第75話 チェコか、スペインか?

 イタリアグランプリで優勝したカラツィオラ/ファジオーリには「7点」を均等分配されて3.5点が与えられた。

 同じく2位に入ったシュトゥック/ライニンゲンには「6点」が均等分配され3点が与えられた。


                    *


 ロストクへ戻る荷物をまとめている間に悲報が届いた。

 先月開催のグランエプルーヴ外のレース「アチュルボ杯」で事故、重傷を負って欠場していたG.モルが入院先で死去した。

 黙祷を捧げ、モンツァを後にした。


 敗因分析と見落とし探し(責任は全て能村)はロストクへの帰路、輸送車を止めて休憩してから移動再開前に繰り返しあるいは分担して行った。

 まず、読み飛ばしていたグランエプルーヴの総合順位規定。


 誰もこれまでグランエプルーヴの順位など気にしなかった。


 であるから、グランエプルーヴの順位を争っているドライバーたちがマシンの損傷故障後に再出走してポイントを取りに来る可能性、あるいは上位にあるドライバーが疲労しているときに3番手以降のドライバーに交代させて休ませる可能性には気づいていなかった。


 最良の暑熱対策である「涼しい日陰で休養する」をツクバRTは取りようがない。理論上は取れるが休養中に何十周も遅れてしまう。


 だが他チームは取れるし、取る意味がある。


 事実として酷暑のイタリアグランプリでは1位から3位までが交代で操縦したマシンとそのドライバー合計6人が占めた。


 このイタリアグランプリで今年のツクバRTのグランエプルーヴは終わったはずだ。


 チームの性能はかなり上がった。

「空力欠陥の見落とし」「競技細則の見落とし」と言う主任技師と監督(同一人物)の重大なミスがあったが、それさえも補ってくれた。

 それでも5位に終わったが。


 今年最後に出走予定のチェコグランプリに関わる読み落としがないか、休息の都度競技規則書を回し読みしつつロストクへの帰路を進んだ。

 何度目かの休息で能村はこの仕事に転じる過程で調べたことをふと思い出した。


                   *


 今から約20年前、アメリカのインディアナポリス500マイルレースの距離すなわち800kmを境界として4輪の耐久レースと短距離レースの定義分けが成された。

 今やインディ500以外には800kmの短距離レースは存在していない。

 ヨーロッパのグランプリレースはモナコグランプリの300kmを最短とし通常は500kmを基準とする旨がフォーミュラに明記されているし、AAACでも800kmレースはインディ500だけである。

 だが、今でもなお短距離レースにもドライバーの交代を許す規定は残っている。


 今回のイタリアグランプリにおいてドライバー交代無しでの最上位は4位のヌヴォラーリ。

 次が5位の叶、さらに6位のシロン。

 この3人には「交代無しでの入賞」に対して特別表彰が行われた。

 5位入賞で得た15000リラ(約1500マルク、約600ドル、約120ポンド。額面どおり両替えなら約2000円)と特別表彰金。

 ロストクからモンツァまでの往復旅費には足りたが、94RCの消耗部品の代金には足りなかった。


                  *


 火曜日まで掛かってロストクへ帰り着くと本社から電報が届いていた。

 和文電報を受けられる局などベルリンならともかくロストクにあるはずもなく、英文だった。


 しかし問題ではない。

 最近は整備班も短い英文は読みこなす。

「えーと。本社は来年度予算を承認した。その上で『表彰台までの距離=タイヤ半径分は9千円に値』……どういう計算なんでしょうね?」

 左輪交換手の疑問に入佐が連れてきた経理課員が応じた。

「これまでの成績と、その都度のツクバ乗用車への問い合わせ数、予約数から算出でしょう」

「3回……ヒルクライムを入れて4回しか競技会に出ていないと言うのにずいぶんと乱暴な計算な気がします」

「直線上に並んでいない点を3つ打てれば円を描ける。同一円上にない4つ目の点を打てれば楕円曲線が描ける」

 能村は実に面白みのない答えを返した。


 5つ目の競技会、今年最後の競技会をどうするか。


 スペインは政情不安で行かないと決めていたはずだったのだが、モンツァから持って帰ったスペイングランプリの開催要項をなんとなく捲ってから考えが揺らいでいた。


 今年のグランエプルーヴ最終戦、スペイングランプリは開催が危ぶまれていた。

 なにしろツクバRTがモンツァへ向かうためにここロストクを後にした8月末になってもなお、正式な開催要項が発表されていなかったのだ。

 開催要項はモンツァのパドックに、練習走行5日目つまり走行中止になったあの金曜日の騒ぎの中に届けられた。

「予定どおりに9月23日に決勝レースを開催する」と言うものだが、公道を用いる仮設コースであるからイタリアグランプリのように月曜日からずっと練習走行などと言うわけには行かない。

