東京の空の下 ~当節猫又余話~

月夜野すみれ

第一章

四月七日 火曜日


 朝、目を覚ますと隣りに見知らぬ中年男が寝ていた。

 黒いスーツを着た、新宿駅で石を投げれば当たる類のどこにでもいそうな中年の男である。


 道理でベッドが狭いはず――。

 じゃなくて!

 なんでここに男がいるんだ!?


 …………思い出せない。


 全てを半透明のガラス越しに見ているような感じがする。

 夕辺のことはさっぱり思い出せないし考えがまとまらない。

 頭は窮屈きゅうくつなヘルメットをかぶせられたみたいに痛む。

 胸はムカつくし吐き気もする。

 頬に油を皮下注射されたみたいに顔がむくんでいる。

 二日酔い初体験である。


 だが、別の初体験を男としてしまったとは思いたくなかった。


 まだ女の子と付き合ったこともないのに。


 高校二年でそれもどうかとは思うが。

 一応服は着ている。お互い。

 特に乱れてもいないようだ。


 何もなかったことにしよう……。


 そう思った時、男が猫になった。


 文字どおり猫になってしまったのだ。

 推定身長百七十センチの人間が、体長六十センチほどのイエネコになったのである。

 耳はチョコレート色で顔と背中はミルクコーヒー色、長い尻尾はチョコレート色に白い縞模様、足と腹は白い。


「うわぁーーーーー!」

 俺は悲鳴を上げながらベッドから転がり落ちた。

 自分の悲鳴が頭に響く。

 なべをかぶらされて金槌で叩かれているような頭痛が襲ってきた。

 猫がうるさそうな顔でこちらを向いた。

 階段を駆け上ってくる足音が聞こえた。


孝司こうじ! うるさい!」

 姉ちゃんがドアを開けて入ってきた。

 今日の姉ちゃんは白いブラウスにピンク色のスカートをはいている。

 もう化粧もばっちり決めてあった。

 胸まである髪は後ろでまとめている。


「ね、姉ちゃん! ば、化猫が……」

「寝ぼけてるんじゃない!」

 姉ちゃんは俺の頭を拳で殴った。

 拳骨と頭痛の二重攻撃に俺は頭を抱えて倒れ込んだ。


 死ぬ……。

 もう酒なんか飲むものか……。

 二十歳はたちになるまでは……。


 その時、俺の指の先を見た姉ちゃんが猫に気付いた。


「可愛いぃー!」

 姉ちゃんの甲高い声が脳天を貫いた。


 ぐはっ……!


