第71話 テクニックと観察


35周。

 マセラティのツェヘンダーはバックストレッチで加速しなかった。

 そのまま「クルベッタ」と第3シケインをスロー走行で回り、ピット開放許可なしにピットに入った。

 リタイア。アナウンスは「ブレーキトラブル」


36周。

 アウトウニオンのモンベルガーは特に故障の様子なく、ペースも変えずにピットインした。整備員たちは補給もタイヤ交換も開始しなかった。ピット開放もなされていない。

 モンベルガーは自力でマシンから降りることが出来なかった。

 整備員たちがモンベルガーを操縦席から抱えおろし、すぐさまモンベルガーの両足に水を掛けた。

 革のブーツ両脇にシリカ繊維らしき断熱材が貼られていることが判った。

 アナウンスは「脚の熱傷によりリタイア」。

 整備員たちがモンベルガーを抱えてピットカウンターに上がるのと入れ替わりに、アウトウニオンの技師が……なんとポルシェ博士とその息子アントン自らがピットカウンターから降りてモンベルガー機のタイヤを検分しはじめた。


 通常速カメラでその様子を左輪交換手が撮影する。


「モンベルガーの熱傷リタイアはアウトウニオンにとっては痛いやろうけど、周回数とペース相応のタイヤをああして検分できとるの大きいな」

「同感だ。変速機故障でファジオーリがリタイアしたメルセデスベンツも、同様にタイヤを検分できているはずだ。嵯峨野君、次に誰かがピットストップしたら撮影を頼む」



 この周、ヌヴォラーリがペースを2分11秒まで上げて叶を引き離しヴァルツィを余裕をもって抜き去った。そのまま2分11秒台を続ける。


 39周目、ヌヴォラーリは「クルベッタ」を回ってからピット前で制動。

 ヌヴォラーリは開放されたピットに入った。この時点でヌヴォラーリとライニンゲンの差は27秒まで減っている。

 タイヤ交換が終わりに掛かったところで直後にヴァルツィと叶がピット前を通過。

 これはかなり良い手筈だろう。さきほどまでは50秒差があったのだ。

 ヌヴォラーリがピットアウトする直前にトロッシが通過。


 ヌヴォラーリがこれまで履いていたタイヤがピットカウンターを越えて片付けられる。

 左輪交換手がカメラを抱えてピット奥に下がる。

 48周目には少なくともモンベルガーのタイヤ消耗が判る。


 ヌヴォラーリのタイヤ消耗についても参考にはなるはず。


 肉眼でも判ることは、ヌヴォラーリはほぼタイヤを使い切ってピットインしたと言うこと。溝がほとんど残っていなかった。

 モンベルガーはそうではないことだ。

 そしてツクバGP/94RCはドイツ勢つまりメルセデスベンツとアウトウニオンと同じくコンチネンタルタイヤ。太さは違うがゴム層の固さ、溝の深さは同じ。

 フェラーリとマセラティはピレリタイヤだが、参考にはなる。


 これで、一時的に叶は5位に上がった。22秒差でトロッシが6位。

 これは一時的なものだ。

 ただ、希望が見えてきた。

 シュトゥックやライニンゲンのアウトウニオン「A」が今のペースより速く走れることは間違いないが、ドライバーが熱に耐えられる限度が今のペースより少し上でしかない可能性がある。


 一方で、トロッシも熱害に苦しんでいるとは言うもののピットイン前にタイヤを使い切るときには今のアベレージより大幅に速く走ると見るべきで、22秒の差など無いようなものとも言える。


 そのピットイン前のペースをフェラーリ勢はどう決めているのか?あるいはどのように、今日のこの炎熱の下で変えるのか?

