第四話 流人、篁

流人、篁(1)

 雪がちらついていた。

 風は冷たく、寒さが身に堪える。

 着ているのは、黄衣こうえと呼ばれる無位の者が着る浅黄あさぎいろの上着だけだった。


 小屋とは名ばかりの柱と屋根があるだけの場所で、鉛色に濁った海の姿を眺めていた。

 風が強いため、今日は出航できない。

 そんな声が風に乗って聞こえてくる。

 誰かが舌打ちをした。

 自分を護送するための役に就いている検非違使の誰かであると、小野おののたかむらは気づいていたが、海から目を逸らすことはしなかった。


 検非違使は、全部で五人だった。全員が太刀を腰に佩き、着物の上に鎧を着込み武装しているが、誰よりも身体が大きいのは篁であった。

 偉丈夫いじょうふ。そう呼ばれるほど、篁の身体は大きかった。身長、六尺二寸(188センチ)。周りから見ても、頭ひとつ飛び抜けている。そんな篁を流刑るけいである隠岐おきへと送り届けるための役を命じられたのは、五人の検非違使であった。

 五人とも、武芸の腕はかなり立つ。篁が流刑地に着く前に逃げ出そうものなら、この五人の検非違使たちが相手になる……というわけではなかった。この五人は、友人である賀陽かや親王しんのうが篁の身を案じて付けた護衛なのだ。

 そのため、検非違使たちは人の目のないところでは篁の縄を解き、ゆっくりと休ませたりしており、護送役というよりも世話係といった面も強かった。


「篁様、本日は船を出せないとのことです。申し訳ありませんが、この先にある漁師小屋で一泊していただく必要があります」


 そう申し伝えてきたのは、一番年かさの検非違使であった。


「すまんな、私のために」


 篁は申し訳無さそうにそう言うと、検非違使たちとともに今夜の宿泊地である漁師小屋へと移動した。


 寒さを凌ぐため、小屋の中では火が焚かれており、その火の上には鍋が掛けられていた。その鍋からはなんとも言えぬ、うまそうな匂いが漂ってくる。ちらりと中を覗くと、魚の頭や切り身と野菜が一緒に煮込まれているのがわかった。


「いま、縄を解きますゆえ、しばしお待ちを」


 先ほどの年かさの男がそういって、篁の身体と腕の自由を奪っていた縄を解きに掛かる。

 両手の自由を得た篁は、ゆっくりと手首のあたりを擦りながら、自由を得た喜びを噛み締めていた。


「漁師から酒と鍋を分けてもらいましたゆえ、いただきましょう。篁様の口に合いますか、どうかはわかりませぬが」


 そう言いながら検非違使のひとりが、酒の入った小さなかめわんを持って小屋へと入ってきた。雪は少し強くなっているようで、その検非違使の肩には白い雪の塊が乗っかっていた。


「ささ、篁様」


 検非違使たちは、篁にまず酒と鍋を勧め、篁が口をつけるまでは決して誰も手を出そうとはしなかった。彼らは検非違使の中でも、しっかりと気の行き届いた者たちなのだ。


 篁は、酒をひと口飲み、それから鍋の中の魚の切り身を口に入れた。

 味付けはひしおでされていたが、魚の旨味が染み込んでいたため、それだけで十分に美味かった。


 篁がひと口食べて頷くのを見届けると、検非違使たちは我先にと鍋に手を伸ばした。

 流刑に処せられているというのに、贅沢なものだ。

 篁は自分の置かれている境遇に感謝していた。


 夜になり、篁は筆と紙を借り受けて、ふみうたを書いた。

 文は妻であるふじに当てたものであり、詩は自分のいまの気持ちと境遇を書いてみた。

 この時に篁の書いた詩は、後に百人一首に収められている。


『わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟』


 参議篁。それは、後の篁の異名である。

 ちなみに小野篁が参議となるのは、この10年後であり、現在は流人るにん篁に過ぎなかった。


 夜になり、篁は身体を縄できつく縛られてから横になった。

 これは篁の望んだことであった。

 夜になれば、奴が現れる。この身体を奴の自由にさせないために、篁は検非違使たちに自分の身体を縛らせているのだった。


 そして、闇が訪れる。


「篁よ、篁よ」


 闇の中で声が聞こえてくる。

 聞き覚えのある声。かつては、この声の主が吉備真備であると思っていたが、いまはそれが間違いであったということを知っている。この声の主は、真備ではない。鍾鬼しょうき。それが声の主の名だった。夢を喰らう物怪もののけ。いや、バケモノと呼んだほうが良いかもしれない。


 まだ篁は、この鍾鬼の姿かたちを見たことはなかった。あるのは、吉備真備の身体を操っている鍾鬼の姿だけである。そのため、鍾鬼が実際にはどのようなバケモノであるかはわかってはいなかった。


「偉いもんだな。旨い酒に、旨い汁。お前は本当に流人なのか」


 鍾鬼は皮肉を言って聞かせる。

 しかし、この程度の皮肉は篁には、まったく響かなかった。


「篁よ、いい加減、この身体を我に寄越せ。悪くはせん。お前も現世の王になりたかろう」


 甘い言葉。この甘い言葉に乗ったら最後、身体は鍾鬼に乗っ取られてしまう。

 篁はそれがわかっていたため、鍾鬼の言葉に耳を貸すことはしなかった。


「篁よ、篁よ」


 鍾鬼は毎夜、毎夜、篁に囁き掛け続けるのだった。

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