第26話 ケッセルベルグ・ヒルクライム(2)
待機列がまた進み、前方に並ぶ個人参加の旧型グランプリカーがエンジンを再始動する。
それでもまだコッヘル湖畔は人間が会話できる状況ではある。
周囲から聞こえる観衆の声を少し聞いてみる。話題はほぼ同じだと判った。
「ベルクマイスター」が自身の記録を更新し、さらにカラツィオラの持つ絶対記録を更新できるかどうか。
能村はその、シュトゥックのアウトウニオン「A」までの列を見渡した。
平均速度が低いヒルクライム競技とあってメルセデスベンツ「W25」はサスペンションフェアリングを簡素なものにして軽量化を優先している。
なにしろ坂を上るのだ。重量の影響は大きいとは判る。
そしてフロントサスペンションが94RCと同じくダブルウィッシュボーンだが、ステアリング伝達系は能村が選んだ簡素な構成ではないと判った。
W25のステアリング伝達系には左右非対称のフロントサスペンションの上下動に伴う「意図しない舵角変化」すなわちバンプステアを減らす工夫がある。
94RCにも同じ工夫があるが決定的な違いがひとつ、昨日見つかった。これは真似るべきことかもしれない。
93TCでも94RCでもバンプステア対策は「ステアリング中立状態」のみとしている。
高速走行時のバンプステアは人間の反射も先読みも超える速さで生じる危険がある。
だが、高速走行時にはステアリングは中立近くに保たれる。舵角を大きく取るのは低速走行時である。それならば人間の先読み対処で間に合うと考えてのことだ。
なにより、大きな舵角を与えた状態でのバンプステア対策を行うと部品数と点検調整箇所と重量が増える。
羽田試験でも千里浜試験でもさまざまな速度と舵角でバンプステアの実験を行ったが、中立に近い小舵角でのみバンプステアゼロを意図した93TC、94RCの設計はこれまで問題にはなっていない。
しかしW25は、先日のアイフェルレンネンでは塗装を削ぎ落す羽目に陥ったギリギリの重量管理で設計されているメルセデスベンツの新フォーミュラカーはその「重量と部品数と整備調整箇所が増える」伝達系を持っている。
アウトウニオン「A」のフロントサスペンションは構成が違うが、ステアリング伝達系にはやはり「大舵角でのバンプステア最小化」の工夫がある。
そしてアルファロメオあるいはフェラーリの技術者も旧フォーミュラの「モンツァ」には無かったその工夫を新フォーミュラの「P3」には与えていることを思い出す。
何か能村は見落とししているのだろうか?
路面が柔らかすぎる羽田、路面の平坦性が極めて高い千里浜では問題にならなかった何かが他のコースでは生じうるのか?
ここでさらに、2年前のアフスを思い起こす。
また分解状態を検分できた「元」旧フォーミュラのマシンである三井男爵のブガッティを、さらに基礎研究開始やこれまでに実物研究を行う機会があった市販車の数々を思い起こして見る。
旧フォーミュラのマシンではバンプステア対策自体が珍しい。大舵角でのバンプステア対策が見られるのは能村の知る範囲ではブガッティのみ。
市販車ではいくつかバンプステア対策例が見られるが、大舵角での対策をしている例は思い浮かばない。
自動車工学の先達は大舵角時のバンプステアを許容する構成を取ってきた。
急カーブを回る、あるいは車庫入れするような低速大舵角でのバンプステア対策など要らないはずなのだ。
しかし、現に「旧フォーミュラのマシンよりも速くコーナーを通過する新フォーミュラのマシン」では違うようだ。
今目にしているアウトウニオン「A」とメルセデスベンツ「W25」、そして先日に目にしたアルファロメオ「P3」のいずれにも「重くなることを承知で」「この分野のより熟練した技術者たちが」「まるで申し合わせたように」大舵角でのバンプステア対策を取り入れている。
だが、正解はどれなのか?
