200×年 7月 〇〇県

ようやく懐かしの故郷の地を踏んだ。

時間は既に夕方近くなっていた。

ああ、空気が美味しい。

青々と広がる空が本当に美しい。

新緑を湛えた豊かな田園が目に優しい。

緑の稲が風にそよいでいる。

なんてきれいなんだろう。

なんだか、長い間紛争地帯や荒廃した国に海外旅行に行ってて、やっと人間の世界に戻ってきたような心持だ。

身体の中もきれいにしたい。

そうだ、さっきは行けなかった御梅軒に行ってお茶でも飲もう。

御梅軒ならお茶は無料だ。

本田さんにお礼とお別れを告げた後、私は街の御梅軒に走った。


御梅軒に着くとそこには顔なじみの地元のおじさんたちと…

父がいた。

「あれ、お父さん」

父は私を見て

「ああ、本田が、お前が御梅軒に行ったって連絡くれてな」

と言った。

本田さん、私が帰宅した事を、携帯電話を持っていない私に代わってわざわざ父に連絡してくれたんだ。

気が利くなぁ。

さっそく御梅軒に入った。

冷房が効いてて気持ちいい。

私が母からもらった千円札を出すと、それを見た父の顔色が変わった。

「おまえ、なんでそんなに持ってる」

あ、しまった。

まー仕方ないか。

母は父と祖父には内緒にと言ったけどばれちゃ仕方ない。

「お母さんが、万一何かあった時のためにってくれたの」

父は険しい顔をした。

「あいつ…またへそくりか…」

母はへそくりを固く禁じられているのにとにかくしょっちゅうへそくりをする。

兄のハンバーガー事件以来へそくりの罰則が厳しくなったのに母はなぜかそれをやめない。

私は千円札を券売機に入れた。

真っ先に父が130円の「きつね」を押す。

私は80円の「わかめ」を押した。

おつりの790円がカランカランと出る。

父の大きな手が790円を回収し、790円は父の財布の中に入った。


しばらくして、食べなれたきつねとわかめが来た。

出汁が効いてて美味しい。

おふくろの味とは正にこのことだろう。

2人でそばをすすっていると父がぽつりと言った。

「××県、つまらんかったろ」

「うん。やたらバスが多くて、へんな大きいだけの建物と変な人しかいなかった」

くだらん変わってねぇなと父は笑った。

父が笑うので私は嬉しかった。

「バカほど高いところに上りたがるんだ。この国は地震もあるのにあんなバカみたいなもん作って本当にバカだ」

「空気だって汚かったし、あ、そうそう、ごはんの値段もめちゃくちゃ高かったよ。たぬきが600円だもの」

「たぬきで!? くうっだらない」

父はますます愉快そうに笑った。

「そういうのは値段だけで味なんかしないもんだ。バカな連中がありがたがって食ってるだけだ。ああ、昔と全然変わってないんだな。やっぱりあそこはバカばっかりだ」

そうだ、あのぐちゃぐちゃのオムライスもきっと味なんかしないんだ。

あの子達はそれに1200円も出して食べるんだ。

スタバのコーヒーだってきっとそうだ。

「人間はそう簡単に変わらんからなぁ、バカは死んでもバカなままだ」

そう簡単に変わらない…

ん?

だけど、兄はなぜ急に変わったんだろう?

兄はどっちかといえば軟弱な方で男を持ち出すタイプではなかった。

父はそれを心配し兄を父と祖父の母校の柔道部に入れた。

その時だって兄は文化部に入りたいと駄々をこねたのに祖父と父が殴って正しい道に行かせたのだ。

なぜ就職の時、父と祖父を説得していた時の兄はあんなに男らしかったんだろう。

あのときだけ兄は人が変わったようだった。

人が変わったと言うか、まるで…

学芸会で台本でも読んでいたような…


文化部?

兄は何部に入りたいと言っていたっけ?


