第一章①
第一章:「二人きり」
1
五月三日、木曜日。ゴールデンウィーク初日の朝7時頃。五月病的にウッダリしながら眠りこけている聖杜が、カーテンの奥から入り込んでくる朝日に目を細めて寝返りを打った、その時である。
ダダダダダダッ。
バタン!
「へーいベイベー! 熟睡中かーい!?」
………………。
…………。
……。
微妙な空気が室内に満ちた。
「んあ?」
聖杜がドア付近の人影に気付いて、ノソリ、と起き上がる。
寝足りない、ショボついた目を擦りながらピントを合わせて見るとそこには、
「……親父じゃん」
「オー、グッヅゥモニング、我が息子よ! 気分はどうだーい、晴れ晴れか~い?」
父、中村 正孝(なかむら まさたか)42歳が、目を引く派手なシャツではしゃいでいる所だった。
その姿は年甲斐も無い。物凄く年甲斐もなく浮かれている父を見ると、聖杜はやけに冷静になってしまうのだった。
「気分はどんよりだよ、一ヵ月後の梅雨期の曇り空よりも真っ黒さ」
そう言いながら再び枕に沈む息子の姿。しかし父は安眠を許してはくれないのである。
「oh~、どうしたんだい息子よ? こんな晴れに晴れた、待ち焦がれし記念日にドンヨリなんて。そんなお前の姿を見たら、ユァファーザー、とっても悲しいよ? これから行き着く数々の難題を達成できずに、我らの愛もここまでにょ~」
とてつもなく饒舌に、とてつもなく上機嫌に、自らの演技に酔いしれる父の姿。ある意味カッコいい、でも決して見せて欲しくはなかったそんな憲法記念日の朝であった。聖杜がそのあまりのウザったさに、枕もとのCDプレイヤーを起動させそうになったほどである。
無視する息子のそんな姿にも、正孝はまったく機嫌を損ねる様子は無い。まったくぅ~この息子ふぁ~、と訳の分からないテンション維持で騒ぎ続ける中年オヤジに聖杜もキレ気味だ。
「オイ親父。出て行きなさい」
「ヘイヘイヘイヘイ、そんな口を聞いても良いと思ってるのかい、ムッシュ~」
「用も無いんだろ、どうせ。朝っぱらから騒々しい。何の嫌がらせだよこれは」
「嫌がらせなんてとんでもないぜぃ、ムッシュ~、セニョリータ。そんなこと言ってるとお土産買ってきてあげないよん」
「ムッシュの次になんでセニョリータやねん! 俺は男! もう、どっか行くならとっとと行っちまえ」
「オ~、マイ、サァーン。何でそんなに冷たいこと言うの~? これから暫く会えなくなるのyo~? お父さん寂しいから、息子から労わりのキスが欲しいわぁ~」
「丁重にお断り申し上げる。とっとと消えてくれ」
「酷いこと言うね~。良いもん良いもん、旅先でママンに慰めてもらうもの!」
正孝は結局、謎の高テンションを維持し続けたまま、バタンとドアを閉めた。
台風一過、ようやく静かになったと聖杜は瞳を閉じる。ふうっ、と息を吐き出して、眠りの世界に集中しようとした、その時だ。
『あなた~、早くしないと遅れちゃうわよー』
『はいはいはいは~い、いっま行っくよー、み~わちゃーん!』
と、廊下から母と父の会話が聞こえてきたではないか。
……………………。
疑問。
今日、なんかあったっけ。
(……………………)
父は言った。「これから暫く会えなくなる」、と。
「ど、どういうこと!?」
ガバッと布団を剥いで起き上がり、スリッパも履かずに扉を開ける。すると玄関から、「じゃあ行って来るぞー」、と父の声が聞こえてきたではないか。
「ま、待てー!」
ダッシュで階段に取り付いて手摺を引っつかむ。そのまま大急ぎで一階へを駆け下りると、正孝が扉を開けているのが目に入った。
「ま、待てぇい、親父! 待ってくれ!」
もうほとんど転げ落ちるかのように階段を下ると、必死の形相で出発しようとする父を呼び止めるのであった。
「おう、なんだなんだ。やっぱりファーザーにキスしたくなったかぁ~?」
と締まりの無いニヤケ顔で振り返った正孝。その横で、外行きのおめかし衣装に身を包んだ母・美和(みわ)と、妹になってしまった由梨花はニッコリと、
「聖杜ちゃん、おはよう」
「おはよう、お兄ちゃん」
優しい挨拶をしてくれるのだった。
「あ、おはよう……ございます」
そんな二人に思わず丁寧な挨拶を返してしまう聖杜少年であった。
ちょこっと照れくさい朝の雰囲気が玄関に流れる。
「じゃあ、行って来るわね」
美和がそう言って扉を開けようとすると、
「あー! スト、ストップ!」
聖杜は慌てて二人を呼び止める。
「なんだぁー? さっきから。どうしたんだ聖杜」
「どこ行くのさ! 暫く会えなくなるってどういうことよ!?」
「んあ? 新婚旅行だ。言ってなかったっけか」
し、しんこんりょこお?
