200×年 6月のある週 木曜日
ガンガンガンと扉を叩く音で目が覚めた。
もう8時40分よ何やってんの!と仙波さんの声が響く。
寝坊だ。
完全に寝坊した。
目覚まし時計代わりのガラケーの電源を切って寝たらそりゃそうなるだろう。
ゆうべは夜の7時に寝たのにまだ眠くて仕方ない。
この日も、朝食も化粧水も日焼け止めも無しで出社した。
仙波さんは、私は本気でキレてます、という顔で静かな声で
「明日から1時間早く来なさい」
と言った。
ただでさえすることの少ない会社なのにそんなに早く来て何をしろというのか。
ショー子さんや仙波さんみたいに、何度も磨いた机の上やモニターをさらに雑巾がけすればいいのか。
会社に到着し、支店長やみなさんに一通りの謝罪をした。
座るだけでやる気が失せる不思議な効果のあるボロイ椅子に座ったとき、ショー子さんが私の近くに来た。
「三井さん」
ショー子さんがフグみたいに頬をぷうっと膨らませて言った。
幼い子がやったらさぞかし無邪気だったろう。
「日曜日、ちゃんとお父さんに誠意を見せてね」
誠意。
この会社ではよく聞く言葉である。
もしかしてこの地方の方言なんじゃないだろうかと思ってしまう。
「せっかく挨拶してきた人を無視するって、私、人としてどうかと思うな。小中学生のいじめじゃないんだし」
誠意なんて言葉、コワイお兄さんが出てくるドラマやマンガ以外で聞いた事がない。
思わず研修を思い出す。
念のため書いておくがこの会社は反社系ではない。
ただ、もしかしたら上のお偉いさんはどこかでそういうのとつながってるかもしれないけど、そんなこと末端の私は知らないし知りたくもない。
「研修でちゃんとやったでしょ。まさかやってないの?」
あの土下座研修か。
あれ恒例行事なんだ。
あんな事毎年やってるんだな、ここの会社。
あれをバウの人にしなければいけないのか…
もう誤魔化すしかない。
私は、本当に会った覚えがない、私って人の顔覚えるの苦手だから、と言った。
また「ふーん?ほんとに?」といぶかしげな顔が返ってきた。
全然信じてないのが丸わかりだ。
そういえば、似た人が誰かと話してたのは見たなーとわれながら白々しい台詞を吐いた。
この会社に来てから、保身のために嘘をつく事が増えた気がする。
ここに来るまでは嘘なんてついたこと、ほとんどなかったのにな。
あ、そうだ、あのことを聞いてみよう。
私は、ショー子さんの親戚か知り合いに、こういう髪型で、A子っていう小学生の女の子いない?と聞いた。
時間が経って、昨日の事について新しい考えが出て来た。
もしかしたらあれは親戚の子かもしれない。
おじさんは、女の子の名前を知っていた。
そうだったとしてもやっていたことはひどい。
ひどすぎるけど、もしかしたら、1億歩ゆずってあれは身内間のブラックジョークかもしれない、そうだ、そうかもしれない。
そういえば、人間の脳は信じられない状況に直面するとなんとか穏便な答えを無理矢理ひねり出そうとする性質があるって何かで聞いたな。
珍しく私の話をまともに聞いたショー子さんはいつものきょとんとした顔に戻り、親戚にも知り合いにもそんな年齢の子はいない、A子という名前にもまったく心当たりがないと言った。
私が見た人は、そういう特徴のA子という女の子と話していたと言うと
「えー、それだったらお父さんじゃないなぁ。じゃあお父さんが三井さんに会ったって話は人違いだったのかなぁ、うーん」
とショー子さんは首を傾げた。
そういえば、ショー子さんのお父さん、よく私の顔覚えてたな。
昨日一瞬見ただけなのに。
ショー子さんはそのことに関して「ああ、社内報見せたんだよ」とあっけらかんと言った。
社内報は一週間に1回発行される藁半紙である。
業務報告が半分、あとは重役の人達の、世の中や政治に対する愚痴やご意見で埋め尽くされている。
あと、印刷が汚い。
そういえば話はそれるが、この会社から来た研修のお知らせも汚い印刷の藁半だった。
研修を行う施設の地図が書いてあったがよほど古い地図でも印刷したのか、地名は潰れて読めなかったし何より汚れがひどかった。
