頭をすっぽり喰われて、首から下はだらんとしている嗣浩。頭を喰っているのはアクジキジハンキの口の一つ。

 黒い化け物の口が頭だけをくわえている姿はなんとも恐ろしかった。これまでのアクジキジハンキのことで、アクジキジハンキは物理的な怪我を負わせるだけではなく、目に見えない縁やら性格やらを喰うことが判明している。嗣浩のもそうかもしれない。だが、ばりぼりという音がそう思わせてはくれない。

 やがて、満足したように口は嗣浩から離れていった。嗣浩の顔にはやはり食べられた跡はなく、唾もついていなかった。ただ、気絶しているようだ。

 アクジキジハンキも、もはや蓮がそこにいることに慣れたようで、唖然としたままの蓮にアクジキジハンキの女声が手短に説明する。

「この人のお金をいっぱい食べたので、この人から『悪縁』を食べました」


 すると、悪夢はあっという間に終わる。まだ蝉が元気だった昼間のはずが、辺りは夕暮れを迎えていた。それはもう、アクジキジハンキと何度も接してきたため、慣れたのだが。

「……僕から喰ったのも『悪縁』だったはずだ。なのに何故、アクジキジハンキは嗣浩から『も』とは言わなかったんだ……?」

 その奥に潜む意味深な響きに、蓮はまだ暑いはずなのに震えた。

 嗣浩が握りしめたスポーツドリンクがつ、と結露を垂らした。


 その日のローカルニュースは佐伯佐伯佐伯、と佐伯夫婦の話題で持ちきりだった。

 どうやらアクジキジハンキに喰われた佐伯氏は無事だったらしく、骨折で入院だという。母が「きっとこれ、仮病よね。奥さんへの返答を遅らせるか、間延びさせることで有矢無矢にする気よ」なんて主婦らしいことを語っていた。大抵世間の人間はそう思うだろう。佐伯氏は大企業の社長だが、あまり一般の心象はよくない。

 佐伯さんが離婚しようと私たちには関係ないわね、とローカルニュースから全国ニュースのチャンネルに切り替えた母はさすがだと思う。確かに佐伯夫婦が離婚しようが、自分たちに与える影響は少ない。佐伯が母方になれば、苗字が変わるくらいなものだ。そして佐伯瑠璃花に興味のある人間は少ない。

 世の中、薄情だが、それでも日は沈み、恙無く明日はやってくるのである。

 つまりは七月三十一日。──度会夏彦の命日にして、四十四物語の開催日である。


 四十四物語のことは、毎年百物語をやることになった、と親に伝えてある。保護者間でも山川コンビのことは有名で「あー、百物語ね」といった感じでスルーされる。少し後ろ暗い部分もあるので、そんな感じで軽くスルーしてもらえると気が楽でいい。

 蓮はこの日は朝から裕の家に手伝いに行く。その途中、学級委員の安埜城あんのじょうさいに会った。塞は元々いじめられっ子で、いじめっ子に対抗する一つの手段として「学級委員」という地位を得ることにした人物である。もちろんいじめられっ子の味方で、いじめっ子が何か仕出かそうというのを気づくと真っ先に抑止力として動いてくれていた。覚醒遺伝なのか、赤い目をしている。最近では鶯の瞳の相楽と並べ立てて「変わり目コンビ」と呼ばれつつある。どうも蓮のクラスは人に渾名をつけたがる傾向があるらしい。赤い目のせいでいじめられていた塞は微妙な顔をするが、相楽はあっけらかんと受け入れており、塞もぎこちなく微笑んでいるのが現状だ。

 そんな塞も当然、いじめ対抗チームの一員であった。

「なんだか久しぶりな気がするね、八月一日くん」

「まあ、夏休み入ると毎日会ってたのがぱったりなくなるからな。塞くんは散歩?」

 陽炎揺らめく炎天下、長袖のカーディガンを羽織って歩く塞がすごく暑苦しく見えるのだが、塞は涼しげな顔で、ミスマッチな麦わら帽子を傾けて、実はね、と呟いた。

「怪異探しなんだ」

「あっ」

 いじめ対抗チームの全員は、毎年違う怪談を用意しなくてはならない。山川コンビやオカルト部のように怪異に事欠かない人種はいいだろうが、塞や蓮は一般人である。怪談話一つ探すのでも大変だ。

