第22話 「軽トラ前史」、看板の変化
往路の倍の日数を費やしてロストクへ戻った。
ハインケル航空機で荷ほどきと、ニュルブルクリンクを走らせた94RCの点検整備を済ませてから各種の分析を実施した。
敢えて6人しかいないGPチームの人員を2手に分けての分析である。
今後の方針分析を能村が、数値分析は残る5人が行うことになった。
その上で、今後の戦略方針、作戦方針を決定する立場の能村は数値分析には介入せず意見も述べないこととした。
叶の意見をまとめると「作戦方針、さらには戦略方針が先に存在していた場合には『それに合わせた』数字が出る危険性がある。その行き着く果ては先の大戦のドイツ帝国軍の醜態」
これには能村も同意し数値分析が終わるまでは事務仕事を行うことにした。
上位方針あるいは上司の方針が先にあると、それに合わせた報告書が出てしまいとんでもない事態を招くことがある。
民間企業でも研究所でも良く聞く話だ。
*
ロストクを留守にしている間に届いた文書には、意外なほどに分量があった。
まず、アイフェル山地へ出向いている間に東京自動車本社から届いた文書群を読む。
予想されたものもあれば予想外のものもあった。
ダットサンはこの4月から欧州への小型車輸出を開始し、「値段相応の小型車」としての評価をすでに得ている。
ツクバもこれに続かねばならない。
東京自動車と元化自動車の当初構想「日本帝国における個人ユーザー市場を狙う」では済まなくなったのだ。
付箋「黙読後焼却。すでに『複数の省より』行政指導の内示あり」は文字通り、読み返しもせずに即座に灰皿の灰にした。
日本帝国において「複数の省が、複数の大臣が連名で」行うプロジェクトは「失敗できない」。
「失敗した場合には内閣総辞職かつ、少なくとも1回の入閣辞退。または政界引退」だ。
省庁間の縦割り行政を防ぐために明治維新の元勲たちが定めた慣例だが、今ではこれこそが縦割り行政の主要原因になっている。
帝国における縦割り行政の弊害は数えるのがうんざりするほどだ。
さて。
その「失敗できない」プロジェクトに敢えて臨む意思を政権と複数の閣僚が示した。
「輸出して外貨を稼げ」と。
日産コンツェルンの一翼たるダットサンにそれを示すのは判る。しかし新興自動車会社に過ぎない東京自動車と、その販売会社に過ぎない元化自動車に対してまで内示したと言うのはかなりの覚悟あってのことだ。
知らない方が良かった話かもしれない。
能村とGPチームが背負っている看板の重さが増したこと。
しかも「看板として成功か否か」の判定を行う人数または判定に使う数字が増えたことは間違いない。
ふと思い出し、私物の手帳を取り出して「故郷に何かひとつ、工場を誘致」と書いた頁を破ってこれも燃やした。
紙の燃える匂いが執務室に立ち込める。
執務室を換気しながら煙草を煙管で吹かす。
さらに茶を淹れなおし、次の書面を開く。
こちらも読むうちに焼きたくなった。しかしそれは機密保持や証拠隠滅ではなく現実逃避であるので、堪える。
*
「オオタ」と言う、東京自動車よりもずっと小さな自動車製造の町工場が東京の神田にある。
今のところ法人ではない。
あの震災の数日前に試作1号車を完成させた個人経営の小さな工房だ。
幾人かの資産家は「オオタ」試作車の出来を見て出資し、生産工場を作らせようと考えていた。
だがそのことごとくは--資産家たちの命までも--震災で失われ、「オオタ」の量産は行われなかった。
しかし、それでもなお「オオタ」は東京自動車にとって脅威であり、また驚異だ。
「オオタ」試作車の初回か二回目かの試験走行は創業者兼主任技師兼務主任テストドライバーである太田氏とその家族が震災後の大火災から遠く茨城まで避難する旅になった。
そしてその試作車はそのまま、東京が復興する中で円タクとして運用された。
太田氏の家計を支え町工場を再建し、震災の時にはまだ中学生だった子息を気鋭の大卒技術者として育てたと言う実績がある。
試作車が実に10万キロメートルの走行に耐えて稼いだ実績を持っているのだ。
