人魚が暮らす町

彼岸花

あり触れた悲劇

 その日は、とても穏やかな日だった。

 空は雲一つない快晴。春の温かな陽気が、地上を優しく包み込む。日差しに熱せられて吹く風は強いものではなく、肌を優しく撫でていく。

 海の上でも、気候は大きく変わらない。程よく吹く風は、木造の帆船を適度な速さで前へと進ませてくれる。海面は静かなもので、船の揺れはとても小さい。気温は、荒々しい船上での作業により火照った身体からすると少々暑苦しいが……上半身を裸にし、微かに汗ばんだ身体で風を受ければ簡単に冷やせる。

 絶好の漁日和。漁師の誰もがそう考えていた。

 だからこそ多くの漁師が船を動かし、漁へと出た。船は全てが帆船。木で作られ、乗員は二〜五人ぐらいが限界の、小さなものが殆どだ。一部手漕ぎで進む船があるものの、それらは主流ではない。

 漁師であるジェームズも、家族と共に船を出した。今年十歳になる息子エイブも持っている、二人でも十分操舵出来るこの小さな帆船は、先日亡くなった父から引き継いだもの。ジェームズが死んだ後は、漁師を継ごうとしているエイブのものとなる……というのがジェームズの密かな願いだが、父の代から使っている船なのでかなりガタが着ている。エイブが一人前となる頃には流石にお役御免となっているだろう。

 少しだけ感傷に浸るジェームズだが、この船は父の形見であるのと同時に商売道具でもある。雑には扱わずとも、倉庫にしまっておくつもりもない。帆の向きを的確に操り、春の穏やかな風を受けて沖へと進ませた。

 ジェームズ達が漁を行うのは、港が地平線に隠れるかどうかといった位置。海水は淡いながらも緑色に濁っているため、具体的な深さを目で知る事は出来ない。だが確実に、人間では足を付く事が出来ない程度の水深はある。


「良し、ここで網を投げろ」


「分かった!」


 エイブに指示を出し、網を海に投げ入れさせる。

 エイブが漁に参加するのは、これが初めてではない。もう幾度となく手伝いをしてきた。過酷な船の上で鍛えられた肉体は、都会で暮らす同年代の子よりも明らかに大きく、屈強になっている。尤も、もう二十年以上漁師をしている父ジェームズから見れば、まだまだひょろっこい小僧に過ぎないが。

 とはいえ網を投げ入れる姿勢も段々様になっていて、成長を感じ取れる。駄目出しをしつつも褒めてやれば、照れたようにエイブは屈託なく笑い、ジェームズは少し気恥ずかしくなって顔を背けた。

 エイブが投げた網は濁った海中へと沈んでいき、すぐに見えなくなる。

 ジェームズ達が暮らすこの港町の漁師は、投げた網を船で引っ張り、その中に偶々入り込んだ魚を取るという手法を主に行う。魚が少ない海では非効率なやり方だが、豊富な漁場ならこれ以上ないほど楽なやり方だ。そして此処一帯の海は後者である。

 何処まで沈めて、何時引き揚げるか。海中を見通す道具などない以上、これは経験がものを言う。適当に沈め、何時間か放置した後に引き揚げるというやり方もあるが……この海でそれをやるのは好ましくない。魚は気温や天気により泳ぐ位置が変わり、毎日同じ場所にいるとは限らないからだ。

 何より何時間も放置すると、『奴等』に網を壊される事がある。

 今日の天候から、ジェームズは十ハイト(一ハイトが凡そ成人男性一人分の身長)の位置に魚がいると予測。根拠は自身の経験だ。そして網を何時引き揚げるかは、自分達が乗る船の進み方で判断する。網にたくさんの魚が入ればその分重くなり、船は風を受けても前に進まなくなるのだ。この判断はまだ十歳のエイブには難しい、それどころか二十年以上漁をしているジェームズでも簡単ではない。引退した父ほどの実力を身に着けるには、果たしてあと何年の経験が必要か。或いは自分に漁師の才能はないのか……

