋められなかった。人と人が出会えば、魂が行き交う。言葉、表情、所作。どれもかけがえないの無い情報だ。1bitたりとも消したことはない。


「会いに行かなくてええんか? 私と同じぐらい大切な人なんやろ」


 一条叶が尋ねる。六徳花子の訃報は彼女が伝えてくれた。付き合いは知人の誰よりも長い。その気遣いはありがたいが、問の答えは既に自分の中で出ている。


「彼岸の見送りは家族水入らずでさせたい。それに、彼らを支えるには私の手は汚れすぎた」


 雲霧は静かに目を閉じる。瞼の裏には自分が殺した人間の顔と名前が無数に浮かび上がった。命の熱が手の内で冷める感触が消えることはない。絶えず痛みを与え続けてくる。それでも手を止めないのは六徳仁のような犠牲者――自分が人であるかのように振る舞ったせいで死ぬ者――を二度と生まない為だ。しかし、結局は六徳花子を守れなかった。糸の切れた凧のように浮いていた若者を繋ぎ止めてくれた優しい夫婦はもういない。一緒に囲んだ食卓で食べたご飯が美味しかった。生きていても良かったのだと安堵のあまり涙を流した。心の底から伝えたかった感謝を彼らは知る由もない。


「……私らの実力不足や、どう謝っていいか分からへん」


 一条は目を伏せる。それを制するように、雲霧はゆっくりと右手を掲げた。


「よせ。君達はよくやってくれた。正しい選択を恥じる必要はない」


 部下を責める気はなかった。人間の選択は意志の具体化であり、結果のみを見るべきではない。彼らは六徳花子を必死に守ろうとしてくれた。敬意を表することはあっても、侮蔑することはない。全ての責任は管理者の自分が背負う。


「……ありがとう。分かってると思うけど、私が死ぬ時は絶対会いに来てな」


 微笑みと共に訪れる静寂。微笑む一条に対して雲霧は眉一つ動かさない。そして、何事も無かったかのように雲霧は口を開いた。


「分かった」


 いつもと同じ声に一条は何を思っただろうか。それは分からない。彼女は何も言わず、止血ガーゼを取り出して雲霧へと近づく。



 ――――――――

 

 会長室の扉から静かに響いた3回のノック。ブラームスのドイツ・レクイエムに混じった雑音を天道は聞き取っていた。しかし、何も言わずメロディを聞き入る。人と要件は分かりきっていた。今は友人の母を弔ってやらなければならない。曲が終わるまで待たせるつもりだったが、扉は返事を待たずに開かれた。


「老人をからかうな、天道」


 蜂須恵が顔を歪めながら部屋へと入る。どうやら見通されていたようだ。出世できなかったとはいえ長い年月を生きただけのことはある。頭を下げる代わりに天道はレコードの針を上げた。六徳花子よ、安らかに眠れ。


「悪かったな。準備お疲れ様」


 蜂須恵はため息をつき、苛立ちをかき消した。老兵が上下関係を忘れることはない。従順な態度に天道はサムズアップを示す。昔気質の年寄りも革新的な若者と同じぐらい魅力的だ。


「……ああ。しかし、本当に開催するのか?」


 蜂須恵の懸念に天道は苦笑する。彼が準備に奔走し、開催を迷うのは中世期グループの創立記念パーティ。過ぎ去った時の長さを本気で祝うわけではなく、支配下に置いた代議士や公務員の忠誠心を確認する場だ。重要ではあるが、刺客に居場所を知られるリスクは無視できない。安全確保を優先して中止にするべきだ。その論理は筋が通っている。


「もちろん」

 