 考えたまさにその時に答えが示された。


 40周目。

 いつの間にか開放されていたフェラーリのピットに、コモッティが入って来る。このピットストップ中に周回遅れになるだろう。

 コモッティはピットイン前のペースアップを行わなかった。

 ピットレーンには整備員2人と共に技師らしき人物が1人降りてタイヤを検分しまたコモッティから聞き取りを行っている。タイヤ交換、給油も実に慎重だ。

 実に直截なタイヤその他の消耗把握の方法だと感心した。


 だが二つ、気になった。

 コモッティ本人にとっては順位はどうでも良いのだろうか?

 連想が及ぶ。

 メルセデスがフェラーリと同様に出走させたテストドライバーのヘンネ。

 彼は1周目にリタイヤしている。

 叶以外の全機が北端ヘアピンに密集して殺到したあの状態では単なる不運だろう。事実、審判裁定は「レーシングアクシデント」となっている。要するに彼の責任ではない。

 ヘンネがリタイアしていなければ、メルセデスはフェラーリがコモッティに課しているのと同じ役目を与えていたのだろうか?


 ともあれ。フェラーリ勢はピットイン前にどの程度までペースアップできるのか。タイヤを余さず使い切りかつピット目前でタイヤバーストなどとしないペースを、非常に精度良く把握できる作戦を組んでいる。

 あるいは「精度よく把握するための体制と作戦」が組まれている。

「部隊編成も戦略のうち」とは航研勤めしていたころに、誰か派遣将校が言っていた。


 フェラーリは即座に決断したらしい。トロッシがペースを上げて3周しピットイン。

 しかし、ピットアウトする前にシュトゥックがピット前を通過した。


                   *


 叶はヴァルツィを追走しつつ、考える。

 さきほどヌヴォラーリに追いついてからはペースが落ちた。

 何度も走行ラインを変えて見ては追い抜きを試みたが、全て先回りされて失敗している。

 ヌヴォラーリは競技規則のL、要約すれば「追い越されないために斜行することは許されるが蛇行してはならない」と「追い越されることを防ぐ斜行によって他機を走路外へ押し出してはならない」を実に厳格に守っている。

 つまり叶が追い越しを図ったときに一度だけヌヴォラーリはそちらを塞ぐように斜行する。

 そして、それだけだと言うのに叶には次の手……追い越しを図る側には許される蛇行が出来ない。

 蛇行すれば無駄に速度を失う。そのくらいは判る。

 同時に、使える走路自体が狭くなっている。

 炎暑の中でタールマカダム路面の表面がタイヤに削られ「更新」されて摩擦力は落ちないが、削り飛ばされたタールで黒く染まった砂礫と砂塵が各機の使っている走行ラインの両脇に積もっている。

 これを横滑りで弾き飛ばして、あるいは後輪で蹴り飛ばして大きな旋回率あるいは加速度を得ることは出来るはずだ。

 同じ原理で千里浜でブレーキを使わずに停止成功したことがある。

 問題は、そこに積もっているタールで染まった砂礫と塵は千里浜の砂ではないことと、タールマカダムの炎暑下での振舞いを熟知しているはずのヌヴォラーリは全くそれを踏まなかったことだ。

 今、前方を行くヴァルツィも同じく。

「ライン」を外しての追い越しにどの程度の利点と危険があるのかは判らない。

 しばらく様子を見れば判ることなのか、それともシンダー並みに摩擦力を下げる存在なのかもわからない。


 打てる手そのものが少ない。

 だから「何手の先読み」されているのか見当もつかなかった。


 ヴァルツィに対しては試みる気にもなれない。タイヤを無駄に減らすだけだ。


 だが、何か手を打たなくては上位に上がれない。

 ピットインまでの残り周回は出ている。

 こちらからハンドサインを出して早めることにして、タイヤ消耗を承知でペースで抜くのは……残り周回が多くなりすぎる。

 しかし、先読みの能力の前には操縦操作の精度など全くの小技だ。

 その操縦精度でもヴァルツィは叶に勝る。

 叶が見た範囲ではヴァルツィより精度よく操縦するのはコモッティだけだ。

 タイヤ消耗を抑えつつ追い抜くにはなんとかヴァルツィの先読みを越えるか、ヴァルツィが先にピットインすることを願うかどちらだが、さてどうする。

 ピットはどう判断する?

