第11話 その名は白薔薇館
ちょうど一週間後に、軍主催の戦勝記念式典が行われ、その後、パーティーが催される予定があった。
バセット伯爵夫妻とスノードン侯爵は、元々軍事には何の関係もないので、記念式典にもそのあとのパーティーにも呼ばれたことはなかった。だが、招待されれば喜んで出るだろう。
招待は名誉なことだったし、出席したら貴顕の方々との人脈が広がる。
ジョージ義兄様の案というのは、チャールストン卿のツテを使って、三人をパーティに呼ぶことだった。
当日、バセット伯爵はチャールストン卿を見かけると、いそいそと声をかけた。
戦勝記念パーティの招待状が舞い込んだのは、軍の重鎮たるチャールストン卿のおかげかも知れない。何しろ娘の嫁ぎ先なのだ。
「これはこれは、チャールストン卿!」
だが、チャールストン卿は、ちょうどスノードン侯爵をつかまえて苦情を申し伝えているところだった。
「おや。いいところへ」
バセット伯爵は出来ればスノードン侯爵と会いたくなかった。チャールストン卿の話し相手が、スノードン侯爵だとわかっていれば声を掛けなかった。だが、間に合わなかった。チャールストン卿は更に語を継いだ。
「ちょうどいい。今、あなたの娘の話でスノードン侯爵と話をしているところなのだ」
バセット伯爵は悪い予感がしたが、チャールストン卿にそう言われてはその場に残るしかなかった。
「スノードン侯爵、あなたの奥方の話だが……」
スノードン侯爵は、チャールストン卿の剣幕に不安になった。それにスノードン侯爵も、バセット伯爵とは会いたくないらしかった。目つきがよそよそしい。
侯爵は、今日は、ただの社交の会だと思って、気晴らしに来たのだ。
最近、彼の周りは、失踪した妻をめぐってどうもトゲトゲしい雰囲気だった。
妻は自分から娼館へ出向いて、それきり帰ってこなかった。
だが、それと自分は関係ないではないか。本人が好んで出かけて行ったのだ。
ましてや、娼館に売り飛ばしたなどと、根も歯もない噂である。それなのに誤解だと弁解しても、なかなか信じてもらえないのだ。
「またか。また、誤解か」
彼は口の中でつぶやいた。
「わしの家にあんたの奥方はおらん。わしになぜ、自分の妻の居所なんか聞くのかね?」
「それは、あの、卿の奥様が姉上に当たられますので」
そう言えば、失踪当時、あわてて妻の姉のところに手紙を出したことがあった。失敗だったらしい。
「バセット伯爵、何かご存じのことはないのかね? あなたはお父上だろう」
チャールストン卿から、急に話を振られた伯爵は目に見えて焦った。
「いえ。まったく知らなくて。いや、もちろん、探しております!」
チャールストン卿は、いかにも嫌そうに今度はスノードン侯爵の方を振り返った。
「奥方は最後は何をしていたのだ? ご両親は探しているそうだから教えてあげてはどうかね?」
周りはシンと静まり返った。
スノードン侯爵もバセット伯爵夫妻も、娼館の話など、絶対に口にしたくなかった。
だから、黙っていようとした。
だが、そうはいかなかった。
「噂にすぎんが、なんでも奥方を娼館にやったとか?」
「なんでそんな噂を信じるんです……」
スノードン侯爵はつぶやくような小さな声で反論した。
「違うのかね?」
「も、もちろんですよ! 妻は自分から出かけて行ったのです!」
「どこへ?」
「ですから……娼館へ」
「娼館の名前は?」
「し、知りません」
この時、ずっと黙っていた伯爵夫人が初めて口を利いた。
「娘を売った先の店の名前を知らないのですか?」
回り中がザワザワした。
「ですから、私は、あなたの娘を娼館に売ったわけではありません! あなたの娘が娼館に買い物に行ったのです!」
伯爵夫人にわかってもらおうと、かみ砕いた表現にしたのだが、それくらいの説明で理解できる夫人ではない。
「何を買いに行ったのですか?」
察して。お願い。察して。
想像の通り、伯爵夫人は凝り固まった頭脳の持ち主で、察しとか言う芸当の持ち合わせはなかった。
「……男をです」
ますます夫人は眉の間のしわを深くした。
「なんのために」
………………。
返事に窮するとはこういうことを言うのか…………。
誰も、解説を引き受けてくれるような勇者はおらず、白い眼をした観客ばかりが目に付いた。
「私が今不思議に思っているのは、一体誰がこんなうわさを広げたのかってことですよ!」
