広嗣の怨霊(6)

 朝廷からの協力は得られないまま、新月の晩を迎えてしまった。


 篁は親族や友人たちに『決して今宵は外には出ないように』とのふみを送り、妻にも外出を控えるようにと伝えていた。


 今宵、藤原ふじわらの広嗣ひろつぐの百鬼夜行を止められるのは、自分だけである。篁はそう自負していた。

 篁以外の弾正台の役人たちは通常業務に当たっている。ただ、宿直とのいの人間は、朱雀すざく大路おおじの見回りは免除するという通達が、弾正だんじょうのかみである秀良ひでなが親王しんのうよりされていた。


 秀良親王は、朝堂での出来事を篁に語って聞かせ、力になれなかったと申し訳なさそうに言った。

 悪いのは秀良親王ではない。この事態を理解することのできない朝廷の人間たちに問題があるのだ。篁の腹の中では朝廷に対する不満が少しずつではあったが、膨れ上がって行っていた。


 おそらく、陰陽寮も弾正台と状況は同じであろうということが予測できた。

 秀良親王によれば、朝堂で時を同じくして陰陽寮からの解状も読み上げられたとのことだったが、公卿たちの反応はいまいちだったという。そして、賀陽かや親王しんのう藤原ふじわらの常嗣つねつぐのやり取りについても秀良親王から聞かされた。


 賀陽親王と篁は友人であった。元は中務省時代の上司と部下という関係であるが、ふたりの仲はそれだけではなく、共に酒を飲み交わすようなものとなっていた。賀陽親王が少しでも肩を持ってくれたことはありがたかった。しかし、何故に藤原常嗣が今回の件で難癖をつけてきたのかが理解出来なかった。

 特に藤原常嗣とは関わり合いを持ったことはなかったはずだ。いて言うのであれば、藤原常嗣の室であるともの右大うだいとは、一度だけ会ったことがある。しかし、その晩の話を伴右大が夫である常嗣に語っているとは考え難いことだった。


 まあ良い。どうにかなるであろう。


 篁は愛刀である鬼切おにきり羅城らじょうの太刀を腰にくと、家人たちに「今宵は一歩も屋敷から出るな」と伝えて、屋敷を出た。


 まだ日は西の空にあった。雲一つない空が広がっており、夕日が眩しかった。

 本当であれば東寺の空海にも協力を仰ぎたいところだったが、空海は現在、高野山にいるため、連絡を取ることができなかった。


 朱雀大路に出ると、その道を真っ直ぐに南下し、篁は羅城門へと向かった。

 大内裏内は宿直の舎人とねりたちによって、警備が固められている。舎人とねりを動かしてくれたのは、賀陽親王であった。

 しかし、舎人が警備を固めたところでどうにかなるというものではなかった。相手は、藤原広嗣の怨霊と百鬼夜行である。篁のように鬼を斬るための太刀を持っているわけでもなければ、呪術を使えるというわけでもない。普通の弓矢や太刀ではどうすることもできないのだ。


 こうなれば、藤原広嗣を平安京みやこ内に一歩も立ち入らせないようにするしかなかった。そのかなめとなる場所。それが羅城門であると篁は考えていた。


 平安京みやこには、羅城門以外に外界がいかいと繋がる場所は存在していなかった。

 羅城とは、都市を取り囲むようにして存在している城壁のことであり、羅城門はその羅城に取り付けられた門という意味である。平安京には羅城門以外に、羅城には門は設置されていない。羅城門は巨大な門であった。二重閣の入母屋造いりもやづくりで、大きさは七〇尺(21メートル、現代でいえば6階建てのビルの大きさに相当する)を超える巨大な城門である。


 羅城門の中へと入った篁は、埃臭さに顔をしかめたが、そのまま二階へと続く階段を昇って行った。

 ここ数年、羅城門の手入れはされてはいなかった。一時期は得体のしれない者が住み着いたりしていたこともあったが、それは弾正台や検非違使けびいしの見回りによって改善されていた。


 城門の二階は真っ暗だった。誰が貼ったのかはわからないが、窓枠には木の板が貼りつけられており、外の明かりが入ってこないようになっていた。

 軋む木板を踏みしめながら、篁は窓のある場所へと近づいていく。


「篁様、準備は整っております」


 不意に闇の中から声を掛けられた。

 振り返ると、そこには男装のが立っていた。花は小脇に抱えるようにして木箱を持っている。その木箱は閻魔が花に持たせたものであった。箱の中身は、例の左腕である。これは、藤原広嗣を釣るための餌だ。そう閻魔は言っていた。


 窓枠に付けられていた板を外すと、西日が城門の中へ差し込んできた。この夕日が沈むまで、まだ時間はある。今のうちに出来る準備をしておこう。篁は背負っていたえびらを下ろすと、弓のげんの張りなどを確かめた。

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