私は、内定が決まれば内定通知が来るかと思っていたのだが〇〇産業からそんなものは一枚も来なかった。
「研修のお知らせ」と書かれた汚い印刷の藁半紙が1枚入った封筒が来ただけだった。
一瞬なにかのイタズラかと思った。
学生課の先生に見せたら「なんだこれ?内定通知とかは入ってなかったの?たったこれだけ?イタズラ?」と先生も考え込んでしまった。
ほんと、この会社の印刷物は汚い。
だが私を含む今年の新卒の顔写真が載った時の社内報だけは違った。
特別版ということでフルカラーで印刷されていたのだ。
話を戻そう。
ショー子さんは話した。
「月曜に三井さんがうち来て逃げちゃったじゃない。あのあとお父さんが、さっきのは何だ!って言うから、社内報を見せて三井さんがどんな人か教えたの」
余計な事をしてくれたもんだ…
つまりあっちは私の顔を知っているのか…
「あ、そういえばお父さんね、三井さんの事を…」
「?」
その時、支店長が「おーいショー子、茶ぁ!」と叫んだ。
はーい、とショー子さんは支店長の方に走って行った。
ショー子さんと話した後も私の頭はぐるぐるしていた。
朝食を抜いたからではない。
そういえばゆうべは夕飯も抜いたんだっけ。
……それでもおかしい。
バウの人は、あの子の名前を知っていた。
A子ちゃんは、ショー子さんの知らない、バウの人の知り合いの子だったのではないだろうか。
だいたい知り合いでもない子にあんな事をするなんてありえない。
知り合いにするのだっておかしいのに。
あんなおかしいことが起こるわけ無い。
そうだ…あんなおかしいこと…ふつうは起こるわけないんだ…ふつうは…
やっと昼休みになった。
昼休みは正午0時から50分間だ。
ここのところ忙しくて、携帯代とか奨学金の返済の振り込みをすっかり忘れていた。
もう、今日行っちゃおう。
近くに郵便局があるのは確認済だった。
会社の駐車場に停めてあるマウンテンバイクに乗りかけた時だった。
「何してんの」
仙波さんだった。
まじまじと見ている
今日は郵便局とか周りたいので、というと、
「ええ~用事があるなら言いなさいよ~」
「いや…そんな…いいです」
「言・い・な・さ・い!」
仙波さんは顔は笑ってるけど有無を言わせぬ圧をかけてきた。
「みんなー、三井さんが郵便局行くんだってー」
「たいへん、早く乗りなよ」
と他の先輩達の車にあれよあれよと乗せられてしまった。
小さい地元の郵便局に着いた。
通帳を出してATMに走る。
郵便局に入ると、なんと一台しかないATMは故障中だった。
いくらタッチパネルを押してもうんともすんとも言わない。
私は郵便局の受付に走った。
ATMが壊れてます、人を待たせているので早く直してください!と半泣きで頼み込んだ。
私の態度にただならぬものを感じたのか、受付の人が両手を万歳の形にして、だれだれさーん!だれだれさーん!と叫んだ。
さっそく作業着姿の男性が走ってきた。
私は、今思えば自分でもバカみたいだと思うが、修理をしている作業着姿の男性の横で
「お願いです、早くしてください、人を待たせてるんです、遅れるわけにいかないんです、お願いです、早くしてください、お願いです…」
と半泣きでずっと言っていた。
外で仙波さんたちを待たせているから焦ってしまう。
仙波さん達がいるというだけでものすごくせかされているようだ。
ああ、一人で来ていたらこんなに焦らなかったのに…
私はこの時ずっとそのことばかり考えていた。
しかしまぁ、ほんと、今思えばただのヤバい人だ。
幸い簡単な故障だったらしく短時間の修理で直った。
たった数分間の出来事だったが、私にはその短い間が2時間3時間にも感じた。
また仙波さんに叱られる叱られる。
頭はその事しか考えていなかった。
その時、仙波さんが郵便局の中に入って来た。
私が遅いから迎えに来たのだろう。
私は、仙波さんが何か言う前に、ATMが壊れていたので修理してもらってるんです!と言った。
修理の人が「直りましたよー」と言った。
仙波さんは無言でうなずいた。
「嘘ではないようね」と言ってる顔に見えた。