「お前、高校卒業したら○○産業の〇〇支店に配属だが、なんならもう二学期からインターンで行け。今のうちに仕事に慣れとけ」

父が言った。

〇〇市は〇〇県でも穏やかで良い人の多い市だ。

あそこなら実家から通えるからいいね、と私が言うと父はそうだろうと微笑んだ。

「社長に言って来た。もし資格が無くてもあとでゆっくり取ればいいって。おまえの婿さんも俺と親父がみつくろってやる。何もかも至れり尽くせりだ。安心しろ」

ああ、私はずっとここにいられる。

外を知らない人間は今時だめになるってテレビで言ってた、と兄は言った。

でも外があんな変な人しかいないおかしな所なら出ても意味がないんじゃないだろうか。

「お前達、兄妹で同じ支店に配属だ。お前は正継のお目付け役だ」

やっと夢がかなう、と父は少し涙ぐんだ。

父の同僚で自分の息子の兄弟を二人も入社させた人がいて、そのとき社長さんは感激のあまり号泣したらしい。

祖父と父はいつもその同僚を羨ましがっており、俺も社長に泣いてほしいとお酒が入るたびに言っていた。

父にも兄弟はいるけど、みんな他の支店に配属になってしまった。

「正継、もうすぐ帰るからな」

え、兄が?

「お兄ちゃん帰るの?」

「悠長に遊ばせてられんくなった。中途という形になってしまうが止むを得ん」

父の顔が険しくなった。

「こないだなあ…とんでもない事件があったんだ」

とんでもない事件?

「ヤクザが美人局を○○産業の〇〇支店に産業スパイとして潜入させて、そのスパイが社員を騙して金を横領したあげく重要なデータを盗んだんだと」

ええー、テレビみたいねーと御梅軒のパートのおばさんがおどろいた。

「若い頃から外国で麻薬売ったりしてたとんでもない悪徳スパイだったんだ。日本人にしか見えなかったからすっかり騙された。でも、若いのに外国に行った経歴があるし、あげく御梅軒やクッキーを知らないとか、おかしなことがあったから周囲の人間はすぐおかしいとわかったらしい」

お粗末なスパイだなと他のお客さんが笑った。

そういえば今日会った××県の女性警官も御梅軒を知らなかった。

日本語は上手だったけどあの警察のお姉さん、外国人だったんだ。

なーんだ、それなら納得だ。


(※作者注:警察官の採用試験には日本国籍が必要です)


そういえば祖父がよく話していたっけな。

日本は金持ちだから出稼ぎに来る外国の人が多いって。

あのお姉さんもその口かあ。

若いのに苦労して大変だ。

でも日本語を勉強して警察官にまでなったなんて偉いじゃん、褒めてあげよう。

「だいたい若い女でわざわざ外国や大学なんか行ってる奴なんか、銭と暇を持て余したすねかじりのバカに決まってる」

私のクラスでも大学に進学する女子は家が病院とかそういう子ばかりだ。

「それか麻薬か売春やってるに決まってんだからその時点でぶん殴ってふん縛ってブタ箱にぶちこんどけばよかったんだ。普通、若い奴が外国行くなんてこと、絶対ありえないんだから。俺かオヤジがあの支店にいたら間違いなくそうしていたのに」

