第42話 ドイツGP準備。予想外のベルギーGP要項

「日程を見るに、やるべきことは多いが出来ることは限られる」

 能村はそう切り出した。


「最重要はチーム性能の向上、チーム監督、副監督の能力向上……なんやけど、な。何から手を付ければあの真似が出来るか、見当もつかん」

 柿崎が応じた。


「あの真似」とはフランスグランプリを終え、公式記録を買ってからロストクへの復路で論じた一件である。


 表彰台を独占したフェラーリはもちろん、メルセデスもアウトウニオンも、そしてブガッティもマセラティも「決勝レースでの基準タイムは5分15秒台」「勝負どころでは必要ならば5分5秒台を出せるように調整、練習する」と練習走行の初日から判定していたとしか思えない。


 結果としてフェラーリ以外は程度の差こそあれ技術上のトラブルでほぼ全滅した。ブガッティは1機のみ最初からペースを抑えて走らせて完走させたがその判断がいつ行われたのかは判らない。


 はっきりしていることは、練習走行中にトラブルが相次いだブガッティとマセラティも「どの程度のタイムを狙って練習し調整するか」は明確な方針を持っていたことである。


 どの程度のタイムなら出せるのかもわからず、単に周回を重ねてタイムを向上させていったツクバとは練習走行への取り組み、決勝レースへの準備そのものが違う。


 フランスグランプリに限って言えばツクバが狙ったのは「1点」だけだったのだから構わない。


 が、次レース以降はそうは行かない。


 ドイツグランプリまでの間には東京自動車から乗用車部門の人員がやってくる。

 彼らの主な業務はまず「ヨーロッパで売れるクルマとはどのようなものか」の調査、そして「売れ筋のクルマの中で、東京自動車が作れるものはどれか」の判断材料収集だ。

 そして「本社の経営陣が94RCと言う看板をどう判定するか」の最新情報も持ってくる。


 それを抜きにしても、今後は「1点狙い」であってはならないとはフランスグランプリ前からの同意事項でもあるのだ。


「……アイフェルレンネンには出走こそ出来なかったが、ニュルブルクリンクをどの程度のペースで走れるのかは判っている。タイヤのウェアロスも、フュエルエフェクトも一応は算出できている。ここから……まあ、外挿して求めるしかないな」


 能村の言葉に一同は頷いた。


「チーム性能の向上に次ぐ課題たる『運用と作戦』に関する対応はそれしか出来そうにない。では次、工学上の問題に進むか?」

「操縦側の意見も一応は述べておきます」

 叶がいつもの穏やかな言葉で、断固たる口調で宣言した。

 それに驚くものはもういない。

 叶は予備役とは言え陸軍将校であり、マトモな陸軍将校は大声を張り上げたりせずに穏やかに確たる話をするものだ。


「限界速力での走行タイムを100としたときに残せる注意力を仮に10とするなら、タイムを102にまで落とせば注意余力を40に。104まで落とせば100にも増します」

 叶の言葉は能村が航研で聞いた話に似ていた。

 数値まで似ている。


「ニュルブルクリンクでの限界タイムは恐らくは10分40秒を切るかどうか。640秒程度。そこから12秒落とせば40の余力、24秒落とせば100の余力が出来る、てことか?」

 柿崎が応じた。


「そんなところです」

 叶が答えるのを聞き、能村は補う必要に気づいた。

「計器やスイッチがひとつ増えるごとに1パーセントずつ余裕が減る。操縦系そのものを別として計器と操作器の合計数は乗員一人あたり100が上限。そういう話を航研で聞いたが、叶中尉の場合は?」

「千里浜のように『景色を全て記憶してある』ところで単走するならその数字でしょう。私がレース場を密集走行する場合はその5分の1が上限です」

 94RCの操縦席に設けている計器はエンジン回転計、空燃比計、油圧計、油温計、水温計、サスペンション温度計x4、燃料残量計、電圧計。そしてニュートラル表示ランプ、接手表示ランプ。