 要らぬ考えを振り払うように、ジェームズは一旦目を閉じ、思考を切り替える。今は自分の家族を養う事、息子に今後生きていく術を伝える事に注力すべきだ。


「よし、そろそろ引き揚げるぞ」


「分かった!」


 エイブと共に網を引き揚げる。手に掛かるずっしりとした重みが、今日の成果を物語る。

 事実、網の中にはたくさんの魚が入っていた。種類も多様で、姿形の異なる魚が何百といる。


「今日も豊漁だな! お、アカビレもいるぞ」


 網の中にいる魚を見て、ジェームズは満面の笑みを浮かべる。漁師にとって魚は生活の糧。たくさん得られれば、それだけ生活が豊かになる。

 後はこの魚を港まで持っていき、商人達に下ろすだけ。ただし、考えなしにそのまま魚を出すのは少々時代遅れだ。


「網から魚を外しといてくれ。何度も言うが、丁寧にやれよ」


「分かってるって」


 指示を受けて、エイブは捕れた魚を網から外していく。言いつけ通り丁寧な外し方だ。

 最近港町には観光客が多く来ている。海を知らないほど山奥から来た人間や、も大勢だ。彼等は多くの金を町に落とすが、同時にちょっと贅沢でワガママ。味は殆ど変わらないのに、見た目をやたら気にする。

 どんな魚も日々の大切な糧としてきたジェームズ達港町の人間からすると極めて不遜な態度だが、同時に商機でもある。綺麗で希少な魚であれば、普通よりもずっと高値で売れるのだ。それが地元では「食用になるけど美味しくはないんだよなー」というような魚でも。

 勿論漁師は直接観光客に魚は売らない。観光客に魚を売るのは、レストランなど飲食店を営んでいる者達だ。しかし高級路線で売れる魚は少なく、希少な分だけ市場での値段も高い。つまり漁師達も、そういった高級魚を売ればちゃんと儲かる。

 ただし獲れた全ての魚を個別に売るのはあまりにも手間が掛かる。そこで網から綺麗な魚を選別し、他の魚と分けておく。綺麗な魚は観光客好みの高級飲食店に卸し、傷のある魚は町人や自分達が利用するのだ。これなら手間と収益の両立が行える。

 エイブに細々とした作業を任せたら、ジェームズは帆を操作し、船を港へと向かわせた。帆船は風の力を利用して進むため勘違いされがちだが……上手く帆の向きを操れば、向かい風でも前進出来る。この技術を身に着けるにも訓練が必要なので、父であるジェームズとしては何時かエイブにやらせたいところだ。とはいえそれは出発時に限り、帰りはやらせたくない。

 何故ならもたついていると、『奴等』が来るから。

 ――――そして残念な事に、もたついていなくとも、『奴等』が来る事はある。此度のように。


「うおっ!?」


 順調に船を進ませていたジェームズだったが、不意に船が大きく揺れた。

 突然の揺れに驚いたのは一瞬。すぐに顔を青くする。二十年以上漁師をしてきた彼は、この揺れがなんであるのかを理解していた。

 まだ一年も海に出ていない、キョトンとした様子の息子と違って。


「おい! 網から離れろ!」


「え、あ、でも」


 この魚があと少しで外せそう。そんな事でも言おうとしたのか、エイブはすぐには動かず。

 あとほんの一瞬でも時間があれば、網から離れるよう改めて説得出来たかも知れない。

 けれども時間はなかった。ジェームズが再び口を開いた直後に船がまた大きく揺れる、いや、

 海から伸び、船の縁を掴む二つの手が、船を海に引き込もうとしていたのだ。

 手は人間のものによく似た形をしていた。しかし指先に鋭い爪を持ち、肌の色は水死体のように青ざめている。肌はびっしょりと濡れていて、海の中から現れた事を示す。細い指先や柔らかそうな見た目は極めて女性的だ。尤もその手が女のような『弱者』でない事は、掴まれている船の縁がめきめきと音を鳴らし、ひびが入っているのを見れば明らかである。