 死ぬ……。

 今度こそ死ぬ……。


 俺は激しく痛む頭を抱えた。


「姉ちゃん、逃げろ! そいつは化猫なんだ!」

 いくら凶暴な姉でも化猫の餌にするわけにはいかない。

 俺は姉ちゃんの足にしがみついた。

「近付いたらダメだ!」

「うるさい! いつまで寝ぼけてるの!」

 姉ちゃんが俺を蹴飛ばす。

「ダメだ、姉ちゃん!」

「いい加減にしないとホントに怒るわよ!」

 もう怒ってるじゃないか、と言う突っ込みはしても無駄だろう。


 姉ちゃんは猫を抱いて階下に降りていった。

 俺はふらふらしながら姉ちゃんの後を追った。


 姉ちゃんは俺の朝飯の鮭を別の皿に載せて猫の前に置いた。

 母さんが猫の背を撫でる。


「母さん、そいつから離れて! それは化猫なんだ!」

「孝司ったら寝ぼけてるの?」

 母さんが呆れたように言った。

「違うよ! ホントにそいつは化猫なんだ!」

 俺がいくら言っても母さん達は信じてくれなかった。

 仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。

 家族の中でこの世ならざる者――化生けしょうが見えるのは俺だけなのだから。


「イジメにでもってるんじゃないだろうな」

 父さんが言った。

「違うってば」

「病院に連れてった方がいいのかしら?」

 母さんが俺の額に手を当てた。

 あんまり近付かれると酒の臭いに気付かれる。

 俺は慌てて母さんから離れた。

「でも、何科に連れてったらいいのかしらねぇ」

 母さんが考え込む。

「精神科よ」

 姉ちゃんが冷たく言い放った。

「とにかく、こいつは捨てないと」

「一度拾ってきた動物を捨てるなんて無責任でしょ!」

「俺はこんなの拾った覚えないよ!」

「じゃあ、どうしてあんたの部屋にいたのよ!」

「それは……」


 思い出せない……。


 部屋の窓は開いてなかった。

 いくら酔っぱらっていたとはいえ、大の大人を担いでくるのは無理だ。

 いや、酔って足下が覚束おぼつかない時の方が尚更難しいだろう。

 猫の形で連れてきたに違いない。


「ほら、答えられないじゃない」

「孝司、本当に大丈夫なの?」

「平気だって」

 これ以上言ったらホントに病院に連れていかれてしまう。

 猫は相変わらず鮭を食べていた。


 それ俺の分だぞ……。


 こうなれば実力行使だ。

 俺は猫を抱き上げて玄関へ向かおうとした。

 けれど二日酔いのせいで動きが緩慢だった。

 猫は軽く身体を捻ひねって俺の腕の中から逃げ出すと、何事もなかったかのように鮭のところへ戻っていく。

 とりあえず鮭を食っていると言うことは今は人間を喰う気はないと言うことだろうか。

 しかし化猫というのは、人を喰ったり寝ている時に踊ったりするものではないのか。

 踊るのは構わないが人を喰うのは困る。

 学校から帰ってきてみたら家族がみんな喰われてしまっていたなんて嫌だぞ。


 もっとも、俺が学校へ行っている間、家にいるのは母さんだけだ。

 だから喰われるとしたら母さんである。

 しかし母さんが喰われることで俺の言葉が証明されても時既に遅し、だ。

 母さんは死んでしまっているのだから。

 けれど話を信じてもらえないのでは仕方ない。

 母さんは大丈夫だと信じて学校へ行くしかない。


 鮭無しの朝食を食べて部屋へ戻ると、窓の外に西新宿の超高層ビル群が朝日を背にそびえ立っていた。

 山手線の内側の人は背中は西側こっちの方だというかもしれないが。

 うちは超高層ビル群の近くにあり、俺の部屋の窓からはすぐそこに見える。


 日差しが二日酔いの俺を叱るかのようにまぶしく輝いている。

 俺は着ていた服を脱いで標準服に着替え、時間割を確認して鞄に教科書とノートを放り込んだ。

 夕辺は酔っぱらっていてとても学校の支度どころではなかったからだ。


 家を出て右に十メートルほど行った角で親友の内藤秀介しゅうすけと落ち合った。


 秀介――しゅうも俺と同じ標準服を着ている。

 秀は俺より少し背が高い。

 身長百七十五センチくらいだ。

 穏和で優しくて人当たりがいい。

 秀は滅多なことでは怒らない。

 保育園に入る前からの付き合いだが、秀が怒ったのを見たのは一度か二度、あるかないかと言うくらいだ。


「こーちゃん! 秀ちゃん!」

 女の子の元気な声が響いた。

 あずま雪桜ゆきおだ。

 俺達と同じ高校の標準服を着ている。

 雪桜が駆け寄ってきた。


「おはよう」

 雪桜が俺の顔を覗き込むようにして言った。

 こういう時、雪桜は俺に気があるんじゃないかと思ってしまう。

 しかし気のせいかもしれないので未だに確かめたことはない。

「おはよ」

「おう」

 秀と俺は挨拶を返した。