聖杜は、、まさに呆気、といった表情になっていたことだろう。
「新婚旅行って、今から? どれくらい?」
「期間? 今から2ヶ月くらいだな」
「に、二ヶ月……。その間、家は?」
「大丈夫だ、聖杜。由梨花がいる!」
正孝は力強く言った。
「だってなぁ、由梨花ってばこの歳で、すっごい料理も上手いし洗濯もできるし、家事は何でもオッケーなんだぞ? 俺はこんな娘が欲しかったんだ~!」
感動の涙を流す正孝。褒められた張本人の由梨花は、「えへへ、頑張りまーす」、と照れているのだが、聖杜の耳には残念ながら、届いてはいない。
聖杜は現在、余りの事態に放心状態なのだ。しかしテンションの上がった夫婦はそんな事など気付きもしないのである。
「だから安心だぞぉ、聖杜。由梨花を信頼してもいい。だから俺たちも心配せずに家を空けられるんだ、ガハハハハ!」
「でもね。どうしても困ったことがあったら、お父さんの携帯電話に連絡するのよ? ほとんどの場合は通じると思うから。良い、由梨花?」
「はーい、分かりました。お母さんたちも楽しんできてね!」
「オーウ、もちろんさマイドーター! 父さんたちはこの長い旅行で、二人の愛を確かめ合い、深め合い、それはもう有意義なものにしてくるのさ」
「うふふ、あなたったら。そんなにはしゃいじゃったら目的地に着く前に疲れちゃいますよ」
「ふふふ。大丈夫さ、ハニー。モルディブのホテルに着いたらスグにでも君を愛してあげることができる、それだけの準備をして来たのさ」
「もおー、イヤだわ、あなたったら! 子供たちの前で恥ずかしいことを言わないで!」
「ハハハハハハッ、帰ってくる頃にはもう一人、兄弟が増えてるかもな! ガハハハハハハ!」
「うふふふふっ、まったくもう、あなたったら! それじゃ二人とも、行ってくるわね」
「それじゃあステキなお土産(弟か妹)を期待してるんだぞー!」
いやんもう、バッカーん! ガーハッハッハッハッ! と陽気な笑い声を残して、両親は子作り行脚の旅、もとい新婚旅行へと出かけて行ったのであった。
そんな二人に笑顔で、「いってらっしゃーい」と手を振る由梨花。しかし聖杜にそんな余裕は無い。過ぎ去った嵐の被害状況を確かめるかのごとく、聖杜は必死で今の状況を整理しようとしているのである。だからさっきから黙ったままだったのである。
「行っちゃったねー。二人とも、楽しんできてくれると良いなぁ」
と由梨花が言っている横で、聖杜は必死になって、
(ど、どういうこと? どゆことなの? いま現在、どうなってるの?)
頭の中で同じ質問を繰り返しているのだ。答えの見つからない、堂々巡りでしかないが。
しかしそんな意味のない行為も、由梨花の澄んだ声にすぐに現実に引き戻されてしまう。
「お兄ちゃん」
「は、ハイ!」
こんな風に。
呼びかけられて横を向くと、由梨花のカワイイ顔がすぐそこにあって、ドッキリビックリしてしまうのである。
「お兄ちゃん。朝ごはん、食べよ」
由梨花はなんら気にかけることなくそう言うと、ごく自然に聖杜の手をとって歩き出してしまう。一方の聖杜は少女のそんな行為に、
(う、うわぁぁぁ、柔らかい手だ~!)