「ひっ!? わ、わ」


「っ!」


 船が傾いている状況に加え、おどろおどろしい手を見てエイブは明らかに動揺している。このままでは不味いと思ったジェームズは咄嗟に息子へと手を伸ばすが、届く前に一層大きく傾いてしまう。

 エイブを助けようとした事が仇となり、ジェームズは船の動きにより海へと放り出されてしまった。

 漁師であるジェームズは、一応は泳げる。鼻から入った海水に驚きながらも、彼は立ち泳ぎを行い、海面近くを漂う。春の海水はまだ冷たく、体力を急速に奪うためあまり長くは浮かんでいられないが……付近には多くの漁船がいる。すぐにでも彼等が助けに来てくれるだろうから、溺れる事を心配する必要はない。

 それよりも我が子エイブの安否の方が重大だ。


「エイブ! 何処だエイブ!?」


「と、父さん!」


 息子の名を呼べば、エイブは怯えたような声でジェームズを呼ぶ。

 声がした方を見れば、エイブはまだ船の上にいた。

 冷たい海に投げ出されていない事に安堵したジェームズだったが、その楽観的な考えはすぐに吹き飛ぶ。長年小さな船の上で仕事をしてきた自分でも投げ出されたのに、どうして小柄で未熟な息子は船に留まれたのか? エイブの足下にその答えはある。

 網の一部が足首に絡まっているのだ。

 船が揺れて転んだ拍子に引っ掛かったのか。エイブは必死に外そうとしていたが、焦っているらしく中々外せない。

 いや、簡単に抜け出す方法はある。船上にはナイフがあり、それで網を切ってしまえば良いのだ。勿論穴の開いた網は使い物にならず、穴の大きさ次第では直せず破棄しなければならない。魚網というのは早々交換するものではない事もあって生産数が少なく、そのため値段も高い。生活が困窮するほどではないにしても、一般的な漁師にとっては手痛い出費である。

 だが息子の命と引き換えなら安いものだ。


「エイブ! 網を切れ! 早く!」


 ジェームズは一切躊躇わず、網を切るよう命じた。

 躊躇ったのはエイブの方だった。高価な網を切る事に罪悪感を覚えたような表情を浮かべ、その動きがぴたりと止まってしまう。

 もしもすぐ動けていれば、未来は違ったかも知れない。

 しかし現実にエイブは動けず――――彼がナイフを掴むよりも前に、海面から伸びてきた青白い手が網を掴んだ。


「や、止め……」


 ジェームズの願いを、青白い手は聞いてくれず。

 手は網を力強く引いた。二人の男が乗っている船を簡単に揺らすほどの怪力だ。魚がたくさん入った網も、簡単に海中へと引きずり込んでいく。

 そこに絡まっているエイブも一緒に。


「と――――」


 助けを求めるように伸ばされた手は、ジェームズには届かない。エイブは網と一緒に海中へと引き込まれてしまう。

 ジェームズはすぐに息子が沈んだ場所へと向かう。そこに息子の身体はなく、潜って探そうとする。けれども何処にも、エイブの姿はない。エイブを巻き込んだ網も、青白い手もない。染みるのを堪えて目を開けても、先の見えない濁りと豊かな魚影が映るだけ。

 やがて息が苦しくなって、ジェームズは仕方なく海面に顔を出す。その時間すら惜しく、満足に息継ぎをする前にまた潜り、何も見付からないうちにまた息を吸う。何度も何度も繰り返したが、求める者は見付からない。

 もう、此処にエイブはいない。

 彼は網と一緒に深い海の底へと引きずり込まれてしまったのだと、ジェームズはようやく理解する。


「あ、あ、ぁ、ああああああああああああああああっ!」


 今や彼に出来るのは叫ぶ事だけ。怒りと悲しみと絶望の混ざり合った悲鳴が、海の彼方まで響く。

 だが、海が息子を返してくれる事はなかった。






 穏やかなこの日、一つの若い命が失われた。

 悲しみが家族と友人を襲った。町の人々も嘆き、悲しんだ。しかし一日も経てば、町は何時もの調子を取り戻す。

 人魚が暮らすこの町にとって、このような悲劇など珍しくもないのだから――――

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