 雪桜も秀と同じく保育園の時から一緒に育った幼馴染みである。

 背は百五十センチちょいの小柄な女の子だ。

 俺達と同じ色のブレザーにスカート、襟元はネクタイではなくリボンである。


 俺達三人は小学校入学前からの幼馴染みだ。

 俺は幼稚園、秀と雪桜は保育園だったが近所に住んでいるのでいつも一緒に遊んでいた。

 小学校、中学校と一緒で、高校も同じ学校に入った。

 まぁ、家が近所で成績が似通っていれば高校が同じになっても不思議はない。

 とにかく、小学校に入学してから同じクラスになったりならなかったりしながらずっと一緒に成長してきた。


「孝司、夕辺はちゃんと眠れた?」

 秀がさわやかな笑顔で訊ねた。


 同じくらい飲んだはずなのに……。

 不公平だ……。


 雪桜は女の子なので流石さすがに飲み会には誘わなかった。

 そのため今朝もぴんぴんしている。


「眠れたことは眠れたが……、朝起きたら化猫が隣に寝てた」

「化猫?」

 秀も人に見えざるものが見える。

 だから化生けしょうの話をしてもすぐに信じてくれる。

 これが秀と俺をつないでいる一番強い絆だ……と思う。

 雪桜は見えないのだが俺達の言うことを信じてくれる。

 だから仲良くしていられるのだ。


 何しろ秀と俺は小学校の時、他の人には見えないものが見えるからという理由で仲間外れにされていた。

 小学校には白い着物を着た女の子がいて、よく一緒に遊んだ。

 一年生の時には秀と俺以外にもその子が見えてるヤツはいて皆で遊んでいた。

 雪桜にも見えていた。

 ところが二年になった頃から秀と俺以外にはその子が見えなくなり、一緒に遊んだことさえ忘れてしまった。

 雪桜もその子のことは覚えてない。


 何度も一緒に遊んでたのだが……。


 そんな風に見えざる者が見えていると言う理由で秀と俺は仲間外れにされた。

 救いと言えば秀と雪桜が一緒だったことだ。

 雪桜は仲間外れにされた秀や俺とずっと仲良くしてくれていた。

 そのせいで雪桜も仲間外れにされたが、それでも秀や俺と共にいてくれた。

 自然と俺達は三人で行動することが多くなった。


 俺と秀は雪桜以外の人間がいる時は見えざるものの話をしなくなったので中学に入る頃には仲間外れにされることはなくなったが、それでもいつも三人は行動を共にしていた。

 まぁ雪桜は女の子同士の交流もあるが。

 そう言うこともあって俺は密かに雪桜に好意を持っていた。

 雪桜は可愛いし、明るくて優しいというのもある。


「中年の男が猫になった。ていうか、正確には猫が男に化けてたんだろうけど」

 俺は今朝の事を話した。


「それって大変な事じゃない!?」

「それでどうしたの!?」

 秀と雪桜が同時に言った。

「どうしようもなかった。母さん達は俺の言うことなんか信じてくれないし」

「そうか……おばさんが化猫に食べられなければいいね」

「おばさん、大丈夫かな」

 秀と雪桜が母さんの心配をしてくれる。

「俺もそれが気掛かりなんだ」

 そんな話をしながら十二社じゅうにそう通りを南下し、新宿中央公園の角で曲がり――桜は満開だった――、公園通りの上にかる角筈橋を渡る。

 都庁第二本庁舎の横を通りながら俺達は化猫について話し合った。


 学校に着くと雪桜は別のクラスなので廊下で別れた。

 教室に入るとクラスメイト達の会話が聞こえてきた。


「……噛み殺されたんですって」

「虎がやったんでしょ」

「狼じゃないの?」

 クラス中が騒然としている。

「何があったんだ?」

 俺は秀に訊ねた。

 今朝は化猫騒動と二日酔いでニュースを見てくる暇がなかった。


「早稲田の辺りで男の人が大型の動物に襲われて死んだらしいよ」

 秀が教えてくれた。

「虎の仕業よ」

 近くにいた女子が言った。

「犬だろ」

 俺が女子に答える。

 しつけの悪い大型犬が人に危害を加えたという話はたまに聞く。

 大学構内で虎の飼育をしているという話は聞いたことがないし。

 あの辺りでは大型犬を散歩させている人を見掛けるから少なくとも虎よりは犬の方が有り得るだろう。


「猫科の動物らしいわよ」

「今日、早稲田で虎狩りするみたい」

 早稲田は住宅街だから虎の隠れる場所など無いと思うかもしれないが、あの辺りには戸山公園や箱根山がある。

 戸山公園も緑が多いし、箱根山には樹々が鬱蒼うっそうと生い茂っている。

 大学の敷地も広い。

 虎一匹くらいなら十分に隠れられるはずだ。

 ホントに虎がいるとは思えないが。

 大学でも虎は飼ってないだろう。

 そう言う話は聞いていない。

 この高校には早稲田に住んでる者が大勢いるから、そう言う生徒にとっては他人事ではないだろう。


 放課後、秀と雪桜と俺は連れだって学校を後にした。