「この街って案外そういうのが多いでしょう? だから街を歩いたら怪異に出会すかなって」

 確かに、この街には「風鳴駅」「風鳴橋」「手押し車のおばあさん」「五号室のない病院」など怪談話に事欠かない傾向がある。

 だが……

「僕らがただ歩いたところで、ほいほい怪談が転がってたら怖いよ。霊感持ちなら違うかもしれないけど」

「五月七日さんと悠さんですね。あの二人もなかなか凄そうです。去年の金縛りの話とか怖かった」

 霊感持ちの人物は実体験を怪談として話せるのだ。羨ましくはないが凄いとは思う。

「じゃあ、怪異見に行く?」

 そう誘ったのは気紛れだった。塞はえっ、と疑問符を頭上に浮かべる。仕方ないだろう。先程そんな簡単に怪異に遭えないようなことを言ったばかりなのだから。

 学級委員の塞なら、アクジキジハンキの怪異も信じてくれるだろう、と思った。何より、塞の格好は暑そうだ。何か飲まないと、脱水症からの熱中症になるだろう。

 蝉時雨の中を二人で歩き、坂を登った。そこで塞は言う。

「あれ? ここ自販機になったんですね」

「うん?」

 どうも他とは反応が違うことに、今度は蓮が疑問符を浮かべた。確か、皆一様にこの自販機を目にしたときはこういうはずだ。「こんなところに自販機なんてあったか」と。

 ──塞の反応はまるで、自販機になる前にここに何があったか知っているような口振りだ。

「前は何かあったの?」

「ええ、小さいお社が、確か……僕の物心ついて最初の記憶ですから、かなり前ですけど」

 物心ついて、というと五、六歳だろうか。十年近く前の話だ。

 お社……やはり神社があったようだ。この辺りの土地の改良がどうであったか詳しくは知らないが、この辺りの建物は新しい部類だと思うから、もしかしたら、小さい社は取り壊されたのかもしれない。

「それで、怪異っていうのは?」

「ああ」

 塞の疑問に気を取り直し、蓮は目の前の自販機を指差す。

「これ。アクジキジハンキっていうんだけど」

「初めて聞きました」

「だろうな。この夏初めて発見された怪異だそうだ。しかも球磨川が見つけ、名付けた」

「球磨川くん……」

 塞が遠い目をする。都市伝説の名付け親なんてなかなかなれるもんじゃないが、羨ましいとは思わない。ただ、球磨川は常日頃から怪異の第一人者になりたいようなことも言っていたので「とうとうそこまで至ったのか」というのが塞の心情であろう。蓮もそう思った。

「このアクジキジハンキはどういう怪異なんですか?」

「と、その前に、塞、何飲みたい?」

 財布を出す蓮に、塞が慌てる。

「い、いいですよ! 自分で買いますから」

「まあ見てなって」

 蓮は慌てる塞を制し、注文を聞いた。自販機のラインナップを見ると、スポーツドリンクのところに「暑い夏はこれ!」という触れ込みが追加されていた。自販機らしい進化を遂げているのに苦笑しつつ、塞の答えを待つ。二百円を投入して。

 塞は躊躇いがちに「オレンジジュース」と言った。今では幻と言われるみかんの粒が入った大きい缶のオレンジジュースだ。値段は百円。

 ごとりと落ちてきたそれを塞に渡す。塞は「あ、ありがとうございます」とはにかんでいた。

 あとは、あの言葉を待つだけである。


「お釣、いただきますね」


「ひょえっ!?」

「いいですよー」

「はいっ?」

 塞を見て蓮はくすりと笑った。相楽に初めてこの怪異を見せられたときの自分と、ほとんど同じ反応だったからだ。


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