 応急改造されたフットボックスから吹き込む熱風が革服を通して水を揮発させ、身体を冷やしてくれることはありがたい。

 空気抵抗が増えた分は、今こうして先の展開を考える余地が生じた分で十分に取り戻せている。

 このペースを続けるわけには行かないが、どうする?

 及ぶはずもない小技や先読みなどアテにせず、ここで1周だけタイヤを減らしてでも単純にペースアップでどこかで抜くか?


 迷う時間は長くなかった。

 42周目、北端ヘアピンを回り加速に入ったところでヴァルツィがペースを上げる兆候が見えた。

 叶は対応する。

 まだ速力が低いうちに加速率を上げ、ヴァルツィのタイヤ乱流が強まる前に真後ろ、タイヤ直径2本分程度の距離に付ける。

 南カーブへ向けて加速してゆくが、速力増大に比して空気抵抗の増加が小さい。

 明らかにヴァルツィが曳くフォワードフローによって曳航効果を受けている。


 飛行学校でグライダーの操縦席に座り練習機にロープで曳航されたときのことを、叶自ら練習機を操縦して後輩の乗るグライダーをロープ曳航したときのことをふと思い出した。

 軽いはずのグライダーは実に重かった。操縦桿とスロットルを介して判るくらいに。 


 ロープとフォワードフローの違いはあっても同じこと。

 今、叶が得ている牽引効果の分だけヴァルツィ機は空気抵抗とタイヤ、エンジンの負荷が増えているはずだが、にも関わらずヴァルツィはペースを上げている。

 ヴァルツィはピットストップが近いらしい。

 南カーブに入るときの減速が減り、「キック」が強まっている。

 だが今の「キック」で旋回に入るときにヴァルツィの後輪から黒い砂礫が散った。ヴァルツィは、ラインを少しだけ外してタールに染まった砂礫を蹴った?


 南カーブを回り込む。第1シケインへ向けて旋回しつつの制動に掛かる。


 再度、ヴァルツィがわずかにタイヤで黒い砂埃を蹴って横滑り制動を強めた。

 

 真似てみることを考える。

 警句が脳裏を走る。


「よ:『よかろう』『だろう』は失敗の基」


 同時に叶は自身の余裕が減るのを感じた。

 視界内のヴァルツィ機が鮮明になり、それ以外が見えなくなってゆく。

 距離と、タイヤの手ごたえを感じ取ることに集中する。

 脳裏に浮かぶ文字列を「黙読」できなくなりつつある。怖い。

 同時に心の奥から沸き上がりつつある「何か」を抑える。


 冷静を保て。


 先ほど示されたピットの判定と、陸軍に居た頃に叩きこまれた警句が次々に脳裏に「意味」として閃く。


「今履いているタイヤは54周目まで持つ」

「た:大胆細心冷静沈着」

「せ:状況変化応じる準備」 

「ら:楽な姿勢に心は緊張」

 呼吸が浅く速くなりつつあるのを抑え、深く呼吸する。

 シケインが近づく。

 南カーブの傾斜路上でヴァルツィがシケインへと切り込む。

 同時に息を緩やかに吐きながら叶もブレーキを踏む。力みかけた肩から力を抜く。

 心は恐怖と緊張に満ちている。

 身体はまだ柔らかく動く。

 ヴァルツィの真後ろに付けてシケインを回る。南カーブへ戻る。

 ヴァルツィの真後ろを外さないように、タイヤ乱流域へとズレないように付けてゆく。


 脳裏にもうひとつ警句が浮かんだ。

「を:思い切りの陰に慎重あり」

 どこまでなら、路面から削られて溜まった砂礫を蹴って利用できるのか。

 ヴァルツィが示している。

 慎重に見定め、思い切る。

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