「孝司、雪桜ちゃん、僕、話さなきゃならないことがあるんだ」

 角筈つのはず橋に近づいた時、秀が真面目な顔をして言った。

「どうした?」

「実は……付き合ってる人がいるんだ」

「え!?」

 雪桜と俺は驚いて言葉を失った。

「ていうか、付き合い始めたばっかりなんだけど」


 秀に彼女が……。


 なんとなく俺の方が先に彼女が出来るんじゃないかと思っていただけに先を越された衝撃は大きかった。

 こんな事なら雪桜に告白しておけば良かった。

 今までに何度か機会はあった。

 しかし、雪桜が好きなのは秀の方かもしれない、と思うと勇気が出なかったのだ。


 秀には将来の具体的な夢がある。

 まだ何も考えていない俺にはそれだけでも秀に引け目を感じるのに、その上彼女まで先に作られてしまうとは。

 秀の夢というのは、以前は人型の人間が乗れるロボット――もちろん、操縦席コクピットは胸部――を作ることだった。

 しかし人型のロボットは――小型で人間は乗れないが――既に各社が作ってるし、二足歩行型で人が乗れるロボットも俺達が生まれる前に作られていた。

 だからロボット制作はやめて――自分がやらなくても他の人がやってくれるだろうと判断したらしい――、NASAに入って国際宇宙ステーションの仕事に関わることにしたそうだ。

 最終的にはスペースコロニーを作りたいらしい。

 そしてスペースコロニーが作られてもまだ自分が現役で、かつ人間が乗れる人型ロボットが作られてなかったらロボット――当然、人が乗って操縦できるもの――を制作をするとの事だった。

 観ていたのがアメリカドラマならスペースコロニーの次は恒星間航行が出来る宇宙船を造るというところだろうが、秀が好きなのは日本のロボットアニメだ。


 秀はNASAに入るために英語の勉強を小学校の時からしている。

 学校の授業だけではなく、近所に住んでいるアメリカ人に家庭教師をしてもらってるのだ。

 NASAに入れる大学に入学するための塾通いもしている。

 日本の大学に入ってから留学するのではなく、最初からアメリカの大学に入ることを想定しているようだ。

 特に数学と物理を重点的に勉強していて成績が良い。

 秀の夢を聞く度に自分の将来のことを考えて焦ってしまう。


「小学生の頃から好きだった人がいるって話したでしょ」

 その話は何度も聞いていた。

 小さい頃から近所で時々見掛ける綺麗な人がいるとかで、秀はずっと片想いしていた。

 見掛ける度に嬉しそうに「今日すれ違った」などと報告してきていた。


 俺は見たことがなかったから、小学生が一目惚れする女の子なんてどんだけ綺麗なんだと興味があったのだ。

 雪桜も美少女だが、雪桜なら雪桜と言っていたはずだ。


 秀はその女の子の名前を知らず、時々見掛けるだけと言っていたから雪桜ではない。

 雪桜の他にも近所には綺麗や可愛いに当てまる女の子や女性はいるが、秀のように大袈裟に賞賛するほどではない。

 雪桜だって相当可愛いがそれでも秀みたいに絶賛するほどではない。


 もしかして秀とは美的基準が異なっていて俺は綺麗だとは思わないから見たことがあるのに気付かないだけなのではないか、という疑念を抱いたことが何度もある。


「じゃあ、とうとう告白したんだね」

 雪桜が言った。

「今日、中央公園で会うことになってるんだ。会ってくれるよね?」

 秀は俺達の方を伺うように見ながら訊ねてきた。

「もちろん」

「当然じゃない」

 俺と雪桜がそう答えると、

「良かった」

 秀は安心したように笑った。


「実はその人……」

 秀はそこまで言って言葉を切った。

 俺と同じものを見たのだ。


 満開の桜の樹の上に、体長六十センチくらいのずんぐりとして、くしゃくしゃの顔をした人ならざる者がいた。

 その化生けしょうが、信じられないほど長く腕を伸ばして通り掛かった社会人らしき女性を捕まえたのだ。

 化生は捕まえた女性を丸呑みした。

 俺は思わず顔を背けた。

 だが、咀嚼そしゃくする音が聞こえてきて気分が悪くなる。


 化生は女性を食べ終えると頭蓋骨をき出した。

 樹の下にしゃれこうべが積み上がっている。

 化生と骸骨がいこつの山は普通の人には見えないのだろう。

 見えていたら大騒ぎになってるはずだが通り過ぎる人達は何事もないかのように歩いている。

 桜の花びらが頭蓋骨の山の上にも降り注ぐ。


 どうして自分より大きい人間を丸呑みして喰ってしまえるんだ……。


 いや、問題はそこじゃない!


「どうかしたの?」

 雪桜が不思議そうに訊ねた。

 それに答えようとした時、俺と化生の目があった。


 俺が秀と雪桜の腕を掴んで逃げようとした時には遅かった。

 化生の腕が伸びてきて俺達は捕まった。


 随分長く伸びるんだな……。


 ……なんて感心している場合か!