 しかし、弱者の論理だ。リスクの無い選択は存在しない。注目するべきはリスクとリターンのバランス。潜伏は他の選択よりリスクは低いが、リターンがそれ以上に低すぎる。


「俺達は彼らの居場所を知らない。なら来てもらうしか無いだろう」


 戦いの火蓋は既に切られた。彼らは一睡もせずにこちらを探している。表向きはメガベンチャー企業のCEOを務める天道が地下に潜り続けることは不可能だ。いかなる警護も必ず隙があり、刺客も必ずそれを見つけ出す。逃げ続ければ、薬剤耐性を抱えた患者のように死を待つだけだ。主導権を握るために狩場をこちらで用意する。彼らを突き動かすのは恨みにも似た感情だ。罠だと見抜いても立ち止まれない。攻勢で前のめりになった敵へカウンターを仕掛けるのは戦闘の定石だ。

 同じ立場なら君も同じことをするだろう? 雲霧優。


「なるほど、呼び水か。しかし、参加者に危険が及んでもいいのか?」


「そこはお前たちを信頼している。誰も殺させるな」


 天道は蜂須恵の肩に手を置いて柔らかく力を込めた。何も心配しなくていい。金や女で釣れる雑魚などいくらでも替えが効く。会場ごと吹き飛ばされようと致命的な損失を負うことはない。


「承知した。任されよう。だが、今の敵は刺客のみではない。公安まで来たら対処はできん」


 公安、雲霧優。その名を聞いて不思議と胸が高鳴った。来てくれるなら歓迎しよう。彼にはもう一度会いたい。何故そう思うのかは分からなかった。


「それはない。雲霧は病院を離れないだろう。俺がチンピラを送り込まないとは確信できないからね。六徳花子を守れなかったからと、他の患者を見捨てるような男ではない。もし来るとしても戦力の大部分を残してくるはずだ。今宵は刺客と俺達の一騎打ちになると思って良い。夜明けには決着が着くだろう」


 天道はネクタイを締め直し、襟を正す。揺れるスーツが僅かに触れた9ミリ拳銃は点検済みだ。安全装置を外せばすぐに撃てる。


「……楽しそうだな」


 蜂須恵は不機嫌な声を出す。自分だけが気を張り詰めているのが気に入らないらしい。老人の怒りに若者は笑みを崩さなかった。


「当然だ。金勘定より面白いだろ。本来ヤクザなんて切った張ったの世界だ。弱いやつは全身死に、強い奴だけが生き残る。そういう修羅場でこそお前の才能は光り輝く」


 蜂須恵は威信をかけて沈黙を貫いたが、表情が明らかに和らいだ。可愛い奴め。天道は蜂須恵の肩を叩きながら、部屋の扉を開いた。


 ――――――――

 

 立華禄はゆっくりと部屋の扉を開く。夜に入るのはあの日以来だ。冷たい空気が頬を刺し、体を大きく震わせる。立華は抑えつけるように両手を交差して肩を抱いた。月明かりが僅かに挿し込むリビングルームは不気味なほど薄暗い。あの日、妹に蛆虫がたかった夜もそうだった。


「家に帰ろう、七菜」

 

 全てを失ったあの日、涙を流し尽くした立華は妹を背負って家に帰った。遺体を一人で運ぶことは非常識だったらしい。ゴーストになってから役所から注意を受けたが後悔はなかった。家族なら分かり会える。自分たちの浅はかで幼稚な願望を叶える為に彼らは父を母と妹に差し向けた。殺しても憎しみが消えないであろう敵に遠慮して家族の時間を手放す人間がどこにいる? 今やり直せるとしても同じことをする。


「だから、まだ傍にいてくれよ……」

 

 足取りは重かった。命が潰えた体は信じられないほど軽い。彼女は旅立った。もう背中にはいない。突きつけられた現実を背負って兄は家へと帰った。


「ただいま」


 玄関を開けると母がいた。何年かぶりに二人で帰ってきた兄妹を見て、静かに手を貸した。布団に妹を下ろすまで母は何も言わない。物言わぬ顔をしばらく見つめ、やがて静かに涙を流し始めた。