さて。
三井財閥の総帥である三井男爵は事業と趣味を厳格に分かつ人物である。
東京自動車に対しての出資も、第1回の操縦者選抜実技にブガッティを貸したこともあくまで三井男爵個人としてのものであり財閥の金は1銭さえ動かしていない。
その三井財閥は日産コンツェルンに対抗してかどうかわからないが「三井物産からオオタに出資し、法人化させる。アメリカから中古の製造ライン機材一式を購入して工場を作らせる」と決断した。
偶然なのか必然なのか判らないが、三井物産からオオタ(法人化後の社名は未定)への出資金額は100万円であり、東京自動車の創立時資本金に等しい。
もちろん、三井男爵個人が東京自動車に対して行っている出資には全く影響しない。増えも減りもしない。
そのように書面にはあった。
オオタはある意味では東京自動車の先駆者だ。
たとえばダットサンは今となってはダット自動車とは離れたが、トラックの開発製造から分岐した存在である。
東洋工業や三菱水島はスケールも車種も異なる市場すなわち3輪のトラックを主流としている。
が、オオタは最初から今の区分で言う小型乗用車とその派生車種の研究開発に取り組んできた存在だ。
今のところは太田氏とその家族を含めて従業員15人前後で月に数台の製造でしかないのだが、三井物産が背後に就くとなれば話は全く違ってくる。
灰皿にふと視線を向ける。思い出さないことにした付箋の内容が蘇る。
もしかして政権の構想する「リフレーションが効いているうちに立ち上げるべき次の産業」の候補に「狭義の自動車産業」があるのだろうか?
三井男爵ならば政権の内意を示されていても不思議はない。
大恐慌前には日本での自動車保有数は国民2000人に1台、つまり帝国全土で5万台だったが今や500人に1台すなわち帝国全土で20万台に届こうとしている。
「4人か5人に1台」のアメリカは全くの別格として。
「20人に1台」のイギリス、フランスも別格として。
「100人に1台」のドイツやイタリアには追い付く可能性が見えてきている。
ただしこの急激な普及の過半は日本で組み立てられた外車や、輸入中古車だ。
*
さておき、オオタの法人化に関する書面は「ツクバの輸出」とセットで考えるべきだろう。
小型車区分を思いついたのがどの役所の誰なのかはさておき。
最初から「帝国の道路事情に合わせた乗用車とその派生型」として開発し実運用試験を行ってきた実績がもっとも豊富であるのがオオタであることは疑問の余地がない。
ダットサンでも10万キロメートル実走行試験などまだ行えていないだろう。
書面の最後には三井物産がオオタに出資すると決めた試験とその結果が添付されていた。
「貨物仕様とした小型車にどれだけの荷物を載せて箱根を登れたか」である。
つまり三井物産は発見された新市場「小型トラック」販売を重視している。
この市場には前輪駆動のツクバは全く適さない。
試験結果は最下位で、昨年に入佐が千里浜村の助役に言った値よりわずかに大きいが箱根を登る限界は350kg積み。
東洋工業や三菱水島、
最上位はオオタで、カタログ値を少し超えて550kgを積んで登っている。
ダットサンはカタログピタリ。
付記として「安定性評価ではツクバが最良」ともあるが、4輪でしかも前輪駆動車なのだから当たり前ではある。
三井男爵個人やその友人の方々たとえば鍋島侯爵などは「自分で乗り回せる前輪駆動車」としてのツクバを「個人として」大いに評価している。
これは、東京自動車が設立されたときの見込みの的中を示す。
「自分や家族が小旅行に出かけるために1台自動車を所有できる人の評価」としては実に信用できる。
この富裕層市場を狙うこと、この市場にアピールするために競争自動車を最小限の経費で作り上げ出走させる構想は東京自動車と元化自動車の共同プロジェクトが始まった時点では正しかった。
だが。
「貨物小型車」の価値が発見され三井物産までもが出資する状況となれば話は違ってくる。