あとの父の話を要約するとこうだ。

その産業スパイが目を付けた〇〇支店は、地域柄のせいか、すごくお人よしで親切な人ばかりだったらしい。

なるほど、ヤクザが狙うのも納得だ。

〇〇市の人達じゃ仕方ないと私は思った。

学校の遠足で行ったことあるけど、あそこは本当に穏やかで優しい人達ばかりだった。

「正継の嫁候補に困らんのはいいことだが」

と父はため息をついた。

その、困ってる人を放っておけない人の良さが裏目に出て、みんなすっかりスパイに丸め込まれてしまったらしい。

なかにはわざわざスパイを夕飯に誘って色々相談に乗った社員さんもいたらしい。

しかしその社員さんは親切にした相手が質の悪いヤクザのスパイだったと知り、ショックで倒れてしまったそうだ。

その社員さんの従兄の男性とスパイのお見合いまでセッティングしてあったのに。

この話を聞いた時、その社員さんはなんて優しくて心配りの出来る人なんだろうと思った。

〇〇支店に配属されたらぜひ友達になろう。

さらにその社員さんは、スパイを夕飯の席に招き、色々と親身に話を聞いた結果

「おそらくスパイはまともな家庭でろくな愛情を受けて育っていない、いわゆる愛情欠乏症だ」と考えたらしい。

そんなふうに考えないと筋が通らない程その人の話はおかしかったんだそうだ。

ありもしないテレビ番組を言ったり、友達とコンビニによく行くとか、夢でも見てるみたいな事ばかり言ってたらしい。

父も祖父も祖母もみな言っていた。

コンビニなんてクソの役にも立たん、食いもんは「ほりはらさん」か「△△スーパー」で買えばいいし、本は図書館か本屋に行けばいいし、そのほかの日用品はドラッグストアでじゅうぶんだ。

あんなところに行く若い奴はバカか愛情不足の不良だけだって大人はみんな言う。

そんなところに友達同士で行くなんてまずありえない。

その社員さんだって、まさか相手が本当にヤクザのスパイだったなんて思わなかったんだろう。

「それで考えた末に、なんとその社員、スパイ野郎を資料室に案内してやったんだと」

資料室に…!?

「いくらなんでも親切が過ぎるよ、全く」

資料室とは〇〇産業の長年の歴史、仕事の書類がしまってある部屋だ。

あんな尊い場所にヤクザなんか連れて行ったって豚に真珠、猫に小判だろう。

父はゆっくりと目を閉じた。

「我が社の資料室はな…宝なんだ。宝物をしまってある、この世で最も尊い場所なんだ」

そう語る父は本当に幸せそうな表情をしていた。

穏やかな寝顔のようだ。

「だから父さんは、落ち込んだ時とか、仕事がうまく行かん時は、資料室に入るんだ。あそこに入ってファイルの束を見回して、ゆっくりとこれまで手掛けてきた書類を見ていくんだ。そうすると、しぜーんにこう、あたたかい心がじんわりと湧いてくるんだ。時には目頭が熱くなる時もある。ゆっくりと、我が社の積み重ねと、入社してからの日々に思いを馳せていくんだ。するとな、色々な事が心に浮かんでゆくんだ。同期たちとの切磋琢磨し、熱が出た日もめげずに出社し、みんなに助けてもらった日々…そこで気付くんだ。大事なのはやっぱり思いやりだと」