 俺達三人は桜の樹の枝の上に下ろされた。

 化生は枝の付け根にいて俺達は細い枝の先にいるから二メートルほど離れている。


「な、何これ!」

 雪桜が驚いたように言った。


 捕まると見えるようになるのか……。

 よくこんな細い枝の上に俺達三人が乗っていられるな……。


 って、そこじゃなくて!


 このままでは俺達は化生に喰われてしまう!

 俺達もあのしゃれこうべの山の一つになるのか!?

 どうしたらいいんだ……!?


 焦るが、何故か身体が動かない。

 逃げられないし、抵抗も出来ない。

 化生が俺達を見て、にたり、とわらう。


 どうしたら……!?


 その時、俺達と化生との間に女の子が降り立った。

 女の子は俺達と同い年くらいか。

 背中までのまっすぐな長い黒髪をしていた。

 白いブラウスに紺色のタイトスカートをはいている。

 こちらに背を向けているので顔は分からなかった。


「綾さん!」

 秀が叫んだ。


 え……秀の知り合いなのか?


「狐か、なんの用だ」

 化生が言った。

「この子達を放してくれない?」

 綾と呼ばれた女の子が言った。

「何故」

「この子は私の孫」

 それは初耳だ。

 俺と同い年くらいの女の子が十年前に行方不明になった祖母ちゃんだとは。

 ちらっと見えた横顔は整っていて綺麗だったが祖母ちゃんとは似ても似つかない。


「こっちの子は私のい人」

 女の子が秀に、ちらっと視線を向けた。

「また人間か。好きだな。どうせすぐ死ぬのに。この前の男も死んだばかりだろう」

「十年前にね」


 俺の祖父ちゃんが死んだのは十年前だが……。


「仕方ないな」

 化生は残念そうに俺達を地面に降ろした。

「綾さん、ありがとう」

「ありがとう」

 秀と雪桜が礼を言った。


「危なかったわね」

 綾と呼ばれた女の子が言った。

「孝司、雪桜ちゃん、この人が僕の彼女。武蔵野むさしのあやさん」

 秀が何事もなかったかのように女の子を紹介し始める。


「ちょっと待て! あいつはどうすんだ! それにあんたが俺の祖母ちゃんってどういう事だ!」

 俺が叫んだ。

「綾さんは孝司のお祖母さんだよ」

 秀がさらっと、とんでもないことを言う。


「なに言ってんだ! 俺と同い年くらいじゃないか!」

「こーちゃん、落ち着ついて。まず話を聞いてみようよ」

 雪桜が冷静な声で俺をなだめる。


 たった今、化物に襲われたにしては落ち着いてるな……。

 てか、まだそこの木の上にいるんだが……。


「あいつが綾さんのこと狐って言ってたでしょ」


 あの状況でよく化生の話なんか聞いていられたな……。


「じゃあ、あんたは狐で俺の祖母ちゃんだって言うのか」

「そうよ」

 綾は平然と答えた。

「信じられるか!」

 俺はつい声を荒げてしまった。

「こーちゃん、落ち着いて」

「別に無理に信じなくてもいいわよ」

 綾はどうでも良さそうに言った。


「じゃあ、信じない」

「いいわよ。じゃ、帰りましょ」

「ホントに、こーちゃんのお祖母さんなんですか?」

「そうよ」

「お久し振りです。私……」

「雪桜ちゃんでしょ。覚えてるわよ」

「わぁ、嬉しい」

 雪桜の顔がほころぶ。

 雪桜はちょっと天然入ってるからか素直に信じたようだ。

 だが、今はそれどころではない。


「ちょっと待てよ! あいつをっとくのか!?」

「そうよ」

「このままじゃ、人間を喰い続けるんだろ」

「だから? 人間だって牛や鳥を食べるでしょ」

「人間は動物とは違う」

「違わないわ。同じよ」

「じゃあ菜食主義になれって言うのか?」

「そうじゃないわよ。ただ、人間が動物を食べるように、化生も人間を食べるって言うだけ」

「人間を喰う化生やつっとくなんて冗談じゃない! あいつをどうにかしないと!」

 俺は言い張った。

 あいつをどうにかするまでは意地でも動かないつもりだ。


「しょうがないわね」

 綾は溜息をくと、もう一度樹の上に飛び乗った。

 二階の高さくらいある樹の枝に、ひとっ飛びで飛び乗れるのだから普通の人間ではないのは確かだ。