さて、この重大な見落としは能村が率いるGPチームにどのように影響するか。
「ツクバの看板としての94RCとGPチーム」はどう変化するか。
考えるまでもなく当初構想のとおり。
「小型車を自身や家族の小旅行に使える人向けにツクバ乗用車を売るための看板」だ。
ただアピールする市場が変わった。
「日本帝国において小型車を買える人」から「小型車で良いから安い車を求める欧州人」へと転換して考えないといけない。
94RCと言う看板を掲げる相手が変わった。
そして、能村とGPチームに出来ることはそれだけだ。
能村は次の書面に目を通した。
「近く東京自動車の設計課員と実験課員が合計10名渡欧する。個人としては交代、事業所としては常駐となる。彼らの本拠地手配を依頼する」
つまり本社は輸出仕様車の設計と実験を現地調査と実験に基づいて行うつもりなのだ。
内示とは言えすでに国策が示されているのだから当然だろう。
事業所が備えるべき設備については具体的な記述があった。
これは迷う余地もない。
「必要な規模の貸オフィスと貸家、あるいは貸し工場」を能村が自らロストクの不動産屋を巡って探す前に、ハインケル航空機に相談する。
現に能村とGPチームがそうしているようにハインケル航空機本社に間借り出来れば最善ではある。
折り返し送るべき書面に記すべきことを列記してみる。
1.輸出開始はいつ頃を見込むのか。
2.ダットサンがそうしているように日本仕様をそのまま輸出するのか、それともフォード「モデルY」等の欧州での競合車程度に拡大したものとするのか。
ここで能村は2行目を丸ごと消し、1行目も直した。
能村が知るべきことは「いつまでに」だ。
渡欧してくる設計課と実験課の面々に事務所を用意することと、GPチームの活動日程の調整がそれで決まる。
個々のレース日程にどう対応するか、今現在においてチームと94RCと操縦者に欠けている「勝負に必要な要素」をどの日程で補強するかが決まる。
ただ、それにしても。
「耐久性を度外視、ファステストラップを狙うだけ」のマシンなど作らなくて本当に良かった。
先日に目にした「T35だったマシン」の驚くべき速さと、あっけない故障リタイアを改めて思い出す。
あの路線でマシンを作っていたら、今ごろ打つ手は無くなっていた。
返書を書く前にもう一度、本社からの書面を読み返すことにした。
まとめてめくっていた1枚に気づいた。
*
・8月に開場の井の頭公園スピードウェイの砕石転圧工事は順調。
・市販車部門のレース出走表明は以下の通り
ダットサン
ツクバ
フォード
オースチン
オオタ
・オースチンとフォードの日本仕様車の発表は未だなれど、8月のレースに合わせると見る意見多し
・フォーミュラカーレースへの出走表明は以下の通り
オースチン
ツクバ
日本フォード
・我が社はエンジンを国産化し変速機を追加した2st前輪駆動レーサーを試験中。
アドバイスあれば送られたし
・久世、染谷両君は川真田、藤本両顧問の指導の下、鋭意練習中
能村は表情を緩め、そして顔のあちこちに走った痛みで自分がどれほどの時間、顔をこわばらせていたのか実感した。
そして、肩が少しだけ軽くなったことも実感できた。
「帝国国内向けの看板」はいまや、本社が用意するものになった。能村の仕事は少しだが軽くなった。
一件だけ、気になった。
空文化している「保護自動車小型」と「無試験免許小型」との混同が生じはしないか?
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我々の歴史では免許等で優遇される「小型車」枠が出来るまでは「小型商用車」(今の軽ワゴンや軽トラ等)の市場があると事前に気づいた会社は少数派だったようです。これは作中でも同じとしています。
なお帝国時代の「小型」は日本国の5ナンバーではなく、日本国の軽自動車に相当します。
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