「ごめんね、七菜。こんなお母さんで辛かったよね」


「……母さんは何も悪くねえだろ。謝らなくて良い」


 呆れながら禄はほっと一息ついた。ここ最近、母の精神は珍しく安定している。妹の死をきっかけに再び崩れるかもしれないと恐れていたが、杞憂に終わった。


「そうね。禄の為にもちゃんとしなきゃね」


 真っ直ぐ見つめられ、禄は思わず目を逸らした。母が回復したきっかけは自分が体を壊したことだろう。借金返済を終えたとき、立華禄は限界を向かえていた。度重なる過労に睡眠不足、生まれつき強壮な体は十代とは思えぬほど衰弱していた。しかし、禄は病院を抜け出して職場に向かうつもりだった。未来はとうの昔に捨てている。七菜が高校生を終えるまででいい。自分で自分の道を選べるようになれれば手助けは不要だ。


「もう働いちゃだめ。親の言う事を聞きなさい」


 破滅を恐れない禄を止めたのは母だった。彼女は一人で禄の退職や生活保護の手続きを終え、見舞いに訪れた。落ち着いた母に喜ぶ一方、禄は気が気でなかった。生活保護の手続きにより、役所から父に連絡が行くかもしれない。今の自分に二人を守れる力はない。あの悪魔にまた家族を壊される。


「勝手なことをするな、あいつが来たらどうするんだ」


「何も心配しなくていい。大丈夫よ」


 立華禄の視界がぐにゃりと歪む。微笑む母は視界に入らない。彼の目に映るのは父親に殴られる自分を見る母だった。また父が来ると半狂乱で叫ぶ母だった。二人の子どもを振り回し続けた母だった。


「うるせえ! 弱いくせに余計なことすんな! 何の役にも立たねえんだよ! 役所のクズに頭下げなくたってな、俺が必ず2人を守って……」


「禄」


 静かな声が絶叫を切る。禄は荒い息を吐きながら、現在の母を見た。容姿は変わらない。身長が低くて、細くて、今にも倒れるのではないかと心配になる女性。子どもの時から弱いと思っていた、だが、今は父よりも強く見えた。


「貴方のことは誰が守るの?」


 視界がぼやける。双眸から涙を流し、禄はベッドのヘッドボードに体を預ける。何か大きくて柔らかいものに包まれているような不思議な感覚。ひどく落ち着いて今にも眠りに落ちそうだ。生まれて初めての経験に立花録は言葉を失った。


「今まで辛い思いをさせてごめんね、禄。私と七菜を守ってくれて本当にありがとう。でもね、私は禄のお母さんで、禄と七菜は私の子供なのよ。親として望むのは私ではなく貴方たちの幸せ。戦うことは私の役目。もうお父さんがきても大丈夫。たとえ刺し違えてでも私の家族には指一本触れさせない」


 母が去り、夜が訪れてからも涙が止まらなかった。そして、信じられないほど深く眠った。眩い朝日に照らされて目を開くと祝福されているような気分になれた。今まで考えもしなかった未来が見えてくる。体が治ったら高卒認定資格をとって夜間大学に通いたい。今度はやり甲斐を持って仕事をする。望む道を光で照らすと、心が浮足立つ。だから、奈々が病に倒れても大丈夫だと思っていた。薬を飲めば治る病と医者から聞いて油断していた。いくら幻想で心を癒やしても、現実は理不尽なことで溢れているというのに。


「そうね。泣いてないでちゃんと見送らなくちゃね。安らかに眠れるよう」


 自分にできるだろうか。妹の死を受け入れて、彼女がどこかで見守ってくれていると信じて生きていけるだろうか。チャイムが鳴っても動かなかったのはそのためだ。気づけば母は動いていた。情けない。涙を拭いて立ち上がらなければ。天国にいる彼女が罪悪感で苛まれないように、しっかりと。妹の手を握り、胸元で組ませる。こんな夜更けに誰が訪ねてくるのかと疑問が浮かんだのはその時だった。振り返った瞬間、母の悲鳴が甲高く鳴り響いて耳をつんざいた。