 初回練習走行は9月20日木曜日の午後に開始すると言う。

 その要項が9月7日になって「イタリアグランプリ日程中のパドックに」届いたのだ。

 戻ってみればここロストクのツクバRT事務所にも同じ封書が届いてはいたが。

 表題は慣例的にか「スペイングランプリ」とはあるが、差出人はスペイン共和国自動車クラブではなくギプスコア県自動車クラブとあり住所はサン・セバスチャンなる市である。

 一昨年の欧州視察旅行でも行ったことがない。


 大西洋岸に沿ってフランスとの国境から20kmだったか30kmだったか?入ったところにあるはずだ。

 消印を見るとなんと9月5日。

 国の名を冠して行う行事の正式案内を半月前に出すと言うのは、能村の感覚では切腹の準備が要りそうに思えたがこれがラテン系の仕事と言うものなのだろうか。

 ガソリンを焚いて路面を補修するモンツァの光景がふと思い浮かんだ。


 が、封筒から取り出した開催要項のコース図は能村の目を奪い思考を占拠した。


 そのサン・セバスチャン市の郊外に仮設される「ラサルテ」サーキットについては一応は知っている。

 今年の最終レースをどうするか考えたとき、チェコスロバキアの「ブルノ」サーキットとコース図や周辺地図を読み比べたのだ。

 コースの道幅、コース脇の巨木や標石、鋼鉄のガードレールといった危険物。

 コース両脇に灌木なり草地なりのある率。

 いずれもラサルテの方が安全ではある。

 隣国フランスからピレネー山脈を越えずに越境してわずかに20kmそこら、かつてはフランス領だったこともある歴史的地理的な事情が主な理由らしい。

 要するに何度も古戦場になっている場所であり「郊外に『ガードレール等が整備されていない』広い道路がある」のも「巨木その他が乏しい」のも、それが理由だ。


 一方、チェコスロバキアのブルノはハンガリー帝国の崩壊に伴う独立戦争でも戦火に晒されたことが無い。

 林業を主要産業とするその地方では古い時代からの道が大事に使われており、近年は雇用創出と交通網の整備の一挙両得を計って古い道の舗装や街灯、路側防護の改修を進めていると言う。


 しかしいつ内戦になってもおかしくない政情不安な国スペイン--大恐慌前の国富を100とすると今は60程度、なおも降下中--とチェコスロバキア--大恐慌前を100とすると今は60より少し上。この夏に水平飛行に回復したとする意見が多い--のどちらが遠征先としてマシか。


 そしてここロストクからの往復経費と日数。


 これらを考えればコースそのものの危険性を受け入れてもチェコスロバキアグランプリを選ぶ以外にないはずだった。


 チェコの治安上の不安は、先月にオーストリアで起きた事態の再来だろうか。

 つまるところドイツ次第だ。

 チェコの南に位置するオーストリアの首相は先月に白昼堂々「オーストリアの」ナチス党員によって暗殺された。

 さらに一部地域では「オーストリアの」ナチス党員集団が「ドイツとの自発的併合を求める」政治指導者を担いで騒乱を起こした。

 が、オーストリアの新首相はこの鎮圧に成功した。

 ドイツの現政権は「オーストリアの」ナチス党がやったことと主張しているがこのジョークの笑いどころは誰にも判らない。

 さて、オーストリア転覆に失敗したドイツの現政権はしばらく行動を慎むのか、それとも次はチェコに狙いを定めるのか?


 そんなことが能村の脳裏に順に流れ、そして焦点を結ばないことに気づいた。能村にはドイツ政府が何を考え目指しているのか全く分からない。


 スペイングランプリの開催要項に目を戻す。

 だが開催要項に示されたコース図の、ピットレーンの図を見て能村は考え込んでいた。

 ピットレーンと本コースを仕切る線はペイントではない。

 超低速であればタイヤをパンクさせずに乗り越えできる程度の煉瓦と標石の列であり、手前で十分に減速する以外にピットインできない。

 ピットレーンでの速力も制限すべく?「ピットレーンの舗装は歩道の水準なり」とある。

 そしてピットレーンはモンツァのそれよりも広く、ピットアウトするマシンとピットインするマシンが余裕を持って交差できる。

 それらが事実ならば常設のモンツァやニュルブルクリンク、モンレリーよりもよほどピット作業の危険が少ないレース場だ。

「来年」のためにも無用な危険は避けたい。


 さて?