父も祖父も祖母も、いつも思いやりの心を持てと言っていた。

私はその言葉が大好きで常に心に刻んでいた。

〇〇支店資料室にも祖父が書いた習字「思いやりの心」が飾ってある。

私も見せてもらったけどとても豪快で達筆な字だった。

「そう…思いやり。思いやりの心だよ」

父は言った。

「思いやりの心、心のふれあい、切磋琢磨…どんな時でもいつもそれが大事だった」

そうそう、祖父の座右の銘である「切磋琢磨」の習字も各支店の資料室に飾ってるんだった。

すごく豪快な字なんだよね。

切の字が豪快すぎて「ヒカ」にも読めちゃうのが祖父らしい、御愛嬌だけど。

よく父と祖父は、兄に説教するとき、思いやりの心を持て!切磋琢磨しろ!て叱ってたな。

なつかしいなあ。

「資料室にいると、ああ、人間、当たり前の事を忘れたらいけないんだなぁ、としみじみ思うよ。お父さんなんか何度行っても感動してしまう」

父はそこで言葉を切り、目じりに沸いた小さなしずくを拭った。


「……それを…あのヤクザども…言うに事欠いて…監禁だなんて…!」


「監禁?」

「あとでヤクザが仲間を連れて脅迫にきやがったんだ……ホコリ臭い物置にスパイを監禁して傷物にしただの………何がホコリ臭い物置だ……あの部屋は…あの部屋は…!」

私は驚いた。

父の声が震えている。

「……お父さんは…情けないよ…!天下の〇〇産業が…三下ヤクザふぜいになめられるなんて……」

父が泣いていた。

男の人が泣くほどの事に父の慟哭の激しさを肌で感じた。

「ヤクザども…事もあろうに我が社をオケラだと侮辱したらしい…情けないよ…その場に親父か俺がいたら三下ヤクザなんか怒鳴りつけてやったのに…」

と父は涙声で続けた。

「〇〇支店の社員も悪いんだ。人が良すぎるのも考え物だ。 スパイ野郎は、人の心が無いんだ。人間じゃないんだ。人間じゃない者を資料室に案内したって何にもならないのに…」

人間じゃない?

「なにせ〇〇支店の社員たちが心配して『思いやりの歌』を歌ってやっても、スパイには何一つ、響かなかったらしい」

「えーっ、『思いやりの歌』を!?」

私はびっくりした。

『思いやりの歌』は〇〇産業の社長が作詞作曲した曲だ。

社長さんは学生時代は友達同士でフォークバンドを組んでたそうだ。

それだけにとてもいい歌だ。

毎年、会社主催のキャンプに行くたびに、私達は『思いやりの歌』を合唱する。

雄大な山のふもと、星空の下、虫の声の中、木々のざわめく風の中…

キャンプファイヤーに照らされながら父がギターを弾く。

その旋律に乗せて、参加者の家族みんなで歌った。

あれは本当に感動的で壮大な体験だった。

中には涙を浮かべる人までいたぐらいだ。

あの感動がわからない人がいるなんて…

ん?

でも、待てよ?

「お父さん、もしかしてそのスパイ、本当に元々、日本人じゃなかったんじゃないの?」

私は言った。

「御梅軒も知らなかったんでしょ。日本語がわからないから思いやりの歌の意味がわからなかったんじゃないの」

「あ、案外そうかもしれん。お前、頭いいな!さすが、おふくろ似だ!」

父が私の頭を撫でてくれた。

「それだけじゃなくスパイには貴重なデータが入ったメモリも奪われてしまった。ヤクザどもは、まったく知らんと白を切ってるらしいがミエミエの嘘だ。ヤクザの嫌がらせにおびえて退職する社員まで出てしまったんだ。とんだ大損だ。ああ、もう、俺か親父がいれば絶対そんな風にはならなかったのに…! そうだよ…俺が…この俺がいたのに…舞…なんでだ…!!」

父は拳を握り締めた。

その拳には血管が浮き出ていた。

「…すぐに俺が行きたいが、俺は自分の支店を守る義務がある。正継しかいない。〇〇支店に正継を配属させて盤石の守りにする。あいつはどっかあぶなっかしいが、お前を正継のお目付け役にすれば大丈夫だ。これぞ完璧な采配だ」

でもあのバカ兄、ちゃんと帰るかな。

遊び惚けてるんじゃないかって気がする。

「なあに、そこは抜かりない。ゆうべ母さんに何としても正継を説得するよう釘を刺しといたからな」

兄は昔から母には弱い。

そういえばゆうべはお母さんずいぶん長い事電話をしていた。


……待てよ。

ゆうべの電話で気になるやりとりがあった。

会話の中で、母は確かにこう言った。


―――シェルター?そんなところ、本当にあるの?


母がそう言うと受話器の向こうから兄の怒号が響いた。


―――声がでかい!いいか、誰にも言うなよ!絶対だぞ!


そのことを父に話すと父は笑った。

「へえ、そんなことがあったのか。そりゃ間違いなく夜の店の名前だ」

夜の店?

