第3話 過去
あたしの人生の最大の転機がいつかと問われたなら小学4年生の頃だったと答えるだろう。ママのが突然天国へ帰らぬ人になってしまった。通勤中の交通事故だったらしい。ママは大好きだったから、報せを聞いてからしばらくくやしくって泣いていた日々が続いたけど、しばらくすると泣いてばかりじゃいられない状況になっていた。あたし以上に悲しんでいたパパが何が妖にでも憑かれたかのように豹変したのだ。家の外では前と変わらない様子だったのに、家の中ではあたしに対して全ての家事を強要したり、浴びるような酒に酔っては殴る蹴るを繰り返すようになっていた。暴力を振るわれてあたしが大きな声で泣いていると、
「俺の前でグズグズ泣いてんじゃねーぞ!泣いたってなあ、どれだけ泣いたって救いなんてねーんだよ」
そう言うと、ますますあたしに対して暴力を振るうものだから、あたしはいつの日か泣くのをやめた。パパの酔ったときに言う言葉は、あたしを、そしてパパ自身の心をも傷つけるような言葉だったのだろうと今になっては思う。
パパとあたしは、小学5年生の秋になると、東京から長野に引っ越しをした。パパは仕事の都合で引っ越したと言っていたが、本当は家族3人で暮らしてた頃の家にずっと住んでいるとあの頃の幸福な時間を思い出して辛くなるからだってことをあたしは本能的に理解していた。
「東京から転校してきた清水葵です。皆さんよろしくお願いします」
まるでロボットのように無機質に読み上げる。新しい学校のみんなはあたしに話しかけてくれたけど、慣れない環境と家庭内暴力であたしの精神状態は擦り減った消しゴムのような状態だったから、自分のことだけで手一杯で他人のことにまで気が回らないというのが本心だった。というより、優しかったママが亡くなってパパが豹変したこの状況を他人に知られるのがたまらなく嫌で、誰とも深く関わりたくなかった。
話しかけてもほぼ無反応のあたしからどんどん人は離れていったけど、1人だけしつこくあたしに対して話しかけてくる男の子がいた。毎日無視してもあまりにもしつこく話しかけてくるから、ついに根負けして、必要最小限の会話を少しずつする様になった。何かとあたしの情報を言いふらされるのは嫌だったけど、人と久々にするまともな会話はなんだかすごく新鮮に感じた。
蝉が短い命を燃やすように鳴き始めた小学校6年生の初夏の頃、あたしは家に向かって全力で走っていた。何も楽しみなイベントがあるわけじゃあない。学校に忘れ物をして帰宅時間が遅くなり、門限がすぐそこに迫っていたのだ。
「はあ、はあ、はあ、はあ……。」
腕を全力で振り、脚をひたすら前へと踏み出す。6時間目の体育から着替えることもなく、汗びっしょりの体操服姿で全力で通学路を走り抜けていた。信号が青へと変わり、横断歩道を渡ったあとに角を右折し、ようやく家の玄関が見えてきたその瞬間、一気に全身の血の気が引いていくのが自分でも理解できた。パパが自宅の玄関の前で仁王立ちしていたのだ。眉が吊り上がり、鼻息を荒くしているその形相は、まさに鬼と呼ぶべきものである。
「パパ、遅くなっちゃった、ごめんなさい」
あたしがポツリとこぼした瞬間、目にも止まらぬ平手打ちが飛んできた。四発、五発、六発……矢継ぎ早にどんどん来る恐怖に、ひたすら耐える。泣き出しそうになった時は、優しかったパパとママの顔を思い浮かべて堪えた。十五発くらいで激しい平手打ちが終わると、その後はひたすら罵詈雑言を吐かれた。お酒臭い口から吐かれるパパの言葉は、あたしの心臓をグサリグサリと刺していく。30分近く経っただろうか。その瞬間、背後から声が聞こえた。
「清水さん……?」
声の主はいつも質問をしてくる男子だった。彼を見るとパパは、あたしと同じ学校の生徒と瞬時に理解したらしくバツが悪そうにわたしの手を引き、自宅のドアを乱暴に開け、鍵を閉めた。