この時の私は何をしても「仙波さんに叱られるかどうか」で判断するようになっていた。
さらにいうならこの時の私は、仙波さんやショー子さん、支店長、会社の人達の表情に一喜一憂するようになっていた。
さあ、やっと振り込みができる。
通帳をATMに入れた途端、仙波さんが画面を覗き込んできた
私は思わず
「ちょ、ちょっと、なんですか!?」
と叫んだ。
仙波さんは平然と
「いや、なにするのかなーって」
と言った。
し、支払いです!!と私は叫んだ。
結局私が支払い手続きをしている間、後ろから仙波さんがじーっと見ていた。
会社で仕事ぶりをじっと見られている時のように。
こうして何とかかんとか郵便局を出て「ほりはらさん」に行った。
会社に戻った時はすでに12時半になっていた。
残り20分でほりはらさんの微妙な味のおにぎりを流し込んだ。
さて以前も書いたが、この会社の一日は悪口で始まる。
朝礼の芸能人や政治家への悪口に始まり、そのあとはまーた三井さんは、んもー三井さんてば…
毎日毎日これだ。
ランチでも同様だ。
この日はランチの場でショー子さんに、私がショー子さんの家で畳のヘリを踏んだ事をニコニコ顔で暴露された。
仙波さんは「もー相変わらず三井さんは」「でもショー子さんなんかはおばあちゃんからそのへんよく教え込まれてて感心ね」みたいな事をニコニコと言った。
私が、うちの実家は畳がないから知らなかったと言うと
「えー、そこまで貧乏なのー!?」
ショー子さんは目をまん丸くして本当にびっくりしたという顔で叫んだ。
和室が無いのは洋間しかないからだけどもうどうでもいい。
ふと、別の県に就職した友達からのメールを思い出した。
先輩お局に意地悪されている、リップを新しくしただけで、この忙しいのに呑気に恋なんかして色気づいてるね、わかった営業の誰それさんでしょ、とクスクス笑われた。
あげく、別の先輩から、新人の小娘の分際で誰それさんに近づくな、みたいな事を言われた。
誰それなんて名前すら知らねーよクソババア!あいつマジむかつく!!
と言う事だった。
他にも、これは男性の体験談だが、明らかに新人の分量を越えた仕事を押し付けられ失敗したらニヤニヤ顔で何時間も叱責されたあげく親の躾を馬鹿にされただの、行きたくもないキャバクラに連れていかれたが案の定まったく楽しくなく、あげく上司に、なんだお前シケた顔して、こういうところを楽しめないなんて男じゃねえな、お前本当はオネエなんじゃねえのと笑われただの、悔しそうに言っていた。
でも私はそれを聞いて、いっそニヤニヤ顔でクスクス笑いながら言われた方が理屈としては通じると思った。
だってそれなら「意地悪な人から嫌がらせをされている」という理屈で説明がつくから。
ショー子さんも支店長もみんなニヤニヤ笑ってヒソヒソ話したりいじめをしたりするわけじゃない。
目をまん丸くして、えー貧乏なのねえ、何も知らないのねえ、本当に世間知らずなのねぇ…ときょとん。
本当に根っから悪気が無い。
赤ん坊のように邪気が無い。
テレビの話題を話す時も、あの芸能人は不倫してるだのあの歌手は貧乏で施設育ちだのそんな話ばかりをきょとんと無邪気に話すのだ。
先日、支店長が誰だったか芸能人を
「あいつは顔つきが良くない、まともな生まれじゃないのがわかる、聞いた事もない変な苗字だし間違いなく芸名だ」
とニコニコと話していたがあとで携帯で調べてみたらいいとこの育ちのうえばっちり本名だった。
面倒なので訂正する気も起きなかったししても意味が無いだろう。
ここではそれが正しいメディアの楽しみ方なんだ。
それだけのことだ。
いつも通りの無邪気な悪口まみれのランチタイムが終わった。
「ほりはらさん」のおにぎりはいつ食べても微妙な味だ。
そういえば最近味覚を感じなくなった。
最後に美味しいと感じたのっていつだっけ。
まあ、どうでもいいことだ。
午後1時半頃。
「貧乏って本当だったのね」
ショー子さんが突然意味の分からない事を話しかけてきた。
は?なにが?と聞くと
「今日郵便局に行ったの、ご実家への仕送りのためでしょ」
と日本語なのに全く意味の解らない発言をした。
し…仕送り…?