「まあ、男にはそういうのも必要なんだ。お前も結婚して、婿さんが遊んでもドンと構えてろ。なぁに、最後にはちゃんと嫁さんのところに戻るもんさ」

そこまで話して父は

「舞が嫁さんになってくれるはずだったのにな…舞…もう家族なんだから遠慮しないで俺と親父を頼ってくれればよかったのに…」

と寂しそうにつぶやいた。

本当にそうだ。

父と祖父がどれだけこの地で力があるか、困った時はいつでも言ってと、原田舞さんには説明したはずなのに。

「しかし正継が夜の店通いとはなぁ。あいつももう、そんな年になったか…あの泣き虫がいっちょまえになったもんだ。親父冥利に尽きる」

父も祖父もよく夜の店夜の店というけど、いまいちそれが何を意味するのか私はよくわからない。

母だけが、子供の前でそういう事を言うのはやめてくださいと逆らって、祖父に叱られていた。

「親父としてもう少し遊ばせてやりたいが現状そうも言ってられん。正継ももう充分甘えただろう。俺は今まで一度も誰かに甘えた事はない。男に生まれた以上、甘える事はけして許されん」

たしかに父に甘えなんて言葉は似合わない。

父はむしろ、人を甘えられる実力者だ。

「天下の〇〇産業が、うす汚いヤクザ風情になめられてたまるか。小鬼課長として黙ってられるか!」

ヤクザめーっ! 俺は負けんどーっ!と父が咆哮した。

周囲のお客さんたちが

「さっすが小鬼課長!」

「ヤクザなにするものぞー!」

とヤンヤと喝采した。

ウオオオオーッ!と父は更に大きな雄たけびをあげ、自慢の大胸筋をどすどすと叩いた。

父の声が○○県中に、いや、日本中に、いや世界中に響き渡ったような気がする。

こんなに町の人に慕われる強いお父さん。

心の底から感動が沸き上がった。

私は父を誇りに思う。


食事が終わった。

父と二人で御梅軒を出ると、綺麗な夕焼け前の空が広がっていた。

田園風景に茜色の夕焼けの光が溶けている。

その美しさはまさに芸術だ。

なんて美しい町だろう。

さっき××県で見た黄色い煤けた空とは大違いだ。

人の心も、空も、空気も美しい。

思いやりに満ちた町。

この町こそ正しい町だ。

兄は三年も別の町にいてまだわからないのか。

それとも兄のいるところはまた全然違うのかな…。


私はずっと、ずっとここで生きていくんだ…

ここが私のいるべき場所だ。



でも気になる事がある。

実は、あの時の電話の会話には続きがあった。

母はあの後、そのシェルターとやらに娘の私も連れて行けないかと兄に言っていたのだ。

夜の店なのになぜ母と私が行かないといけないのだろう。

電話の向こうの兄はこう言った。


―――おふくろ、あいつのことはあきらめろ。最初から無かったものと思え。


―――でも、でも…


―――あいつ、俺がガキの頃“おふくろは可哀想だ。いつも殴られて叱られて”って言った時、何て言ったと思う?

“嫁の分際で大黒柱に逆らうからいけないんでしょ”だぞ。小学校低学年でこんなこと言ったんだぞ。


―――それは…それは昔の事でしょう。あの子だって意味がわかって言ったんじゃないよ。お義父さんとお義母さんと…あの人がいつもそう言うの聞いてたからよ、子供だから、意味がわかってなくて…。


これを聞き取った時失礼だなあと思った。

小学生でも大黒柱の意味ぐらいわかってます!

まったく、お母さんはいつも私を過小評価するんだから。

兄は更に続けた。


―――あいつはばあちゃんのコピー、いやクローンだ。

―――おふくろが決心しないと俺も決心出来ない。

―――おふくろの人生だろ、頼むからいいかげん、自分の人生歩んでくれよ。


クローン?

いつからマンガの話になったんだろう?

それを聞いてなぜか母は泣いていた。

なんでだろう。

たしかに私は幼いころからよく祖母に似ていると褒められたが…

それに、人生?

急になんでそんな言葉が出るの?

ああもう、抜けてる人同士の会話は意味がわからないなぁ。


そのあとも母と兄は少しの間話していたが、会話の中で兄は一番気になる事を言った。


―――俺、知ってんだよ。本田に聞いて。俺のいない間、あいつらが何をしてきたか、全部知ってんだよ。


今思えばこの「本田」は、今日送ってもらった父の後輩の本田さんのご家族だろうか。


―――おふくろだって、知らないわけないだろ。あいつらが何人転校に追いやったか!