「母さん!」


 慌てて振り返ると複数の男達が土足で踏み入ってきた。誰だ、そんなことを思うなく頬に灼熱が走る。痛みにあえぐのもつかの間、息が出来なくなった。首に巻き付く縄の感触は酷く不愉快だ。霞む視界の端で見えたのは気味の悪い笑みを浮かべた男。まるで宝を見つけた盗賊のように七菜の頬を撫でている。


「良かった、良かった。まだ使えるな。腐る前にここでやっちおう」


 七菜の入院着に手をかけ、腰のベルトを外す男は蛆虫に見えた。それを羨ましそうに眺める周囲の男達も同じだ。人間ではない。死人の体に這いずり、肉を貪り尽くす虫だ。


「か…………、ぇせ…………」


 許さない。触るな。彼女の体は死んだ後も彼女だけのものだ。炎で焼いて天へと送り出す。悲しみも苦しみのない世界に生まれてほしい。


 ――返せ。


 視界が眩い光となって消えていく。だが、それは一瞬。次に訪れた深い闇だった。暗くて冷たい。水の底へと沈んでいく感覚は死であると直感で理解した。体は震え上がり、寒気は心臓から手足の先まで広がる。


 ――かえせ!


 だが、どうでもいい。恐怖は心に伝わらなかった。それを上回る憤怒が燃え盛っていた。命より大切な家族が蛆虫に襲われている。守らなくては。大人しく沈んでいる場合ではない。暴れる。ただがむしゃらに暴れる。溺れるものが藁をも掴むように、傷ついた猛獣が死にものぐるいで反撃するように。流れた時間が一瞬か永遠かは今でも分からない。再び光が取り戻した時、苦痛は消え去っていった。自分は夢を見ていたのか? そんな訳無い。あの蛆虫を一匹残らず叩き殺してやる。だが、その必要はなかった。


「ま、待て。今回はもう死んでいる。レイプじゃない。もう2度としないって誓ったんだ」


 ベルトの外れたズボンを押えながら、蛆虫が片手で降伏を示す。その相手はスーツベストの青年。手には一振りの日本刀、刃に血はついていないが、周囲には夥しい血を流す蛆虫の残骸が散らばっていた。


「認めない。俺はお前を人間と認めない」


 覆面越しの声は掠れて聞き取りづらい。しかし、刃のように研ぎ澄まされた怒りは直接向けられていない立華をもすくませた。


「成人もしていない女の子が病床で亡くなった。人間なら憐れむものだ。畜生でも劣情を抱きはしない」


 迸る銀の光。バイオリンを奏でるような旋律が響き渡り、6等分に刻まれた体が血や臓器と共に床に散らばった。処刑人の圧倒的な暴力は罪人に抵抗の権利さえ与えない。刀を鞘に収めた青年は妹の服を整え、布団をかけた。そして手を合わせること一分間。彼は立ち上がり、スマートフォンを手に取った。

 

「すみません、処理が遅れました。後で自分の腹を斬りますが、その前にこいつを野放しにした裁判官と弁護士を殺します」

 

 通話を切り、再びスマートフォンを操作しようとしたところで青年は禄に気づいた。覆面越しでも分かるほど目を見開き、慌ててこちらへと駆け寄ってくる。


「生きていたか! 必ず助ける。絶対に死ぬな」


 近くで聞くと声が若いことに気づいた。同年代だろう。青年は身を屈めた。首に手を当て、脈を測る。すぐに終えた青年は再び携帯電話に手をおいて、禄に目を合わせた。


「生存者あり。回収班には加えて医者を……」


 不意に言葉と手が止まる。青年の瞳が吸い込まれているのは首。後で聞いたが、線状痕が目に見えて消えていったらしい。そうして禄を同種と見抜いたゴーストは携帯電話をしまい、静かに覆面を脱いだ。現れたのは優しそうな少年だった。大人びてはいるが、幼さがまだ残っている。