とカチンコチンに緊張してしまうのであった。
2
(どうなっている……?)
聖杜は真剣に考えていた。
(どうなっているんだ?)
今の状況がまるで飲み込めない。だから必死に頭を捻るが、そんなことは全く無意味な結果に終わることもまた、目に見えていることではある。
何故ならすでに、聖杜は朝ごはんを食べて部屋着に着替え、自室のベットの上で盛大に頭を悩ませているからだ。つまり、もう過ぎ去ってしまった時間を受け入れているといっても過言ではないわけである。しかし未だに、一時間も経っていないような時間を振り返って首を傾げているのは、本末転倒と言っても相違ない。
それが事実なのではあるが、それでも聖杜には気がかりなことがある。
「なぜに新婚旅行が今なのだろう?」
時は五月、季節はすでに初夏の暦。正孝と美和が再婚してから、もう一ヶ月以上も経っている。その間、確かにドタバタしてたとはいえ、美和と由梨花はかなり早い時期から中村家の生活にフィットしていたし、引越しの準備も再婚からそんなにかからなかった(っていうか気付いたら荷物が全部整理されていた。聖杜が気付かなかっただけ)ので、旅行に行くとしたら三月でも四月でも大丈夫だったはずなのだ。
「それに……二ヶ月って」
長すぎる。時期をゴールデンウィークに合わせたとしても、その期間を余裕で通り越している。仕事は大丈夫なのだろうか。海外で遊び呆けてたせいで学費も生活費も払えなくなって一家離散なんて、想像もしたくないほど勘弁してもらいたいシナリオである。
「大体、事前に知らせなかったって言うのが解せない」
聖杜はこの事実を知らなかった。二ヶ月にも及ぶ長期旅行なら、必ず綿密な計画を立てて、事前に準備を済ませていたはずである。それならば聖杜に伝える機会も少なくなかったはずだから、なぜ教えなかったのかが謎なのだ。自分の子供に内緒で当日を迎えるなど、絶対にオカシイのである。
まぁ由梨花の方は知っていたみたいだが。
「って言うか二人っきりじゃーん!」
そうなのだ。これが一番の問題なのだ。二ヶ月の長きに渡って、あの可愛い由梨花と二人きり。四人でいる時でも緊張で脚がガクガクというザマだったにも関わらず、突然、彼女と一つ屋根の下で二人きり。同じ家にいるというのが今でも信じられないのに、それがいきなり二人きり。これは色んな意味でオイシイ展開だし、場合によってはとてつもないチャンスだが、そんなプラスに考えられるほど聖杜は根性が座っていないのである。
「どど、ど、ど、どっしよおおおおー! 困った、参った、どうしようもない! ボクは一体、どうするのが一番なんだー!?」
うわぁぁぁぁぁっ、と身悶えしながら。ベットの上でゴロゴロゴロゴロと転がる少年が一人。一番の苦悩がここにある。正直、二人きりになったと実感した途端に、心臓は弾けそうなほどバクバクと鼓動を刻んでいる。血流が激しく回って顔中が熱くて、でもそれは嬉しさよりも不安の方が大きいのだ。普通に生活しているだけで、いくらでも彼女に嫌われてしまう要素が散らばっている聖杜である。そんなのがより注視される二人だけの二ヶ月間など、聖杜にしては地獄に等しい。
(それに……問題は他にもあるんだ!)