あいつら?

あいつらって誰の事だろう?

転校って、まさか転校していった私の友人たちの事だろうか。


この町に新しく人が引っ越して来るとき、その人の情報はたいてい事前に祖母が仕入れていてくれていた。

私は祖母から聞いた事前情報をはやいうちに周囲と共有した。

苦労している子がやっていきやすいよう周囲のみんなにその情報を広げた。

原田さんが親が離婚して苦労している事、新谷さんが前の学校でいじめられて転校してきたこと、吉野さんがハーフな事…

他の子達の事も、みんながより彼女たちの事を知って馴染みやすいように、気を利かせて彼女たちの事情をみんな話して回った。

それにみんな可愛い子で性格も良かったのですぐ家に招待して一緒に夕飯を作ったりした。

そういう気の利くところは流石鬼課長の孫だと大人に褒められた時は本当にうれしかった。


原田舞さんや吉野茉奈さん、他にも多くの女の子を家に招いた。

原田さんはウェディングドレスより神前式がいい、自分が一人っ子だから大家族に憧れがある、子供は3人は欲しいと話してくれた。

だから祖母はわざわざ故郷の実家から思い出の白無垢を取り寄せたのに。

吉野茉奈さんも料理の筋が良かったので祖母がつきっきりで親身に料理を教えてあげた。

新谷安奈さんは父や祖父が名前通りの安産型だと褒めたたえた。

新谷さんが来た日、祖父はすぐ懇意にしているお寺にひ孫の名前の名付けを頼んだ。

私と兄と父の兄弟たちの名付けの代からずっとお世話になってる占いの先生に、原田舞さんと兄の相性を鑑定して貰ったらこれ以上ないほどに最高の相性だった。

祖母も祖父も大喜びしていた。

特に父の喜びようは凄いもので、舞、舞がうちに嫁ぐのか、ああ舞、舞と大はしゃぎしていた。

祖母は新谷さんが前の学校でいじめられたのは全て前世の因縁であると見抜いた。

すべては新谷さんが兄と出会って恋に落ちて結ばれる為に仏様が用意してくださった導きだよと夜遅くまで懇切丁寧に教えてあげていた。

新谷さんは感動で泣いていた。

他にもたくさんの同級生を家に招待して友達になった。

私は、友達と家族になれるなんてすごく素敵な事だなとワクワクした。


なのにみんな、1人残らずいなくなってしまった。

友達の私に何も言わず転校してしまった。

なにもかも、お膳立てしてあげて、トントン拍子にうまく行っていたのに。


やり残したことと言えば。



せいぜい、あとは残すところ、彼女たちと兄との顔合わせぐらいだったのに。



まさか一連の転校事件の影に犯人がいたのだろうか。

まさか私の知らない所でいじめがあったのか?