「すごぉい」

 雪桜は綾を見上げながら言った。

「なんだ、雨月うげつ

 化生が綾に訊ねる。

「悪いけど河岸かし変えてくれない?」

「何故?」

「孫がうるさいのよ。見えない場所でやって」

「どうして儂がおぬしの言うことを聞かねばならない」

「私とここでやり合いたい?」

「儂に勝てると思うてか」

「相打ちくらいにはなると思うわよ」

 人喰いの化生は綾とやり合ったときの勝率を計算しているのだろう。

 しばらく黙り込んでいた。


「……いいだろう」

 ようやく化生が言った。

「今なら上野公園に花見客が沢山いるはずよ」

「うむ」

 化生はそう言うと消えた。

 綾が地上に降りてくる。


「あいつは他所よそへ行っただけなんだろ」

「そうよ」

「それじゃあ、場所が変わっただけじゃないか」

「これ以上はどうしようもないわよ」

「どうする気もないって事か」

「そう言うことになるわね」

 綾があっさり認める。


 悔しい……。


 人間を喰う化生が野放しになっている。

 俺はそれを知っている。

 だがどうにも出来ない。

 化生は姿を消してしまったし、たとえこの場にいたとしても俺に倒せるだけの力はない。

 孫だというのが本当なら、俺が化生に飛びかかっていけば加勢してくれたかもしれない。

 だが、それはそれで人の力を当てにしているという事で、自分の力ではない。

 もっとも、化生は樹の上にいたから簡単には飛び掛かれなかっただろうが。

 俺は自分の無力さに歯噛はがみする思いだった。

 力がないのが悔しい。

 ついさっき罪もない人が喰われるのを見たばかりなのに。


「孝司、いつまでもここにいても仕方ないよ」

「帰りましょう」

 秀と雪桜に促されて俺は歩き出した。

 少し歩いたところで悲鳴が聞こえた。

 人ならざる者の叫び声だ。


「なんだ!?」

「なんの悲鳴?」

 俺と秀は同時に辺りを見回した。

「悲鳴?」

 聞こえない雪桜が首をかしげた。


 辺りを見回すと大学生ぐらいの男が二人、小さな化生に何かをしている。

 化生はタヌキのような見た目をしていた。

 男達は僧侶のような服装だ。

 黒い着物に白い袈裟を掛けている。


「あの人達、何してるの?」

 雪桜が誰にともなく訊ねた。


妖奇征討軍ようきせいとうぐんとか称してる連中よ」

 綾が馬鹿にしたように言った。

「妖奇征討軍? なんだそりゃ」

「ああやって化生を退治して回ってる退治屋よ。三流のね」

「なんだ、そんな奴らがいたならさっきの化生もあいつらが……」

「三流って言ったでしょ。さっきの化生はあいつらには見えないの。だから退治も出来ないのよ」

「見えないって……あの化生タヌキは見えてるじゃないか」

「化生によって姿を消す能力ちからの強さが違うのよ。弱い化生ほど姿を消す能力ちからも弱いから」

「へぇ、そう言うものなんだ」

 雪桜が感心したように言った。


「あの化生タヌキは人間を喰ったり危害を加えたりするのか?」

「ただの狸よ。なんの力もないから、したくても出来ないわね。人間に化けることさえ出来ないから、ああやって見付かって追い掛け回されてるわけだし」

「それじゃあ、弱いものいじめじゃないか」

「そう言うことになるわね」

 綾が言い終える前に俺は妖奇征討軍の前に飛び出した。


「やめろ!」

「なんだお前は!」

 驚いた二人の手が止まる。

「早く逃げろ!」

 俺がそう言うと狸は一目散に逃げていった。


「何するんだ!」

「あいつが見えるって事はお前も妖怪か!」

「俺は人間だ。お前らだって見えてるじゃないか。お前らは人間じゃないのか」

「うっ……」

 妖奇征討軍は言葉に詰まった。

「弱い者いじめはやめろ! やるなら人を喰ってる化物を退治しろ!」

「そんな化生ヤツ、ここにはいない!」

「いや、いる。そこにそいつが喰った人達の骨が山積みになってる」

 そう言ってしゃれこうべの山を指す。

 妖奇征討軍が指の先に目をらした。