 メインとイグニッションのスイッチ。手動進角と混合気濃度調整のレバー。

 もう増やす余地はない。

 今すでに陸軍戦闘機の操縦席に並ぶ計器や操作器の数に近い。


「サスペンション温度計に限って言えば今の4つから1つに減らせるな。どのみち、寒剤タンクを1か所にまとめて搭載位置も下げる必要はあるんやから」

「ドイツグランプリに間に合うか?」

「他の改良をやらずに済むならな」

 柿崎は即答し、これによってモンレリーでのリタイヤ原因になったステアリングトラブルの対処は能村が当たると自動決定されたかに思えた。


「私からひとつ、良いでしょうか。流体を扱う系は能村博士、精密機械部品は柿崎技師の方が得意なように思えます」

 寡黙な次席整備員がそう進言し、整備班長と左輪交換手も頷いた。


「まあ、それはそうやな。とは言っても俺が書いた検討書と図面は能村が点検検図、能村が書いたものは俺が点検検図であることは変わらんけどな」

 能村も柿崎の言葉にうなずき、そして早速仕事に掛かった。


 ステアリングトラブルの内容と原因はすでに分かっている。

「改良」前に比してステアリングギヤボックスとアップライトを結ぶタイロッドが短くなった。

 以前は長いタイロッドの撓みで振動と衝撃が緩和されていた。

 320km/hを分単位で保って走りさらに蛇行する、千里浜試験でさえも。

 それが泥縄改造のために成立しなくなり、ロッド端金具が歪んだ。


 対策案は泥縄改良の実施前にモンレリーのパドックで論じている。他社で実績のある前後動作式のステアリングギヤボックスを真似るのみ。


                  *


 翌日。

「貨客船はキール運河を通過中」と言う電報と共にベルギーグランプリの開催要項が届き、一読して能村は頭を抱えた。


 より正確には、開催要項に付されたごく短い文を見て頭を抱えた。


「アルコールには酒税を課すベルギーの国法には例外を認めない」が主文であり、目が眩むような数字が並ぶ「輸入酒税率表」は柿崎に渡した。


「……日本でも度数に比例して酒税は上がるもんやけど……これはまた、法外やなあ」

 ベルギー王国がいかに同国の酒造産業や関連する農家を強く保護しているのか痛感する内容ではある。


 しかしメチルアルコールやブレーキフルード、不凍液と言った「工業用アルコール」にも「酒税」を課すとは。


 何かの間違いではないかと考え、能村は電話を借りた。暗算した酒税額に国際電話料金さえ忘れていた。


 問い合わせの答えは明快だった。


 間違いではなく、ベルギー政府は今年から工業用アルコールにも「輸入酒税」を課すのだ。


「……能村、ゼロの数だけでも数えて見るか?」

「止めておく。念のために聞くが、日程に間に合うようにガソリン仕様に改造できるか?」

「圧縮比15やぞ?有鉛ハイオクタンガソリンにニトロベンゼンを制限ギリギリまで混ぜて、パッキンとガスケットを溶かす覚悟でトルエンかトリメチルブタンを混ぜて……まあ、運よく最良の配合を事故なく見いだせれば」

 柿崎の即答は背筋の凍るような内容だった。そして叶と整備班一同が一斉に首を振ったことに能村は安堵した。


「ベルギーグランプリへの参加は見合わせる。かと言ってスイスグランプリは……叶中尉、どうか?」

「スイスグランプリを開催するブレムガルテン・サーキットは2速で回る箇所が1つある以外、全て高速区間です。私の乱気流から逃げる習性は文字通り習い性ですから練習すれば解決できます。しかしその練習の場所にブレムガルテンは願い下げです」

 これも即答だった。


 幸いなことに、今年のイタリアグランプリは「モンツァ・サーキットに過去にない数のシケインを設けて過半を低速区間として開催する」ことになっている。

 まだ具体的な配置図は来ていない。


・イタリア人の仕事を信用する

・アルコール無添加かつアルコールより明らかに危険な混合燃料を作る

・インディアナポリスに匹敵する高速コースと目されるブレムガルテンで走る


 どれもマトモな選択肢ではないが、この場合は比較問題であるから明白だった。


「再来週にドイツグランプリから無事に戻れたら、9月上旬のイタリアグランプリに向けて準備。最後の一策としてグランエプルーヴではないが9月下旬のチェコグランプリの開催要項も取り寄せる」

 悩むと言う贅沢は無かった。


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 ステアリングギヤボックスの改変、他社実例は「ケッセルベルグ」から「泥縄式改良」の回で書きましたが、読み返さなくても次話以降を読む上では問題ないと思います。

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