テレビや本では聞くけど実際に聞くのは初めての言葉だ。
「仙波さんが言ってたよ、いきなり慌てふためいて様子がおかしかったって」
あれは仙波さんがいきなり覗き込んできたからと言うと、ショー子はいいのいいの、と手を振った。
これでは完全に図星を付かれて誤魔化してる人と、上手にいなしてる人という構図になっている。
「女の子を考え無しに大学なんか行かせる家だからね…さぞかし苦労してるよね。三井さんも大変だったね」
ほんの少しの悪気もない、小中学生みたいなキョトンとした目で言われたら怒る気にもなれない。
ショー子さんは銀行やATMに行った事ないのか聞くと
「えぇ?行くわけないじゃん。うち貧乏じゃないし」と、何当たり前の事を言ってるのという顔で言われた。
ATMと貧乏にどんな関係があるのか私の小さい脳味噌ではわからない。
なぜかさっき食べたおにぎりを吐きそうになった。
午後2時頃、さらに体調が悪くなる事件が起きた。
そして、バウのおじさんとA子ちゃんの謎が解けたのは業務中だった。
「三井さん!どうしたのよ」
私は思わず倒れそうになった。
ちょっと会社に寄った営業さんがお得意さんからもらってきた、小学生の元気な姿が映ったポスターを見たときだ。
心臓が震える。
足が震える。
―――なんで気付かなかったんだろう。
元気に走るランドセルの小学生の姿を真正面から写したポスターを見て私は卒倒しそうになった。
あのトイレでは女の子の背中しか見えなかったから気付かなかった。
真正面から見てやっとわかった。
小学生なら名札をつけてる。
名前はそれでわかったんだ。
あの子は赤の他人だったんだ…
私は…赤の他人の、しかもまだランドセルの子供にあんなことをする人の家に行って、クッキーを作らないといけないんだ…
家に帰れば父が怒る。
母も最近冷たい。
友達はみんな故郷を離れている。
私が押し掛けても迷惑だろう。
もうほんとうに夜逃げか失踪しかないのか…
車に轢かれて怪我の一つもすれば日曜日行かなくて済むだろうか。
いや、川に飛び込めば…
だめだ、雨が降って増水してる時じゃないと意味がない。
家に帰って料理中に怪我でもすれば…
会社の裏山にでも逃げるか。
山狩りで見つかったらますます叱られてしまう。
気が付いたらそんな事ばかり考えるようになってきた。
午後3時頃
支店長が外回りから帰ってきた。
なんだか知らないがえらく怒っている。
支店長は「話がある!みんな聞け!!」と怒鳴った。
お昼を食べる部屋にみんな集められた。
なんでもうちの顧客が取引先を別の同業の会社に変えたらしい。
支店長はその同業の会社が作った製品を出して
「見ろ!全然なってない!うちで作った製品の方がちゃんとしているのは一目瞭然だ!この程度の品を見てわが〇〇産業を蹴るとはありえない!敵の営業がよっぽど口が上手かったんだ!これは営業の力不足だ!」
と営業の人達をガミガミと怒り出した。
支店長は鬼の形相で続けた。
なんでも今日は隣の町で仕事に使う機械の展示会が開催されているそうだ。
「俺だけで行く予定だったがみんなも来い!勉強するぞ!二度とこんな屈辱は許さん!」
けっきょく業務終了後、社員全員で参加することになった。
めんどくさい。
夕方6時。
こうして私達は業務終了後となり町に向かった。
私はいつも通り、私とショー子さん、仙波さんの同期の先輩の4人で仙波さんの車に乗せてもらった。
車で移動中、何の気なしに外を眺めた。
こっちはまだお店とかコンビニ、本屋さんが多い。
いかにも昭和の書店という感じだけど、ああいうレトロな本屋さんでも家の近くにあればまた全然違ったのになぁ…
「あ」
私は思わず小さく叫んだ。
スタバだ。
この町、スタバがある。
いいなぁ…。
別にスタバでなくてもタリーズでもベローチェでも何でもいいから、そういう系のお店があればまた違ったのに…
「どうしたの」
仙波さんの同期の先輩が言った。
「あ、いや、スタバ、久しぶりに見たなと思って…」
「なに、三井さん、あんなとこ行くの?」
ショー子さんがいかにも、信じられないといった口調で言った。
「ああいうところって学生の時、不良な子達が行ってたけど、あんなとこ行って何をするの?」
ショー子さんにとってはスタバもコンビニと同じ扱いか…
「何って…コーヒー飲みたいから」
「ふーん? まぁ、あまり変な事しないでね」