「君には謝らなければならない。だが、それ以上に説明しなければならない」


 幸か不幸か、立華は我が身に起きた不可思議な現象の意味を知った。自分が何の為に蘇ったのか。腐肉にたかる蛆虫から妹を返してもらう。出来なければ殺す。単純明快な目的のため、ここにいる。死を拒絶し、もう何も守るものがない世界に戻ってきた。

 拳を握りしめた瞬間、呼び鈴が鳴る。器で餌が転がる音を聞いた犬のように駆け出す。勢いよく扉を開けると、スーツベストの青年が立っていた。


「奴らの居場所が分かった。恐らく罠だろうが、機会には変わりない。虎穴に飛び込む覚悟はあるか?」


 眼の前に差し出されるのはバックパック。立華は初めて差し出されたときのことを思い出した。復讐だけが選択肢だけではない。新しい人生を歩む場合も支援はする。神代はそう言ってくれた。脳裏に浮かぶのはイートインスペースで食事をする学生の集団、家計など考えずオープンキャンパスを回る同級生。つかの間に流れた幻想を振り切り、立華はバックパックをひったくるように受け取った。


「蛆虫を殺せるなら、どこへでも行く」

 

 ――――――――


 激しい雨のような音が鼓膜を叩く。盛大な拍手に向かえられ、天道は深々と頭を下げた。神を崇めるような所作は聴衆に敬意を示す為ではない。聴衆から顔を隠すためだ。


 「紳士淑女の皆様、大変お忙しいところ今宵に集まりいただきありがとうございます。私が未熟ながら中世期グループを発展してきましたのは他でもない皆様のおかげです」


 心にもないことを言う時は目を見せるべきではない。きっと失望の色が浮かんでいるから。

 今大袈裟に手を叩いている者たちは政治家、官僚、公務員。社会的地位の高さは説明するまでもなく、天道が軽蔑し殺そうとさえする貧乏人とは正反対の位置にいる。しかし、彼らは仲間ではない。金や女、利権の為に媚びているだけだ。信念を共有しているわけではない。心の中では自分に唾を吐きかけているだろう。


 ――信念。


「皆様はこの国の誇りです。沈みゆく日本経済、今でさえ膨大な社会保障費をこれ以上増やせば破綻は免れません。しかし、無責任な者は言う。誰も残さない社会を作るべきだと。怠惰な者は言う。誰もが幸せになるべきだと」


 脳裏に蘇る笑い声。足を引っ掛けられて転んだ自分を愉快そうに見つめる複数の瞳に歪んだ口角。勉強をしないから知能がない。知能がないから娯楽を楽しめない。その癖に人並みの楽しみを求める。だから自分は地獄に突き落とされた。どんな馬鹿でも他人を袋叩きにすることは可能だ。同じ光景はSNSを開けば容易に探せる。誰もが幸せになるべき? 彼らまで?


「ふざけるな! 良い顔を見せたいだけの偽善者の為に何故俺が我慢しなきゃならない?」


 ふと自分を叱りつけた女教師を思い出す。多重債務者達が唯一喜んで聞いた命令が彼女への集団暴行だった。一部始終を収めた動画を彼女の親兄弟や恋人、友人に抜け漏れなく送りつける。人間関係を清算する度にその嫌がらせを繰り返していたら彼女は自ら命を絶った。銃やナイフと同じ威力を持つ120分の映像は複数のプラットフォームに投稿されており、今でも削除されていない。

 