結局家に入った後、気が変わったのか罵倒も暴力もなく重い沈黙が流れたまま、あたしは腫れた顔を冷やし、寝室で泥のように眠りについた。眠りに入る寸前、パパの啜り泣くような声が聞こえたような気がしたけれど、それな夢がうつつかはわからなかった。
翌朝いつものように教室に入ると、なんだかクラスの不穏な気配を感じとった。いつもはみんなあたしになんて興味ない、って感じなのに今日はあたしにジッと目線を向けてくる。昨日の平手打ちで顔が腫れているから?いや、今朝鏡を見た時はかなり腫れは目立たなくなっていた筈だ。私は気味悪い視線に鳥肌を立てながら音を立てないように自分の席に座ると、少しやんちゃな男子グループがあたしに向かって、
「おい清水、お前テストの点数悪すぎて親父にビンタと説教食らったってほんとかよ!はっはっは、お前普段物静かなくせにスッゲーバカなんだな」
と大笑いしながら話しかけてきた。あたしは彼らが笑った後に咄嗟に周囲を見渡すと、クラス全員が例外なくあたしを嘲笑していたのが見えたから、思わず顔を伏せながら逃げるように教室を飛び出し、女子トイレの個室に駆け込んだ。少し目の前が真っ暗になりそうなのを堪えながら思考を巡らせると、あたしのテストの点数を知っていてかつ、そして昨日の出来事を観ていた男の顔が頭に浮かんだ。ああ、そういうことか。アイツはあたしが平手打ちされている時から止めることもなく一部始終ぜーんぶ見ていて、一通り見た後にヒーロー気取りでノコノコとあたしに声をかけた挙句、虚実織り交ぜてクラスメイト全員に昨日あったことをあたしの笑い話としてしゃべったんだ。普段からあたしと話をしてるから、みんな信じたに違いない――。
あたしは全てに気付いても何もできないことにただただ無力感を覚えていた。今日は学校を早退しようかとも考えたけれど、アイツらのために早退してやるのも癪だし、何より早く帰宅したと担任に連絡を受けた父親の詮索を受け流すのも容易ではない。
教室に戻ると、担任の谷先生に呼び出された。どうやら先生もクラスメイトの例の話を聞き、こっぴどく叱ったらしい。
「清水さん、あんな噂を言いふらされるのは嫌だったよね。先生、そんなクラスメイトを馬鹿にするような陰湿な行動は最低だって叱っておいたから」
「先生、ありがとうございます。でも、気にしてませんから。」
一応そういう風には言ったものの、先生の心遣いはとても嬉しかった。全員が敵になった今、頼れるのは谷先生だけだ。
「それでな、一応念のため今日清水さんの家に家庭訪問することになったんだけど、都合が良い時間帯とか、教えてくれるかな?」
その言葉を聞き、あたしは思わず頭が真っ白になった。言葉の意味を理解すると、身体中から嫌な汗をかくのが実感できた。もし先生がこの話をパパに話したら――。まずあたしが疑われるだろう。その後は、想像するのも恐ろしい。
「い、いや、先生。あたしは、大丈夫ですから。根も葉もない噂ですし」
「噂が事実かどうかを確認しにいくんだよ。それに、清水さんの顔、少し腫れてるよね?そのことについても聞かなきゃならないんだ。担任としてね」
谷先生は優秀な教師だ。あたしたち生徒に寄り添い、よく観察している。ただ、この時だけはその優秀さをちょっぴり憎んだ。
もう太陽の顔が見えなくなりかけていたころ、谷先生はあたしの家にいた。谷先生とあたし、そしてパパは居間で3人で今日のクラスであった出来事、そしてその噂の真実かどうかをパパに尋ねた。
谷先生は優秀な教師だが、それ以前に善人だ。多くの人に好かれるような太陽みたいな人と自信を持って言える。だから、人を深く疑うことを知らない。あたしのパパが穏やかな顔で
「顔が腫れていたのは階段でつまづいたみたいです。平手打ちと説教は娘の成績などではなく、私が偶然帰路についていた時に、葵が信号無視をしたのが見えましてね。娘を大事に思うが故についつい感情的に叱ってしまいました。私も親として未熟だったと心から反省しています。谷先生にはわざわざご足労おかけして大変申し訳ございません」