 巨木の中を抜ける狭い道で組まれている1周30kmのブルノ。

 政情不安な国の、牧草地の間を抜ける広い道で構成された1周17kmのラサルテ。

 一番安全な策は「9千円」を欲張らず今から帰り支度を始めることだ。が……。


 これまでに掛かった経費、これから掛かる経費を思い浮かべると頭痛がしてくる。


 9千円は、欲しい。

 その獲得条件が「3位入賞」と言う苛酷なものであっても。


 そこで能村はふと我に返り、スペイングランプリの開催要項を柿崎に押し付けようとした。

 柿崎が厚紙に何かの機構を描き始めていることに気づき、開催要項を叶に押し付ける。

 事務所を出て顔を洗い、戻ってくると柿崎が叶に向かい何か言い返していた。


「……ラサルテの方が安全そうやと言うのは判る。自分で運転してトラックなり乗用車走らすとしてもまあ、確かにラサルテの方が楽そうに見える。しかしなあ。鉄砲の沙汰が起きてはどうにもならん」

「ベルリンの意向次第ではチェコでも鉄砲の沙汰がありえますよ」

 叶が応じている。

 議論は任せることにした。能村が行うべきは確認あるいは決定だ。


 少し考えて気づいた。

 本社はどうやって「3位までタイヤ半径分に満たない差だった」と知ったのか?

 能村も電報を打ったが、文字数あたりで算出の代金を惜しんで「僅差で5位」(大意)としか打っていない。

「9千円」と合わせて考える。

 ついでに昨日月曜のドイツの新聞を思い起こす。

 1面を大きく飾ったメルセデスW25が優勝しアウトウニオン「A」が2位に入る写真、小さく掲載された3位から5位までのフェラーリ、マセラティ、ツクバの並んだ順位判定写真。


 考えるまでもない。


 日本の主要な新聞社は欧米諸国の首都に特派員や支局を主要国の首都に置いてもいる。

 たとえば朝日新聞。


 昨年秋にベルリンに翻った黄色人種排斥スローガンの画像を写真電報ファクシミリ送付して「図に乗るナチス党」と題して記事にできる体制を持っている。


 そして日本の写真電報機は独自方式であり、欧州のそれよりも画質が良い。

「即位の大礼を写真に近い画質で帝国全土に報じる」ために電送速度も維持費も度外視して日本の新聞社が日電NECに発注し開発したとは即位大礼の後に日電の広告にあった。


 主要な新聞社の在欧支局が持ち込んでいる写真電報装置が日電のそれなら、たとえばベルリン日報の紙面を「細かな活字まで」読み取って「内地で需要のありそうな」記事を送れる。

 ただし、欧米の写真電報よりも回線占有時間が長い。

 つまり高くつく。

 帝国の電話回線契約の年額は60円(初年度。更新時に利用頻度と平均通話時間を算入)、市内通話1回あたりおよそ3銭だが、帝国内で写真電報を送ると甲判≒B5が1枚8円、乙判≒B6が1枚5円にもなる。

 それでも、航研勤めしていたときには何度か使った。


 ともあれ。

 日本のどの新聞が何面に、どんな日本語訳や見出しで載せたかは知らないがとにかく本社はイタリアGPの順位判定写真を見たのだ。


 そしてこちらへ電報(文字)を打った。

 つまり「今から荷造りして帰国する安全最優先の選択肢」はすでにない。一応、確認電は打つが。


 だがその前に。


「ラサルテかブルノか。検討を頼む」

 告げて能村は電報局に向かった。


 スペイングランプリがグランエプルーヴに復帰したのは昨年のこと。今年と同じく、開催地はラサルテ。


 本当にラサルテのピットレーンがモンツァ等の常設コースのそれより安全に配慮されているのか、敵将たちに問い合わせる。


 なんと送付から10分を待たずにスクデリア・フェラーリから返信があった。

「返信は受信者負担」の附字をフェラーリの返信者は無視したらしく、請求されなかった。


 電文は実に短かった。


「事実。スペイン人は闘牛士や闘牛が足を滑らせての決着を好まない。主催者は昨年と同じ」(大意)



 なるほど。


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 4輪のスプリントレースと耐久レースの区分距離:「区分が設けられたころ」は我々の歴史でもこの世界でも500マイル≒800kmが区分でした(過去形)。


 なお。F-1は1960年代からレース中のドライバー交代禁止ですが、インディ500では2004年に最後のレース中ドライバー交代事例があります。

 

 写真電報(ファクシミリ)の甲乙判:今のJIS-B系の「B5」「B6」に近いサイズです。

 乙判はJIS制定前からある四六判に近いのは偶然なのか否か、筆者には判りません。


「日本帝国特有規格の写真電報電送の遅さと経費と画質の高さ」に関しては、背景事情も開発会社も含めて我々の歴史と同じです。

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