友人たちの動向には常に目を配っていたのに。

だとしたら絶対に許せない。

私の心に正義の炎が燃え上がった。

私は、卑怯な真似や、弱いものを寄ってたかっていじめる事が世の中で一番大嫌いだ。

父も祖父と祖母に、弱いものいじめは最悪の卑怯だ、男のやることじゃないと教えてくれた影響だ。

兄を問いたださないと。


そうだ、兄が希望していたのは演劇部だった。

なぜ今、こんなことを思い出したんだろう。


確か小学校のときに、小学校に人形劇の劇団が来たんだ。

いつものように母が暴走して勝手に私と兄の観覧を申し込んでいたんだ。

私は劇なんか退屈で退屈でたまらなくて、早く帰って祖母とドクダミのお世話をしながら町の人の話をしたいなとずっと思っていた。

変わり者の兄だけは食い入るように見ていたけど、私には祖母の話の方がずっとためになるし面白かった。

3丁目の山田さんが息子の初任給でテレビを買い替えたとか、

酒屋の初孫が斜視なのは東京から来た奥さんの血が悪いせいだとか、

雑貨屋の娘さんは24歳になっても独身だからいいかげん仲人を世話しないといけないとか、

床屋の娘さんはまだ20にもならないのに派手なガラスの置物をたくさん持っている、あれは絶対副業でこっそり夜の仕事をしているからだとか、

魚屋の隣の夫婦は結婚して1年も経つのにまだ子宝が無い、絶対石女だからとっとと離縁すべきだとか、

そんなふうに、祖母は街で起きたいろいろな話を知っていた。

私はその祖母の話に、私が学校の友達から聞いた街の人の話を付け加える。

これにより、ますます話が深まるのだ。

街の人達への理解が深まり、ますますこの街が好きになるのだ。

兄は男だからかそういう話にまったく興味を持たなかった。

こういう実のある会話の方が面白いと思うんだけどな…

劇が終わった後、劇団の人達のお話があったけど、そっちはもっとつまらなくて変な話ばかりで私は退屈だった。

「誰でもみんな良い所がある。ひとつひとつ伸ばしていけばみんな立派な人になる」

兄はその劇団の人の言葉にすごく感動していた

家に帰ったら父と祖父が

「くだらない事を理屈っぽく言って賢い事を言っているように見せるのは典型的なバカがやる詐欺と同じや、だいたい芸能関係の人間なんかみんなろくなもんじゃない」

と教えてくれたので私は騙されずに済んで良かったなと思った。

母は祖父と父から、騙されやすい未熟な子供にくだらんものを見せて悪い影響を与えかねない真似をした罰を受け、誠意を見せろと夜遅くまで怒鳴られていた。

そのせいで夕飯が遅くなった。

あのときも私はおなかがすいてとても困った。


そんなおかしな兄が、関東の会社で修行したいと父と祖父を説得している時だけは別人だった。

あの時の兄はまるで台本でも読んでいるように別人だった。



もう少しで家に帰るところで、お向かいの家族に会った。

兄と同い年のたかしくん一家だ。

二言三言挨拶を交わした後、父は言った。

「…なんで正継は、たかしくんみたいにならなかったんだろうな…」

たかしくんは幼い頃からスポーツ万能で、柔道はしていないが高校ではバスケ部のキャプテンを勤めていた。

今でも〇〇大学でバスケサークルに入っているそうだ。

祖父も父も母校の高校の柔道部では主将を勤めたのに、兄はダメだった。

兄が主将になれなかった日、祖父も父も大泣きしながら兄を殴っていた。

親をこんなに泣かせて兄は何て親不孝なんだろうと思った。

「やっぱり、名付けが悪かったんだ」

父は言った。

代々お世話になっているお寺の住職に幾つか名前を考えてもらったけど、それじゃだめだったんだと父は言った。

「決めてあるんだ。正継の息子の名付けは社長に頼む」

いいじゃない!と私は言った。

「そうだろう?正継とお前を〇〇支店に入社させてヤクザを追っ払って、更に社長に孫の名付け親になってもらう。これでもっと社長の覚えもめでたくなる。いや、いっそ社長に仲人になってもらって正継とお前の結婚相手を見繕ってもらう。式は会社主体で豪勢に挙げてやるからな!よし、これで我が家は安泰だ!」

父は力強く言った。

私の結婚式は豪勢な式になるんだ。

今からワクワクしてきた。



私と父は家に帰宅した。

私はすぐに電話機に走った。

まずは兄に電話だ。

原田さん達をいじめた犯人を聞かないと。

だけど電話機には母の字で書かれたメモが電話に貼ってあった。


“正継は引っ越すので携帯を変えるそうです。今までの番号は通じません”


へえ、どうやら兄の説得は成功したようだ。

お母さんもやるじゃん。

おしりに火がついてるからかね。

兄が実家に戻れば株式会社〇〇産業〇〇支店は安泰だ。

私がしっかりあのボンクラ兄貴を支えて、社員の皆さんを守ってあげなきゃ。

あれ?