たった今走り出した旧フォーミュラのグランプリカーにはそれは無い。路面の凹凸を乗り越える都度、左右に蛇行しているのが判る。
蛇行する度に剛性の低いシャシーが撓み戻り、シャシーに組付けられたボディとの摩擦と言う「横方向のサスペンション」によって緩和される様子も判る。
そしてようやく、今日これから行えることに気づいた。
物理法則は洋の東西を問わず、また規模を問わない。
すでに全機がスタートしてしまったがヴォワチュレットに、そしてS部門に出走していた「ヴォワチュレットに保安部品を付けた乗用車」にヒントがないか?
問題らしきものを見つけるまでは能村の目はそれを眺めているだけだった。
だがヴォワチュレットにも何機かは今年からのグランプリフォーミュラカーのように「剛性の高いシャシーと柔らかいスプリング」のマシンがあった。
ヴォワチュレットは従来から各クラスごとにエンジンの行程容積制限を設けていたのだから「限られた出力を効率よく活かす」工夫がありうる。
一昨年のアフスでも「1500ccよりも速い750cc」が居たではないか。
仕事用の手帳に記し、そして念のために柿崎にも見せておく。
「決勝の終了後、コッヘル湖畔城址の大会本部で最終車検。ヴォワチュレット各機およびS部門の『マセラティ4CS』の操舵リンクを観察」
柿崎はエンジン技師、熱機械の技師だがリンク伝達機構にも見識がある。
視力に優れる、また整備所要時間見積もりの実務者でもある整備班にはこれは後で見せる。
もうすぐ叶のスタート順だ。
アウトウニオンが「A」で今回示しているもうひとつの工夫「ダウンフォースの利用」については、走り出すのを見てから柿崎と論じる。
スターターの銃声が轟き、白いミズスマシが唸り、チューバを吹き鳴らし始める。
*
個人参加のグランプリカーが走り出し、叶は深呼吸しながら第1回優勝者の旗を待った。
右手でノブを操作し、水温を上げる。柿崎技師が許容する限度よりもやや下まで。
空燃比計の針が動き出した。
排気ガス温度が規定値まで上がったようだ。
濃度微調整レバーを操作し、最大パワー空燃比に--最良応答性空燃比に--合わせる。
この競技会では、スタート点は計測開始点の900メートルほど前にある。その間でどのような速力で走っても構わない。
湖畔に沿って半径およそ100メートルで約30度回り込む右カーブの途中、いわゆるクリッピングポイントのあたりコッヘル湖畔道路は上りに転じるそこが計測開始点、ミュンヘン市のどこかを起点にして67km点。
大半の参加者は「67km標識」が見えるところから加速を開始する。今、湖畔道路を遠ざかって行く旧型のグランプリカーもそうであるように。
計測開始点までどのような速力で走ろうが、結局は誰であろうと計測開始点前のカーブによって速度はある範囲に制限される。
計測開始点を自分がどの程度の速力で回れるか、その参加者は見込を立てているのだろう。
叶もそうしているように。
計測開始点「67km標識」で道路は湖畔を離れ、標高600.4m--コッヘル湖の水面からほんの少し高いだけ--から急な上りに入り「68km標識」では標高649.2mまで登る。
先にスタートした、個人参加者としては最高成績のドライバーがスタートしてから2分後。
競技委員、第1回の優勝者がスタート旗を振り上げる。
旗が降下に転じるのを待つ。
旗が降りた。
レバーを降ろして変速機を1速に。ブレーキを緩め、ヒマシ油の粘り気に乗って走り出す。
右足とスロットルあるいは後輪の間にバネとダンパーがあるような、スロットルケーブルがゴム紐になったような頼りない感覚がする。
2速に上げ、接手を閉じる。
接手ロック機構の円錐クラッチからヒマシ油が圧出され右足と後輪の間にあった緩和あるいは遅れ、伸縮感が消える。
右足裏と後輪が直結したような感覚を得たことを自身に確認し、計器を視界の下隅で眺める。
いったん、2速で後輪が空転する寸前までの加速を試す。
予想どおりの踏み込みで後輪の空転率が増し始めるのを確認する。
わずかに緩めて湖畔道路を少しだけ蛇行させて走る。
操舵応答、良し。
蛇行時後輪滑り率、良し。
