ふゆの章
柚
第1話 不自由な少女
自由のない、不自由な
祖父がつけたという、なんとも嫌な名前だ。
未来あふれる赤ん坊にそんな名前をつけた張本人の顔を、不由は全く覚えていない。物心ついたときには空襲で焼けてこの世を去っていたからだ。
戦争の真っ只中に生まれた不由が三歳の時に玉音放送が流れた。
もちろんその放送の詳細など不由は覚えていないが、これがもう少し早ければ空襲で祖父が命を落とすことはなかったのだと親族が悔し気にこぼしたのは覚えている。
戦争が終わってから生まれた弟の『
――村は閉塞感に満ちている。
近隣の市街地が空襲で焼けて、その復興までの間はこの田舎にも焼け出された人々や都会からの疎開児童がいて少し賑わっていたが、建物の建設が軌道に乗り、街が蘇りつつある今ではその賑わいもすでに過去のものとなっていた。
だが、長男が家を継ぎ、娘は嫁に出て子を生み夫と家を支える……それ以外の生き方などあり得なかった村に、一瞬だけ入ってきた外の世界の風は不由を魅了した。
とはいえこの時代、家長の父の意見は絶対である。女の不由が勉強をしたい、外の世界へ行きたいなどというのは当然許されなかった。
それでも、戦後に新制中学校が発足して義務教育が六年から九年に延びたので、田舎の山奥に住む不由も中学校へ進学できた。両親は女に学などいらないのに、としきりにこぼしていたが、不由にとっては快哉を上げるレベルの出来事だった。
「ついに誘われたの? やったじゃん!」
中学三年目のその年の夏、同級生たちは夏祭りの花火大会の話で持ちきりだった。
花火大会と言っても夏祭り会場で見るわけではなく、隣の市の大きな花火大会を山から眺めるだけなのだが、そこに気になる相手を誘って二人で見るのを中学生最後の夏の思い出にするのだそうだ。
意中の相手から声をかけられたと色めき立つ少女たちを、不由は別世界の話を聞くような気分で聞いていた。
「ねえ、不由は誰かを誘わないの?」
「興味ない。夜に外に出るのは嫌いなの。色々寄ってくるでしょ、虫とか」
――物の怪とか。
続く言葉は声には出さなかった。
どういう方法かは誰も知らないのだが、不由が生まれたときに、生まれたばかりの彼女が見鬼の才を持つことを見抜いたのは祖父だったと聞いている。そしてその上で『不由』などという名をつけたというのだからまったくひどい皮肉である。
「せっかくの花火なんだから、虫くらい我慢しなよ」
呆れたように言われて、不由は愛想笑いだけを返した。
我慢できないわけではないが、煩わしいあれらを我慢してまで見たいと思わないのだから仕方がない。
不由は見鬼だが、どうにもそういうモノからは嫌われている。
連中も嫌いならば寄って来なければいいと思うのだが、どうにも連中の肝試しのネタにでもされているのか気が付くと遠巻きに囲まれていたりする。特に陽の光のない夜はその傾向が著しく、正直ザワザワとうるさくてたまらない。
人気のない山の中で、もののけにぐるりと囲まれて花火見物なんて考えただけでげんなりしてしまう。
別に想う相手もいないし、いたところでどうせ親の決めた相手に嫁がされるのだから、中途半端に思い出があったって虚しいばかりだ。
なのに。
「今井、花火一緒に見ないか」
「……」
学校からの帰り道で幼馴染の
……少し上気した頬と、微妙にそらされた視線から嫌な予感はしていた。
よりによってこの男に誘われてしまうとは。
喜一は幼馴染だが、彼の祖父は農業組合のお偉いさんだ。
農業が主要産業の村内では絶対的な権力を持っている。なのに彼は気さくでスポーツ万能。恋い焦がれる女子など掃いて捨てるほどいる。
しかし残念なことに、不由は別に彼に何の感情も抱いていない。ここで断ってしまえばそれで終わり。それはそれでいい。
(喜一は良くないだろうけど、私が知ったことじゃないわ)
問題なのは、喜一に恋い焦がれる女子の中のひとりが、村長の孫娘の
彼女自身は非常に愛らしく慎み深い性格であるのだが……いかんせん、その取り巻きの質が悪い。
取り巻きは三人。
彼女たちは美雪を崇拝している――あるいは、村長の孫娘を立てて何らかの利益を得ようとしている――ので、美雪が喜一に焦がれているのだから、二人は思い合っていなければならない、と信じているらしい。
そして、非常に不都合なことに、先程不由が呼び止められたところをそんな取り巻きの一人に目撃されてしまっていた。まあ、下校時に人がいるところで呼び止められたので遅かれ早かれ話は伝わっただろうが。
とにかく喜一が不由を呼び出したことはすでに取り巻きに伝わってしまっている。
そして喜一の様子と、この時期であることから『花火のお誘い』であることは、いかに美雪と喜一が結ばれると信じている彼女たちであっても想像に難くないはずだ。
――となれば、このあと待っているのは取り巻き達からの嫌がらせである。
幼馴染であるがゆえに喜一は普段から気安く不由に声をかけてくる。それが面白くないと常日頃から細かい嫌がらせを受けている。
それが、二人で花火見物だなんていったらどんな目に合わされるのか。断ったら断ったで彼の名に泥を塗ったと責められるかもしれない。彼女たちは理不尽の塊だからだ。
なので、不由は嘘をついた。
「ごめんね、先に他の人に行くって返事しちゃった」
「……っ、そうか……呼び止めてごめん」
すでに相手がいるのだとほのめかした。