そういえば、母といえば、もう夕飯の匂いがしてきていい頃なのに。

おかえり、と祖父が玄関に顔を出した。

「お母さんは?」

私が聞くと

「△△スーパーさん」

と祖母が答えた。

「△△スーパーさんといえばさあ、ねえ聞いてよ」

祖母が悲しそうな顔で話し出した。

いつも元気な祖母がこんな悲しそうな顔をするのは珍しい。

どうしたんだろう。

「さっきね、お花の会のみなさんと△△スーパーさんに行ったらね、不審者は即通報します、用もなく他のお客様に絡む行為はご遠慮くださいーなんてデカデカ書いた張り紙が貼ってたんだよ。しかも何か警察からのお知らせだなんて物騒な店内放送が流れてたし」

祖父が、なんだそりゃ気持ち悪いな、と言った。

「そうよぅ、お花の先生をびっくりさせちゃって恥かいちゃったわよ。せっかくみなさんと楽しくお話してるときにまったくもう…」

祖父は

「そんな生々しい話、買い物客が聞きたくないってことぐらいわからんかな」

と言った。

祖母がとため息をついた。

「ったく、今度から用がなかったら他のお客さんと話もできないのかい。冗談じゃないよ。この町はずっと昔から人と人のふれあいの心で成り立ってきたんだよ。今の人はそういう、人間として当たり前の心がないのかねぇ」

父は「思いやりの心もないからだ」と言った。

「思いやりの心があれば買い物するところでそんな話をしたらおふくろや親父みたいな一般市民がびっくりする事だってわかる。それが当たり前なんだ。今の世の中はそういう当たり前のことを全然知らんし知ろうともしない。だからどんどんおかしくなっていくんだ」

祖母がうんうんと頷いた。

「そもそも、こういう事はおおっぴらに言うもんじゃないって親から教えてもらってないのかしら。ゾッとするよ。いったいどういう躾されてんだい今の人は。トイレだって工事中だったし全くついてやしない」

祖父が

「そもそも不審者なんか隙があるから来るんだよ。俺なんか何十年ここに住んどるがそんなもん聞いたことも会ったこともない。会ったら自慢の大外刈りをお見舞いしてやりたいからぜひお会いしたいんだがな」

と笑った。

私も△△スーパーは子供の頃から祖父母や両親と一緒にしょっちゅう行ってるけど不審者なんて会った事無い。

クラスには時々不審者に追い回されたと話している子がたまにいるけどあんなの疑わしい。

いつだったか同級生の子が話していた。

買ったばかりの少女漫画を持って△△スーパーのトイレに入ったら変なおじさんが通せんぼして、マンガを取り上げて、台詞を読んでキスシーンの場面に来たら、子供のくせにこんないやらしい本を読むのかってニヤニヤからかってきたって。

私は、この話は絶対嘘だと思った。

大人がマンガなんか読むわけないし、しかも男の人が少女漫画なんてますますありえない。

でも今日行った××県では、大人なのにマンガ読んでる人がいた。

不審者がいるとしたらきっとああいう変な人だろう。

祖母はますます憤った。

「ああ腹立つ。今度みなさんで△△スーパーさんに抗議に行かなきゃ、こっちは恥かいたんだよ、せっかくお花の先生がいらしてたのに!誠意を見せてもらわなきゃ」

祖父が言った。

「しかし…△△スーパーなんてすぐ近くなのに遅すぎるんじゃないのか」

時計は夕方6時半を指していた。

確かに母の帰りは遅すぎる。

いつもなら母は台所で夕飯の支度をしているころだ。

「ったく何やってんだいあのバカは」

祖母が呆れて両手を腰に当てた。

父が

「あ、そうそう。親父、あいつまたへそくってやがった」

と言った。

祖父は、

「またか!あれだけ言ったのに!」

と愛用の孫の手を固く握り締めながら、帰ったら誠意だ、と言った。

あーあ、このぶんだとまた夕飯が遅くなるな。

御梅軒で食べてて本当によかった。



兄からの連絡は、まだない。

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