「心中したいなら殺してやる。望んだ生き方を全うできることを感謝すると良い」


 視界の端で聴衆の顔が引きつるのを見た。そして、天道はようやく自分の目が見開かれていることに気づく。深く息を吸い、目を閉じる。少し感情的になりすぎた。彼らは友ではない。ただの駒だ。そういう相手には自分が言いたい話ではなく、相手の聞かせたい話を聞かせるべきだ。相手の無礼に憤る詐欺師はいない。息をゆっくりと吐き出すと同時に天道はゆっくりと目を開いた。


「しかし、皆様は違う。誰もが見て見ぬふりをする現実を直視してご英断をなされた。素晴らしい勇気です。最大多数の最大幸福。祖国の為に苦渋の選択をした皆様はまさしく英雄です。そして、栄えあるパートナーとしてこの私に白羽の矢を頂いた事はどれだけ感謝してもしきれません。皆様は正義のために傷ついた。想像を絶する痛みへの対価は中世期グループが必ず保障いたします」


 拍手喝采が復活し、天道は再び頭を下げた。袖の下を貰う人間にも正しくありたいという欲はある。金の為に人を殺したことを認められない。正義という肉をちらつかせば、腹を空かせた犬は必ず飛びついてくる。

 誰も山童操を笑えないな。天道は外部から派遣された殺し屋を思い出す。嘘を真実と盲信し、話の通じない男。しかし、大体の人間が彼と同じだ。金、法律、善悪、会社、国。自然には存在しないものを信じる我々は原始人から見ればオカルトだ。山童と違いはただ一つ、虚構を他人と共有しているかどうかだけ。それが分からないから他人の想像に呑まれても気づかない。全てを支配された時、人は滑稽だ。冷静なら聞くに堪えない言葉へ縋り付く。現実に耐えられない人間を哀れに思う。都合の良いものだけを見る為に生き様を他人に委ね、踊らされるがままに生きる。ありがたく思うが、何が楽しいかと甚だ疑問だ。


「さあ我が中世期製薬は従来の病原強化用薬剤、エントマの大量生産化に加えて新たな商品を開発しております。最愛の妻が私を蔑ろにして開発した新薬。その名はブライロウ。こちらα、βの2種類で1セットの薬となります。ブライロウαを接種した状態でブライロウβが数ナノグラムでも体内に入れば多臓器不全を起こし、死に至ります。微量のため通常の毒物検査では検出されません」


 聴衆に目を向ければ、ほとんどの笑顔が強張っていた。これも彼らの聞きたい話ではないらしい。しかし、天道に止める気はなかった。


「具体的な手順を説明しましょう。まずはブライロウαを整理対象の健康診断で予防接種として打たせます。その後、水道水にβを混入します。αに感染能力はないため対象に限定して大量殺戮することが可能です。社会保障と国家繁栄のジレンマで皆様が心を抱く必要はもうありません。邪魔な荷物はもうじき無くなるのですから」

 

 彼らは裏切らない。裏切れない。エントマは既に何人も殺している。今さら後戻りする度胸がないことは確認済みだ。舌を回して騙す必要はない。なぜなら彼らを騙すのは彼ら自身だからだ。放っておけば詭弁は自ずと生み出される。例えば、次のように。


「全ては正義のためです」


 淀みなく言い切ると聴衆は震える手で恐る恐る拍手をした。彼らは知っているだろうか。悪魔のように畏敬の念を集める青年が、かつて泣くことしかできない子どもだったと。反応を見てみたいが、彼らがそれを知る由はない。知っている人間はもう誰もいないのだから。

 


 ――――――――


『日和三郎。3年前に事故死。天道とは小学校3年生時の同級生』


『鹿目玲央。4年前に自殺。天道とは中学校1年生時の同級生』


『風見十利。2年前に病死。天道とは小学校1年生時の同級生』


 鳴り止まない報告に工藤は頭を抱える。彼の率いる捜査班は天道の同級生探しを中断し、中世期製薬の公金詐取犯罪を捜査していた。証拠さえ掴めれば天道のプロファイルは必要ない。しかし、中断前に実行していたデータマイニングが思わぬ成果を上げ始める。淡々と出力される調査結果、その全ては死亡報告だった。