「お前達にはあれが見えないのか?」

 俺は馬鹿にしたように言った。


「なんだと!」

「人喰いの化物は上野に行った。上野公園だ。退治屋を名乗るなら人を喰う化物を退治してみろ。見えないんじゃ無理だろうがな」

「なんだと!」

「やってやろうじゃないか!」

「見てろよ!」

 俺が挑発すると妖奇征討軍はあっさり乗ってきた。

 二人は新宿駅の方へと向かっていった。

 あいつらがあの人喰いを退治してくれれば俺の罪の意識もなくなるだろう。

 奴らが喰われてしまったら罪悪感は二倍になるだろうが。

「こーちゃん、頭いいね」

 雪桜が感心したように言った。


 俺達は連れだって十二社通りを北上した。

 途中にあるファーストフード店に入ると、それぞれ飲み物を買って席に着いた。


「綾さんはホントに孝司のお祖母さんだよ」

「どうして」

 秀が言うには、綾と始めて出会ったのは俺の祖母ちゃんが失踪してしばらくしてからだという。

「あのな。祖母ちゃんが失踪した後に出会ったヤツなんて山程いるだろ」

 祖母ちゃんが居なくなったのは小学校に上がる少し前だ。

「小学校に入った後に知り合ったヤツはみんな当てはまるじゃないか。大体俺の祖母ちゃんは武蔵野綾なんて名前じゃないぞ」

 俺はフライドポテトを食べながら言った。

「そうだね。お祖母さんの名前は確か……」

 雪桜は考え込んだ。


「大森ミネ」

 俺が答えてやる。

「そうそう」

「武蔵野綾って言う名前は僕が付けたんだよ。今は名前がないって言うから」

「どうして?」

 雪桜が無邪気に訊ねた。

「私はもう大森の家を出たから、大森ミネは名乗れないでしょ」

 綾が言った。


「祖母ちゃんならなんで出て言ったんだよ。なんか不満でもあったのか?」

「源蔵さんが死んだから。お前も祐司も響子も、みさをさんも好きだった。あのまま年を取っていくことも出来たけど、いつまでもいたら邪魔でしょ」

「俺は祖母ちゃんを邪魔だなんて思ったことなかったぞ!」

「有難う。お前は昔からい子だったね」


 確かに言葉づかいは少し年寄りっぽいな……。


「でも、いつかは家を出なければならなかった。私はいつまでも死なないから。それなら早い方がいいと思って源蔵さんの四十九日が済んでから家を出たのよ」

 綾は俺の家族の名前を知っているし、いつ家を出たかも知っていた。

 しかしそれは秀に聞けば分かることだ。

 俺の祖母ちゃんである証にはならない。


「綾さんと初めて会ったときはね、綾さんの姿は二十代半ばだったんだよ」

 秀が「ものすごく綺麗な人がいた」と言っていたのは小学校に入ったかどうかの頃だ。

 人間なら十年前に二十代半ばだったとすれば今は三十代半ばでなければおかしい。

「僕と付き合うことになってから僕達と同い年くらいの見た目になったんだ」

 秀は大らかなヤツだとは思っていたがここまでとは。


 化生だぞ……。


「お前、それでいいのか?」

「僕は綾さんが好きだから」

「俺の祖母ちゃんだなんて言ってる化生なんだぞ」

「もし僕が綾さんと結婚したら、僕、孝司の義理のお祖父さんだね」

「ホントだ」

 秀と雪桜が笑い合う。

 俺は脱力して何も言う気がしなくなった。

 あばたもえくぼとはこのことか。

 確かに絶世の美女だがこれは化生が化けているのだ。


「あんたが化生で、俺が孫だっていうのが本当だとしたら、俺は四分の一は化生って事か?」

「そうよ」

「俺に化生が見えるのも……」

「四分の一、化生だから」

「だったら父さんは半分化生って事か?」

「そうよ」

「なら、なんで化生が見えないんだ? 姉ちゃんも」

「祐司は強い能力ちからを持っていたけど臆病で自分の能力ちからを怖がった。だから能力ちからを封印してもらったのよ。今では能力ちからを持っていたことも覚えてないわね。なろうと思えば現代の安倍晴明にだってなれたのに」

 綾が言った。


「現代の安倍晴明って、もしかして安倍晴明もあんたの息子なのか?」

「まさか。流石さすがにそんな年じゃないわよ」

 綾が笑って手を振る。


 問題はそこか?