ああ…スタバの話をしただけでこれだ。
私はあきらめてため息をついて、また窓辺に視線を移した。
おなじ〇〇県でも、就職先がこの町だったらまた違ったのかな…
あの本屋でファッション誌を買ってそこのスタバでフラペチーノ飲みながら買った雑誌を読む…
一週間に一度でもそんな事が出来たら私もここまで病まなかっただろうな…
オーナーのお店がある町でも良かったな…
大きくておしゃれな図書館もあるし、オーナーのお店もあるし…
田んぼとゴキブリ社宅の往復。
途中にコンビニはおろか簡単なお店すらない。
コンビニを求める方がおかしいらしい。
昼ごはんはほりはらさん。
毎日毎日それの繰り返しだ。
こうしてとなり町の展示場に着いた。
中では何か色んな機械が展示されていた。
結構大型な施設で、スーツ姿のビジネスマンがたくさんいた。
仙波さんは支店長たちと一緒に展示されている機械の説明を聞いていた。
私はまとまらない頭でぼーっとしていた。
早く帰って寝たい。
何も食べずに寝たい。
でも、オーナーのお店か、さっき見かけたスタバなら行きたいな…
「あの…失礼ですがもしかして※※物産の三井部長のお嬢さんですか?」
父の会社と自分の名前を呼ばれて振り向いた。
そこにいたのはスーツ姿の中年の男性だった。
わざわざちゃんと自分から紹介してくれる人なんて久しぶりに会った。
スーパーでバウのおじさんに会った時に書いたが、会社に来る顧客の人はいつも「ん!」と言って手を差し出すしかしない。
こんなまともに挨拶してくれる人はこっちでは初めてだ。
その人は続けた。
「いやあ、やっぱり。部長さんに似とったからもしやと思ったがね。自分、名古屋と言います。お父様にはお世話になっとるがね」
本当は少々訛りがあるだけでこんなへんてこな名古屋弁なんてしゃべっていなかったし、名古屋さんと言う名前もむろん仮名だが、わかりやすいのでここではそう記しておく。
「こちらにお勤めなんですか? 自分も今日は仕事で〇〇県に来てまして…」
そのあと父の事とか、父の会社の事を話した。
久しぶりにまともな「会話」をした。
久しぶりに、人間の世界に戻ったような気持になった。
「三井さーん! 何遊んでんのー!」
仙波さんが呼ぶ。
仙波さんの声が私を嫌な世界に引きずり戻す。
走ってきた仙波さんは、車の中では着ていなかった社名入りのジャンパーを着ていた。
それを見て名古屋さんは
「え…今お勤めのところって…○○産業!?」
とびっくりしたような声で言った。
仙波さんは名古屋さんと私を不思議そうに交互に見た後、私を引きずって行った。
行きたくない。
もっと普通の会話をしたい。
外国で出会った同郷の人が遠くなっていく…
やっと人間に出会えたのに…
「三井さん」
戻るとみんながずらりと並んでいた。
みんないぶかしむような、敵を見るような目だ。
支店長が厳しい顔で言った。
「なんだあれは」
あれ?
仙波さんが「さっきなんか話してたでしょ」と囁いた。
さっきの名古屋さんの事か。
どこで見てたんだろう。
父の知り合いって言ってました、と答えるとショー子さんが首をかしげて口癖の「ふーん?」と言った。
支店長が「どういう知り合いだ!」と険しい顔で怒鳴った。
その情報は必要なんだろうか。
仕事関係って言ってましたと答えるとショー子さんがきょとんとした顔で言った。
「なんか怪しいね、産業スパイじゃない?」
子供が何か不思議な生き物でも見つけたような顔だった。
するとみんな無邪気な顔で口々に語り出した。
「そうだきっとそうだよ」「なんか目つきが変だったもんねぇ」「ああいう人間は総じてろくなもんじゃない。俺の経験だと…」
話がどんどん発展してゆく。
また頭がぼうっとなっていく。
どんどん脳が動かなくなっていく。
さっきみたいな、人間同士の会話がしたい―――。
帰る時、仙波さんの車が私を乗せたままドラッグストアに停まった。
遅刻続き、しかも今日は仕事中に倒れるとは何事か、たるんでいる、ということで特売のインスタントコーヒーを1瓶無理やりおしつけられた。
「さっき車の中でコーヒー飲みたいって言ってたじゃない」
私は特売のインスタントコーヒーが飲みたいんじゃない。
スタバでゆっくりしたいんだ。
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