遂に、この話題からの脱出を図って、苦し紛れにスノードン侯爵は大声で叫んだ。
その声に、今までこの騒ぎに気がついていなかった人たちも、振り向いた。その目線に気付いたスノードン侯爵は歯噛みした。
くそッ。まったく関係ない奴らが、大勢、聞きつけてきやがって。
「噂を広げたのは、スノードン侯爵、あんたじゃろ?」
チャールストン卿が冷たく言い放った。
「わしのところに手紙を寄こしたくらいなんじゃから」
スノードン侯爵は力なく違いますと繰り返したが、チャールストン卿はこれ以上聞きたくないらしかった。
「とにかく、わしは関係がないので、今後一切迷惑は無用に願おう。スノードン侯爵、その娼館の名前だがな、言いたくないのか知らないのか見当がつかんのか知らんが、せめて推測だけでもご両親に言ってあげたらどうかな。余計なお世話だがね。じゃ失敬」
「ルシンダよ!」
突然、伯爵夫人が叫んだ。
スノードン侯爵、バセット伯爵、その場で聞き耳を立てていた人たち、とにかくチャールストン卿をのぞく全員がパッと伯爵夫人の言葉に注目した。
「そうだわ。あの時、ルシンダがいたわ! あの人が言ったのよ。きっとそうよ」
スノードン侯爵は、出来ることなら、このバカ女の口をふさいでセメントでも詰め込みたいくらいだったが、もう遅かった。
それは、チャールストン卿がいかにも見下げ果てたとでも言った風に、後も振り返らずツカツカと行ってしまったため、一斉に周りの人々の口が緩んで、コソコソ囁き出したためだ。
「ルシンダって、あの例の……?」
「そうですわ。あの平民あがりのくせに、やたらにえらそうな口を利く派手な女でしょう? 時々、招待状が要らないパーティで見かけるわ」
「いかにもな取り巻きを連れている下品な女ですわよね?」
扇で口元を隠しながら次から次へと情報が広がっていく。
ルシンダの名前さえ知らなかった女性たちも、噂話を熱心に聞いている。
「聞きましたわ! もちろん、話をしたわけではないけれど、そういう話題をしていたって」
どんな話題をしていたって言うんだろう。スノードン侯爵は頭が痛くなってきた。
だが、頭痛のタネはもう一人いた。
「侯爵!」
ただならぬ剣幕の伯爵夫人が、いつもとは違う調子っぱずれな上ずった声で叫んだ。
「娼館て、なんですの? どうして騒ぎになっているんですか? 娘を呼んで来て謝罪させますから、場所を教えてください。娘をどこの娼館に売ったのですか?」
人聞きの悪い。空前絶後の大誤解だ。いや、それ以前に無知だ。
ほぼパーティ参加者全員が、自分たちの会話を一切やめて、伯爵夫人の異常な声と内容に聞き耳を立てた。
「売ったんじゃありません。何回言えばわかるんですか? あなたの娘は、男を買いに出かけたんです」
「そんな事する人じゃないわよね」
ここで姉の仕込みが発動した。
「まだ十六歳よ。新婚のはずよ?」
誰も口を利かない沈黙が支配する中、ひそひそ声は威力を発揮した。
「ドレスの趣味は派手でしたけど、お母さまのご趣味でしたし、本人は何でも言いなりでしたわ」
「どこへ。どこの娼館に行けば、娘を呼び戻せるのですか?」
「その娼館じゃありません。いいですか? 男相手の娼館と女相手の娼館と……」
万事休したスノードン侯爵は、宴会場の真ん中で、(女性用)娼館の解説を(男のくせに)始める羽目に陥った。
だが、肝心のところに行きつかなないうちに、突然、伯爵夫人が泣き崩れた。そしてスノードン侯爵に取りすがった。
吸盤がどっさりついた、深海を泳ぐ巨大タコの化身のようだ。
それが吸い付いてきて、侯爵を呼吸のできない海の底へ引きずり込んでいく……
「名前を教えてください! 娼館の名前を」
名前を教えない限り、離れませんわと叫ぶ伯爵夫人に、心の底から恐怖を覚えたスノードン侯爵は、店の店主からくれぐれもそれだけは口外しないようにと念押しされた店の名前を叫んでいた。
「白薔薇館です!」
白薔薇館! なにそれ?以前に、胸に覚えのあるご婦人方はドキンとした。
このバカ侯爵の大バカ野郎……これまで暗黙の了解で、絶対不可侵だった闇の世界を、ズズズズッと表に引き出すとはどういう魂胆だ。
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