「何なんだ……」


 一息つこうと工藤はドリンクホルダーから水のボトルを取る。途端に手を滑らして車内が水浸しになる。足元に伝わる水気には目もくれず、工藤は震え上がる手を眺めていた。空手の黒帯を持ち、暴力を恐れない工藤はヤクザが相手でも怖気づいたことはない。それが今でははっきりと恐怖を感じていた。職業柄、断定はできない。しかし、30歳の若者が特定の小中学校出身者に偏って同時期に死ぬことは常識的にありえない。最も可能性が高い結論はただ一つ、天道が全員殺したということだ。


「……悪魔め」


 ボトルをドリンクホルダーに戻し、天道はタブレットで報告書を見る。六徳花子の処方薬を解析した鑑識は史上稀に見る偽薬だと評価した。通常の検査は検知できず、それでいてウイルスに薬剤耐性をもたせるのに最適な分量である。そのため製造のコストは高く、普通に薬を売った方が儲けになる。


「お前は何を望んでいる?」

 

 殺す相手が警察やヤクザであればまだ理解できる。口封じや競合の排除であれば過激な拝金主義者の暴走に過ぎない。しかし、同級生や生活保護者を殺すのは単なる損得勘定では説明できなかった。彼は金儲けの為に人を死なせたわけではない。人を死なせるために金を作っている。あまりにも危険な相手だ。ゴーストの餌にしている場合ではない。即刻、無力化する必要がある。


 ――――――――


 自分は今日も生きられるだろうか。

 鳴寺華糸は怪訝そうな視線を振り切って、本社ビルの回転扉を潜り抜ける。その時、風が唸りを上げた。冷たい空気が頬を殴り、鼻の奥が刺されたように痛む。それでも立ち止まる気はない。自分と同じ配置にいるはずの部下が死体で見つかるのは時間の問題だ。


 ――総力戦だ。お前たちの勝利を信じている。


 天道からそう言われた時、今が潮時だと思った。自分と蜂須恵は敵を取り逃がしている。天道は笑って流したが、信頼は確実に失った。彼は部下を叱責しない。優しい言葉を連ねながら静かに切り捨てる。


 ――鳴寺、死ぬなよ。


 天道に対して恨みはない。元から契約関係だ。成果を挙げられなかった以上、非はこちらにある。報復する気は微塵もない。ただ黙って消えるつもりだった。足早に敷地から出ようとした時、スマートフォンがけたたましく鳴り響く。恐る恐る見たディスプレイに表示される発信元は『天道世正』。慌てて周囲を見渡す。刺客の気配はない。ただの連絡か? 鳴寺は胸を抑えて通話に応じた。


「どうした? 今のところ異常はない」


 自分の声は平静を装えているだろうか。今すぐにでも電源を切りたい衝動を抑えながら、鳴寺は言葉を待った。この瞬間を乗り切れば逃げる時間を稼げる。恐怖を感じた時こそ冷静さが必要だ。鳴寺はスマートフォンが感知できぬよう、静かに息を深く吸い込む。


『あれ、まだ配置にいるのか? 相方の死体を隠して今ごろ外に出たころかと』


 鳴寺は膝から崩れ落ち、荒い息を吐いた。心臓が凍りつくかのような衝撃。最早しらを切っても無駄だ。天道は正確に状況を見抜いている。鳴寺は即座に立ち上がり、ナイフを抜いた。相変わらず気配を感じないが、忍のような刺客が潜んでいてもおかしくない。