ブレーキテスト……かすかに含侵紅樹の焼ける匂いと、意図どおりの効き。
どこで息継ぎと耳抜きを行うか最終確認。
「67km標識」の手前、半径およそ100メートルの右カーブの手前で大きく息を吸い込み、緩やかに息を吐きながら加速開始。
計測開始点を加速しながら通過。山中の岩壁に挟まれた区間へと突入する。2速で登る。
約30度回る左カーブをコース幅いっぱいに使って回る。さらに半径50メートル弱で左へ90度。
わずかな直線。
右手の崖にヘッケン川の滝。
水飛沫の散っているコース右側を避けて左一杯を通過。
フルブレーキング、きつい左カーブの手前で1速に落とす。
68km点が行く手の「上に」見える。
左ヘアピン、右ヘアピンと切り返すように坂を上り68km点前を通過。ここで余裕を残し呼吸し、耳抜きと計器点検を行う。
問題なし。
ヘアピンが連なる箇所でコース幅いっぱいに使っても時計には大きな差は生じない。
その次の緩い左はコース幅いっぱいに使う。息を緩やかに吐きながら出来る限りの精度で、出来る限り小さな操舵で立ち上がり加速に入る。
レース場とヒルクライムコースとの最大の違いはコース縁を規定しているのが石と鋼のガードレールと岩を削り込んだ崖だと言うことだろうか。
どのカーブも見通しが効かないことはさほど問題ではない。昨日、覚えた。
続いて急な右、右、左。
自身と計器の点検をここで再度行いつつ通過し2速に上げる。
傾斜が緩やかにになり蛇行しながら登る坂道をガードレールをかすめながら3速に上げて登る。
フルブレーキング、急な左、さらに急な左、69km点、標高697.6m点。
69km点をすぎてすぐの急な右コーナーへ向けて曲がりながらブレーキング、1速で右へ曲がる。
放物線を描くように加速しつつ旋回率を下げてゆく。
ここから70km点すぎまではこのパターンの繰り返し。
1速で回るヘアピンの次に2速で回転上限まで引いてから3速まで使いながら回り、直後に1速に落としてまたヘアピン。
緩やかなカーブとヘアピンの交互繰り返し。鉄道を引くなら「スイッチバック」で登るような坂道が続く。
練習走行で新フォーミュラマシン5機の区間タイム差がもっとも大きくなったのはこの第3区間だった。
速度が落ちるヘアピンカーブもライン取りをミスすれば続く緩やかなカーブへの立ち上がり加速に響く。
そして息を抜ける場所、耳抜きを行う場所がしばらくない。
ヘアピンは出来るだけ外側から回り込み続く緩やかなカーブへの加速時に曲率を下げるようにラインを選ぶ。
2速で踏み込んで回れなくはないが、1速で回転数を上限ぎりぎりに保ち、スロットルは全開せず半開程度を中心に微調整しながら回る。
70km点、標高748m点の前はこのコースには珍しいほぼ直線の区間。その終わり近くは緩やかに右に曲がっているように見える。
3速に上げてスロットルを開いた直後にフルブレーキング。
ごく緩やかな右カーブをスキッドしながら減速し、半径15mの右ヘアピンに掛かる。
このヘアピンの次は曲がり角こそ小さいが急な左カーブで、方針通りに余裕を残す。
その左カーブは右一杯から入り、続く短い直線での加速と上昇でタイムを削る。
再びフルブレーキング、左80度の急なカーブを1速で曲がる。
ここから、日本の峠道にはまずありえない「緩やかに左右に蛇行しながらほぼ直線」が71km点の手前まで続く。
3速まで一挙に加速しステアリング操作のみでの蛇行を続ける。
71km点の前でフルブレーキング、1速回転上限で右90度旋回。標高801m。
また短い直線。
この後は距離を空けたヘアピンが左右に二つ、それを過ぎればゴールの72kmまで3速まで上げて全開。
ゴールを通過し、しばらく続く上り坂を利して制動。
すでに走り終えている選手たちとマシンが待つワルヒェン湖畔へと降りてゆく。
さて、時計はともかくとしてどの程度正確に、余裕をもって走れただろうか。
コースに散在していた観客席に紛れ込んでいる有力チームのスタッフから見て「危なっかしい」なら今後に響く。
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