箱の中の海
田辺すみ
一日目
海は凪いでいる。陽光が水平線に弾けて眩しい。
いつも通りの光景だ。私は大きくもない桟橋を、もう一周ぐるりと回った。
レダルニ島からの連絡船が遅れている。医療品と生活雑貨、それから2ヶ月ぶりの宿泊客を乗せているはずの。
この国は一万五千を超える大小の島からなっている。私たちが住んでいるのは、首都の有るジョナ島からフライトで1時間のレダルニ島より、更に船で乗り継いで2時間のコヒメ島である。住人は600人足らず、主な産業は漁業と観光業だが、自給自足と言っていい。私は島で数少ない宿泊所を手伝っている。
銀の瞬きの間を縫って、船がやってくる。桟橋に腰掛けていたユアンが怯えたように顔を伏せた。
船長のサイファルさんが桟橋に縄を掛けてタラップを下ろすと、見慣れない影がゆらゆらと歩いてきた。スカーフを着けていないのは今時珍しくもないが、パンツスーツの女性と向き合って、私はちょっと言葉に詰まった。この海域の者たちは縮れた髪をしているが、ストレートの艶やかな髪に、蜜蝋のような青白い肌をしている。そして両手に携えた二つの大きなスーツケース。
「ジェンナンダから来た者です。迎えの方がいらっしゃるはずなのですか」
間違いない。私は向き合って挨拶をした。今週末の国民議会選挙のため、首都から派遣された選挙管理委員。毎回違う人が来るのだが、女性は初めてだ。センキョカンリイインと直接話しをするのも初めてだった。なにせ国政選挙は4年に一度のことだし、私は3年前投票権を得たばかりなのである。女性は私を見て気怠げに笑ったようだった。明るい陽光が、彼女の纏う影を濃く見せる。よろしく、私は選挙管理委員のイージュです、と彼女はカイヤミ鳥のような透き通った声で言った。
サイファルさんが積荷を全て下ろすと、島じゅうにそれを配達して回るのがユアンと私の仕事だ。モーターバイクで荷車を引く。イージュさんは私の後ろに座ってもらう。修繕されずに放置されたガタつく道で、湿った風を切って走る。木漏れ日が皮膚の上で踊る。私の肩越しで、イージュさんが呟いた。綺麗ね。そうでしょう、この島の海も森も、珊瑚を積んだ石垣も畑も、観光地のバランに負けないくらい美しい。だけど私はこの土地に辟易している。そんな気持ちが胸の奥で燻って、私は言葉を返すことができなかった。
宿泊先へ赴く前に、イェシさんの商店に寄る。レダルニ島かもっと遠くからか仕入れた雑貨が、船で着いたのだ。案の定、店前のベンチにひっくり返って昼寝している。
「イェシおじさん、お届けもの!」
私が声を上げると、イェシさんはタバコのヤニで黒ずんだ唇をもごもごさせて起き上がった。目の前に突然現れた見知らぬ人間に首を傾げる。
「観光客かい。珍しい」
「今回の国政選挙のためにきました」
周辺ではあまり見かけない容貌のイージュさんを興味津々で覗き込む。これまでと同じ中年男性の選挙管理委員だったら、こんなに積極的に近づいてこないだろう。悪い人じゃないけれど、ちょっと怠惰で現金である。私が何か言う前に、ユアンがずい、と2人の間に割って入った。
「イェシさん、荷物」
遮られたイェシさんはおもむろに面白くなさそうな顔をして、鼻を鳴らした。よくやった、ユアン。私は幼馴染に心の中で指を鳴らしたが、当人は子供の時からのようにイェシさんに頭を小突かれている。さっさと荷物を渡して宿泊所に向かおう。
更に道すがら2件ほどの配達をして、宿泊所に着く。公民館の一部で、本来は視察団や学生の合宿で使われるはずだったのだろうが、今だかつてそんな人々が利用したという記録はない。父が管理を任されているので、私も手伝っている。随分以前にこの選挙区から選出された政治家が利益誘導したもので、それなりに大きな施設なのだがいつも閑散としている。荷車にロープで固定されていたスーツケースを解き、イージュさんが泊まる部屋へ運び入れる。女性ひとり、一週間の滞在予定にしてもデカ過ぎないかという私の疑問を見透かしてか、窓から差し込んだ夕日に舞い上がった埃が瞬く中で、イージュさんは微笑んだ。
「一つは投票用紙と投票箱です」
へえ、と私はスーツケースを見直した。投票箱と投票用紙なんて、それぞれの投票所で準備しているのだと思っていた。
「ただの箱と紙ですが、規定の仕様でなければなりません」
公正に選挙が行われるためです。イージュさんの口調はおっとりとしているが、私は首筋がぞくぞくとした。配達の残りを片付けなければならないので、ポットの水とリネンを渡して、先に休んでもらうように言う。ユアンは外で待っていたが、彼にしては珍しく、顔がほんのり紅潮していた。
「面白い人だね」
エンジンをかけていると、小さな声が言った。ユアンが他人を恐れず関心を持つのは久しぶりなような気がして、私は嬉しくなった。もっともイージュさんが、“外の人間”であるせいかもしれなかった。
ジョナ島とこの海域での食習慣は大分違うのだと聞いていたが、イージュさんは母と私が準備した夕食をぺろりと平らげた。細身の身体からは想像し難い食べっぷりだ。長女も長男も家を出てしまって、父と私に作るだけではやり甲斐の無さそうだった母は、『とても美味しいです』と言われて喜び、もう明日の仕込みを始めている。私は足手まといだと台所を追い出されたので、散歩にいくことにした。この島には若者向けの娯楽などほとんど無い。友人とスポーツをしたりお喋りしたり、キナウ(伝統的なボードゲーム)をしたり、暖かい夜風の中で音楽を奏でたり、ユアンはいつも読書をしている。私が注文した新しい本もさっきの連絡船で届いたのだが、今夜は気分が浮かれているので、少し落ち着いた方がいい。
ところが、イージュさんに出会ってしまった。正直に言えば下心があって宿泊所近くをぶらぶらしていたのだが、本当に会ってしまうとどうしていいか分からない。公民館裏手は一応小さな広場のようになっていて、眼前には畑、椰子の並木、海岸へと続いている。イージュさんは広場の錆びたベンチに座って、月を見ているようだった。
「レニ、あなた明日からも手伝ってくれないかしら」
畦道で立ち止まった私に気付いて、イージュさんは手を振った。恐る恐る近づくと、隣りに座るよう促される。月の光を浴びて、白百合色の肌が仄かに輝く。明日から投票所の設営や、島民への説明会、ボランティア研修など立て込んでいる。
「私はこの島の住民じゃないから、失礼なことしてしまうかもしれないし、レニが一緒に来て色々教えてくれると助かるんだけど」
少しだけどお給料も出せるわ、とイージュさんは言った。私はイージュさんに見惚れていたのと、イージュさんと一緒に働けるかもしれないことに大分舞い上がっていたので、思わず尋ねてしまった。イージュさんは、私が今まで会ったことのある人たちと、ちょっと違う気がします。彼女は解れた黒髪をさらりと揺らして言った。
「日本人の血が混じっているから。でも私は、レニと同じ国の人間よ」
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