それは理性の問題である。いくら腰抜けといえども、聖杜は思春期真っ盛りの健全な男の子。一つ屋根の下で思いを寄せる可愛い女の子が暮らしているのだ。いつ暴走するかと、自分自身に気が気ではない。そんな不安定な日々を二月も過ごすなど、聖杜には拷問に近いような気さえする。現に先程の朝食時ですら、由梨花の可憐な表情に魅かれて、ろくにご飯の味も残っていない。
「うおー、うー! ボクは、ボクは一体、どうすればぁぁぁぁ!」
再びゴロンゴロンとのた打ち回り始めた聖杜。そんな彼の耳に、一瞬で自我を取り戻す魔法の呪文が聴こえてくる。
「お兄ちゃん?」
ハッ、として扉を見ると、由梨花がドアを開けてこちらを見ていた。その真っ直ぐな瞳と視線が合うと、途端に恥ずかしくなって慌てて身を起こしてしまう。
「な、なに?」
「ううん。さっき、なんだか元気なかったように見えたから……。入って、良い?」
「え? あ、うん。良いよ」
「えへへ。おじゃましまーす」
由梨花はすぐにニッコリとして、部屋の中に入ってくる。そして徐にベットに近づくと、聖杜の隣に腰を下ろした。
「行っちゃったねー、二人とも。二ヶ月も家空けちゃうなんてビックリだよね」
「う、うん。そうだね」
ドギマギしながらも、なんとか返事だけは返す。しかしすぐ隣に由梨花がいて、しかも甘酸っぱくて凄くクラクラするような良い匂いまで感じられるほど近くに座っているという事実に、聖杜の頭は爆発寸前だった。
「でも良かったなぁ。二人とも、凄く楽しそうで。私、なんだか嬉しくなっちゃった」
「…………えっ」
楽しそう。
そういえばそうだ。
今まで、親父があんなにはしゃいで嬉しそうなところは見たことが無い。
確かに凄く楽しそうで、それだけ幸せそうにしている姿など、聖杜は始めて見たのだ。
(楽しそうだった……、か)
そうだ、何故その事に気付かなかったのか。二人はとても幸せそうだった。その事が重要なのだ。
自分が思い浮かべていた疑問が、どれだけ器の小さな考えだったのか。聖杜はその事に思い至って、恥ずかしさに頬を染めた。同時にその事に気付かせてくれた由梨花に、感謝の気持ちが湧いたのだ。
「そうだね……。俺も、二人の幸せそうな姿を見れて、凄く嬉しいよ」
静かにそう紡げたことが嬉しかった。それが自信になって、聖杜は俯けていた視線を由梨花の顔に合わせる。
そして、ドキッ、と胸が高鳴った。由梨花が聖杜を見つめて微笑んでいたのだ。その余りの美しさに慌てて眼を逸らしてしまい、しまった、と思った。
しかし由梨花は気にしなかったようで、彼女はそっ、と目を閉じると、一瞬だけ空気を堪能するように沈黙した後に、
「いい曲だね」
と言った。
「え?」
思わずそう言った後で、聖杜はCDを起動していたことを思い出した。
「この曲、お兄ちゃんに貸してもらったCDに入ってたよね。私ね、凄く気に入っちゃったな。毎日聞いてるんだよ」
聖杜が由梨花に貸したCDは一つしかない。二週間ほど前に由梨花が部屋に訪れたときに、今と同じように流れていたものだ。「ザ・ビートルズ1」。1960年代を代表するイギリスのロックバンド、ザ・ビートルズのナンバー1ヒットチャートを集めたアルバムであり、いまプレイヤーに入っているものもそれのコピーCDである。
曲名は「ヘイ・ジュード」。励ましの意味を込めた歌だ。7分という長い曲の中で、今は後半の「da」の部分が流れているのである。
「そ、そう。喜んでもらえて、嬉しいよ」
貸すならもう少し女の子の趣味に合ったものを渡せよ、とも思ったが、生憎、聖杜はこれくらいしかCDを持っていない。それに由梨花から貸して欲しいと頼まれたのだから、断れるはずも無かったのである。
それから少しだけ、両者の間に沈黙が降りた。
「ね、お兄ちゃん。もっと近くに寄っていい?」
唐突に、由梨花がそう言った。それに、へっ? と思ったが、聖杜は慌てて、
「い、良いよ」
と搾り出すように答える。
「えへへ、やったぁ」
由梨花は嬉しそうに腰を浮かせて、まるで擦り寄ってくるかのように聖杜の真横に身体を落ち着かせる。その、ほとんど服を通して肌が密着してしまっている状況に、再び聖杜の鼓動が跳ね上がった。衣服越しに、微かではあるが体温を感じられる距離。そんな状況に内面でパニックを起こすが、どこかで冷静に、今の体勢を受け入れている自分がいる。そのことに不思議な感覚を憶えた。
そのまま二人は、暫く往年の名曲の旋律に酔いしれる。ランダム再生に設定されたプレイヤーはすでに次の曲、「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」の美しいバラード音楽を流していた。
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