という大嘘を、最終的に信じてしまった。始めこそは清水さんは信号無視をするような子じゃない、と疑ってはいたものの、パパに結局言いくるめられてしまったのだ。
「わざわざお時間を作っていただき大変ありがとうございました。では、私はこれで」
谷先生の背中が豆粒ほどに小さくなると、パパの鉄拳が飛んできた。
「このガキ、噂だなんだと言ってたが結局は教師にチクリやがったってことだよな!俺をどいつもこいつもバカにしやがって!」
そう言うと、他人に勘付かれないように、顔以外の目立たない部分を何度も何度も殴った。いつもなら機嫌が悪い時にしか振るわれなかった暴力が、この日を境に日常的なものへと変わっていった。
今でもあの日についてははっきりと覚えている。あたしが中学校に進学してから半年が経ち、冬の始まりが少しずつ頭を覗かせた10月のことだった。パパは会社の飲み会に行っていたらしく、丑三つ時に泥酔しながら玄関のドアを開けた。あまりに物音を立てて帰宅するものだから、熟睡していたあたしの目も覚めてしまった。再び眠ろうとしてもなかなか寝付けないものだから、冷蔵庫から牛乳でも飲もうと布団から起き上がりキッチンへと向かうと、そこにはパパの姿があった。とんでもなく泥酔している時は、大半が不機嫌であたしに暴力を振るうが、ごく稀に上機嫌で話をするだけで何事もなく終わることがある。後者であることを祈りながら、
「パパ、おかえり」
と恐る恐る声をかける。もし無視したとバレたら問答無用で鉄拳が飛んでくるからだ。パパはおもむろにこちらを振り返ると、少し口角を上げた。パパが取った行動は、今までにない行動だった。笑いながらあたしの胸ぐらを掴み、思い切り床へとあたしの身体を押し倒し、
「パパ、何するの!?やめて」
あたしが痛みに悶えながら力を振り絞って叫ぶと、
「うるさい、お前だってもう中学生なんだからわかるだろ」
と、あたしの細い腕を乱暴に抑えつけ鼻息荒くパジャマを脱がせようとしたのだ。
(このままだと犯される――。)
あたしが力一杯にパパの股間を蹴ると、彼は悶絶しながら股間を抑えた。その瞬間になんとか拘束から脱出したあたしは、ただただ恐怖で脚が震え立ちすくんでいた。
「てめえ、殺すぞ」
パパがあたしに向かって猪のように突進すると、咄嗟にその場にあったものを手に取り、男へ向けて思いっきり突き刺した。あたしの手は震えていたが、心臓を貫いた包丁は、彼の生気をみるみると奪っていった。
「なんで、なんでこんなことになったの?あたしは、あたしは、あたしは……」
ママが死んだから?あたし達が東京から引っ越したから?いや、違う。あの家庭訪問だ。あの家庭訪問の日があたし達の運命を決定づけたんだ。そう考えると、あたしにしつこく話しかけ、噂を流布したあの男への憎悪が燃え上がるように湧いてきた。
あれからさまざまな警察関係者の方が私に話を聞きに来たので、あたしはありのまま起こったことを何度も何度も繰り返し話した。思い出すのは辛かったけど、真実を伝えるためだとなんとか堪えた。現場の捜査状況や証拠から、あたしの供述に矛盾がないということで、半年後には法的手続きに基づき正式に正当防衛が認められた。あたしは母方の叔父によって引き取られることになり、北海道へと転校することになった。事件性も考慮されたのか、学校側の配慮によって他の生徒に事件の詳細については伏せてもらった。正直言って、この配慮は色々とありがたかった。
長野での最後の登校日、あの憎き男が馴れ馴れしく話しかけてきた。
「なあ、お前の家で何があったんだ?先生達に聞いても誰も教えてくれなくてさ」
「世の中には知るべきこととあまり知らない方が良いことがあるのよ」
最後の最後まであたしを不快にさせるヤツだった。こんな土地に来ることは二度とないだろう。煮えたぎる思いを抱えながら、最後にそう吐き捨てた。
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