誰と、と聞きたかったのだろうが、出かかった言葉を飲み込み、泣き笑いのような顔でそう言って喜一は走り去っていった。
喜一は良いやつだ。
彼に恋していない不由の方がおかしいのだ。
感じた胸の痛みは、どう矯めつ眇めつしてみても友人を傷つけてしまった痛みで、恋の甘さなど少しも見当たらなかった。
***
花火大会まで一週間。学校は明日から夏季休暇に入る。
湿度の高い熱気がベタベタとまとわりつくような暑い日だったが、明日からの休暇に生徒たちはウキウキとした空気を振りまいていた。
学校が休みだと家の農作業を手伝わなければならず、勉強ができないのであまり喜んでいない者も不由を始めとして幾人かはいる。だが、概ね楽しい雰囲気であふれていた。
……喜一とはあの日から会話をしていなかったが、噂によれば彼は花火見物には行かないことにしたらしい。
きっとたくさん誘われただろう。不由のことなど早く忘れてくれればいいのに。
「今井さん、ちょっといい?」
教師から夏季休暇の過ごし方の注意を受け、学校から開放された途端に満を持して現れたのは美雪の取り巻きだった。
帰宅路の途中にある、舗装などされていない小径は緑が迫る勢いで濃く茂っていて、おそらく周りから不由たちの姿が見えない。
そういう場所を狙って声をかけてきた三人組が、どうせろくなことを考えているわけがない。……が、躱して通り抜けようにも、前も後ろも塞がれていた。
だから不由はいつものよそ行き笑顔で答えた。
「全然よくないわ」
「っ……いいから来なさいよ!」
乱暴に腕を掴まれる。
抵抗してもいいのだが、家までしつこく付きまとわれても困る。ここで罵られてそれでおしまいならその方がいいかもしれない。
そう判断した不由は、引きずられるままその場から連れ去られた。
普段人があまり使わない、獣道一歩手前のような道を引きずられてたどり着いたのは、山の中腹ほどの踊り場のように少し拓けた場所だった。
斜面側に木がなく、土が露出している。周りの山が見渡せて景色のいい場所だな、とぼんやり思った。
しかし同時に、拓けていて見晴らしが良いということは、遮蔽物がなくて日差しが容赦なく降り注ぐということだ。――後々思い返してみれば、この時点で不由もだいぶ暑さにやられていたのかもしれない。
「美雪さん、ショックで寝込んでしまったのよ。あんたのせいで」
「はあ、そうですか」
そんなことを突然言われても、美雪が寝込むのと自分との間の関連が分からなかったので気の抜けた返事しかできなかった。
そういえば今日美雪が欠席だったような気はするが、基本的に不由は彼女に興味がないので気にしていなかった。
「なにその返事!」
「なにって言われても」
「あんたが身の程知らずにも
「あんた以外と花火に行く気がないなんて、どう考えてもおかしいじゃない!」
取り巻きが金切り声で訴えることをまとめると、昨日美雪は喜一(フルネームは吉崎喜一だ)を花火に誘ったのだが、喜一は『不由以外と行く気はない』というような答え方をしたらしい。
それで美雪はショックを受け泣きはらして今日学校を休んだ……ということらしい。
(……喜一の野郎……)
なぜよりにもよってそんな答え方をしたのか。
普段ならばのらりくらりと躱すのだが、不由も暑くて頭が回らなくなっていた。ついでに明日から家の手伝いで忙しくなり、思うように勉強ができない日々が始まることに苛立ちが溜まっていた。
「別に誘惑なんてした覚えはないし、文句なら美雪さんを泣かせた喜一に言えば?」
「なんて……恥知らず!!」
「吉崎くんに怪しげな呪いでも使ったんじゃない? だってそういう家だもん」
そういう家。
今井家は見鬼が生まれる家だという噂がある。基本的にそういった記録がどこかに残っているわけではなく、その真偽は不明だ。
不由の見鬼の才を見抜いた祖父は見鬼だったのかもしれないが、それも実際どうだったのかは分からない。
……まあ、不由が実際にそうなので、火のないところに煙は立たない、というところではある。
「やだ、気持ち悪い……」
「そんな家、村から追い出しちゃえばいいのに」
「呪いで脅してるとか。吉崎くんのお家も脅されてるんじゃないの?」
もうめちゃくちゃだ。あまりにもバカバカしいのでもう付き合いきれない。というか暑いのでせめて日陰に入りたい。
「じゃあ、望み通りあんた達を呪ってやろうか」
そう言って不由はニヤッと笑ってやった。
なんだかんだ言っても小さな嫌がらせをするしか脳のない連中だ。すぐに怖がって逃げると思ったのだ。
「……触らないで、化け物!!!」
顔色を変えた一人が不由の腕を振り払い、更に両手で力いっぱい突き飛ばした。
(触らないでったって、人の手を掴んでたのそっちでしょ!?)
不由の反論は言葉になることはなかった。
獣道一歩手前の山道の途中に転落防止の柵など当然あるわけがなく。
そもそも、斜面沿いで、木がなくて土が露出しているということは、そこは過去に土砂崩れがあった場所だということ。――脆く、崩れやすくて当然なのだ。
日差しで体力を削られた不由の体はたやすくよろめき、崩れた足元の土とともにそのまま山の斜面を転がり落ちていった。
あとに残された三人は、声も出せずにお互い顔を見合わせた。
流れ落ちた汗は暑さによるものだけではなく、ひどく冷たかった。
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