「どっちにしろ安倍晴明って京都で活躍してたんだから関西の人じゃないの?」

「生まれは常陸国の猫島らしいわよ」

 常陸国ひたちのくにが本当だとしたら茨城県だから関東北部だ。

 ただ、綾はこの近辺から離れた事がないから常陸国のような遠い場所の話は噂で聞いただけとの事だった。


「響子がなんで見えないのかは分からないわね。四分の一となると力も大分弱くなるからそのせいかも」

「俺の力は見えることだけなのか?」

「あとは普通より丈夫で長生きするって程度ね」

 と言うことは長生きを前提に人生設計をしなければならないと言うことか。


 あんまり長生きしすぎて世界記録に残ったりしたら嫌だな……。


 俺達はそれからしばらくとりとめのないことを喋ってから店を出た。

 綾が祖母ちゃんだとは認められないが秀の彼女としてなら合格だ。


 雪桜は、綾と並んで歩く秀を見ながら、

「秀ちゃんにさきされちゃったね」

 と小声でささやいてきた。

 特に落ち込んでいるようには見えない。


 と言うことは秀が好きな訳じゃなかったって事か?


 俺にも少しはチャンスがあるんだろうか。


 家に帰ると母さんは無事だった。

 どうやら今日のところは喰われなかったらしい。

 猫は俺の部屋にいた。


「抵抗するなよ」

 俺はそう言いながら猫に手を伸ばした。


『何する気よ』

 猫が言った。

「喋った!?」

『あら、言ってることが分かるのね』

「お前、化猫だろ」

猫又ねこまたよ』

 猫が答える。


「だから、それは化猫のことだろうが! とにかく、言葉が通じるなら丁度いい。うちから出ていけ」

『嫌よ。あんたが出ていけばいいじゃない』

「ここは俺のうちだ!」

『だから何よ』

「だからじゃないだろ! 出ていけ!」

『何よ! あんた生意気よ! たかが毛のない猿のくせに、私に命令出来ると思ってんの!』

「なんだと!」


 なんて可愛くない猫なんだ!


 もっと殊勝な性格なら置いてやろうという気にもなるのに。

 こうなったら意地でも捨ててやる。


 もう一度猫に手を伸ばそうとした時、

「孝司、なに騒いでるの? 夕食の時間よ」

 母さんが階段の下から声を掛けてきた。


 俺はそれ以上猫に構うのをやめて階下へ降りた。

 猫も後からいてくる。


いてくるなよ」

『あんたこそ私の前を歩かないでよ』

 俺達は台所に入った。


「あら、仲良くなったのね」

「なってないよ」

『なってないわよ』

 俺と猫が同時に答える。

「ほら、なってるって」

 言ってない。


 母さんは完全な人間だから化猫の言葉が分からないのだ。

 母さんが床に猫の餌を置いた。

 猫が早速食べ始める。


「この子、名前が必要よね」

 猫を見下ろしながら姉ちゃんが言った。


 姉ちゃん、そんなにそいつを可愛がらないでくれ。

 後で捨てに行くんだから。


「そうね。猫だからタマとかトラとかミケとか……」

 ミケ、と言った時、猫の耳がぴくっと動いた。

「この子、ミケって言うみたいね」


 三毛猫じゃないんだが……。


「お前、ホントにミケって言うのか?」

『違うわよ』


「ほら、返事した。やっぱりミケって言うのよ」

 やはり姉ちゃんには言葉も分からないらしい。

「名前を呼ばれて返事をするなんて利口な猫ね」

 姉ちゃんが猫を褒める。

 綾がホントに俺の祖母ちゃんだとしたら、姉ちゃんも俺と同じく四分の一は化生だし、父さんなんか半分だ。

 なのになんで俺にしか聞こえないんだ。


 俺はこのせいで仲間外れにされたというのに不公平だ。

 姉ちゃんは化生が見えない代わりに怪力だとか聴覚や嗅覚が異常に鋭いだとか、何か他のことで悩んでいる風にも見えない。

 それともやはり綾の話は嘘で、俺はただの人間なんだろうか。

 ただ、それはそれで、どうして俺には人ならざる者が見えたり声が聞こえたりするのか説明が付かない。


 妄想なのか?


 しかし、それなら秀も同じ妄想が見えていると言うことになる。

 ミケは捨てにいこうとしている俺を警戒してるのか、その晩はずっと母さんと姉ちゃんの側を離れなかった。

 なかなか狡賢ずるがしこいヤツだな。


 喋るし、俺の家族には取り入るし高飛車たかびしゃだし

 なんなんだこの態度のデカい猫は。

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