『怯えなくていい。お前に唯一勝てる蜂須恵はパーティの客に挨拶中だ。今走れば逃げ切れるぞ』


 天道はどこから見ている? 鳴寺は最小の動きで周囲を見渡す。人はおろか監視カメラも見つけられない。


『俺はお前以上にお前を分かっている。見なくたって分かる』


 電話越しに笑う天道には何も告げず、鳴寺はナイフを捨てた。抵抗するだけ時間の無駄に思える。天道を裏切ることが間違いだった。最初から全てを見透かされている。中国裏社会で最強格と言われた殺し屋も悪魔の敵ではない。掌で踊る人形だ。


『安心しろ。お前が殺したやつはそろそろクビにしようと思っていたんだ。怒ったりしないって』


 殺しはするだろう。鳴寺は心の中で呟いた。天道は優秀な経営者で常にコストとプロフィットのバランスを忘れない。ただし、殺人は例外だ。殺意を覚えた相手はどれだけの犠牲を払ってでも必ず始末する。終始楽しげな口調から察するに自分の反旗など対策済だ。選択を違えた以上、死を待つしか無い。

 

『なあ、鳴寺。気晴らしにクイズをしよう。俺を疑えるぐらいには賢明なお前なら分かる問題だ』


 自分は一言も話していない。何故コミュニケーションが成立するのか。その疑問は次の言葉で吹き飛んだ。


『どこへ逃げる?』


 鳴寺は言葉に詰まる。その質問には答えられない。考えることすら出来なかった。


『俺は見逃すけど、公安は君のことを地の果てまで追いかけるだろう。仲間を殺した男を逃がすほど雲霧は甘くない。さあ、どうする? 父親にすら見捨てられた君も誰が守るんだ?』


 父親。そう聞いて鳴寺の双眸から涙が溢れた。蘇る記憶を平然と受け止めることはできない。家族と再会した17歳の夜、母と兄はすぐに殺した。しかし、父は殺さなかった。そのつもりすらなかった。話がしたい。何を? そこまでは考えていない。とりあえず声を聞きたかった。だが、父は自分など見向きもしない。うわ言を呟いて、母と兄の手を握っていた。


 「すまない。私が間違っていた。形だけの正義をかざして大切な家族をずっと傷つけていた。二人目など産ませなければ良かった。全部、全部私のせいだ。すまない。本当にすまない」


 その日、少年は思い知る。自分の家族なんてどこにもいなかった。誰も自分が生まれてくることを望んでいなかった。それが分かれば全てが納得できる。生きていることを許されなくて当然だ。殺されても仕方ない。だから自分も殺す。遺体に項垂れる父の首を切り落とした感覚は今でも手にこびりついていた。


『戦え』


 呪詛のように放たれた言葉は氷水のように冷たかった。過去が吹き飛ばされ、月明かりに映し出された暗闇が包み込む。


『お前は正しい。群れる弱者に遠慮するな。今まで通り全員殺せ』


 鳴寺は息を呑む。天道の言葉を額面通り受け取ったことは一度もない。しかし、今この瞬間だけは信じられる。彼の正しさを証明するのは自分の人生だ。誰も自分を守ってくれない。生きることと殺すことは同じだった。


『そして生きろ。死なない限りは全て許してやる』


 その言葉を最後に通話は終わる。相変わらず刺客の気配はない。今からでも逃げられる。しかし、もうその気はなかった。

 

 ――今まで通り全員殺せ。

 

 もう何も怖くない。生き残る術は既に確立している。後は迷わず実行するだけだ。天道に仇なす者は自分を殺そうとする者だ。全員ここで殺す。そう決意した時、重い足音が響く。表れたのは乱れたスーツ姿の若い男。名前は把握している。六徳優――刺客から天道を守った交番警察官であり、公安をおびき寄せる餌として使われた立徳花子の息子。顔を見れば、どちらの立場で来たかは一目瞭然だ。

 

「ここは通さない」


 ナイフを拾い刃先を向ける。それでも六徳は構わず歩き続けた。仲間の姿はなく狙撃手の気配もない。何も持たず、何も言わず、彼はたった一人で静かに迫ってくる。

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