第18話 車検。「シルバー・アロー」の始まりの日
1934年6月2日、ニュルブルクリンク
第12回アイフェルレンネン日程3日目、練習走行が終わり予備車検が開始された。
予備車検の終了後、ドライバーズ・ミーティングが行われる。
練習走行に出たのは1日だけ、他マシンとの接近時の振舞いなど全く見せていない叶がドライバーズ・ミーティングを通る可能性はまずない。
「密集編隊を組むこと自体が危険。知った同士でも危険が減るだけで安全ではない」とは叶の言だが、誰でも、どの乗り物の操縦者でも船長でも同じことを言うだろう。
しかし。
個々のドライバーがドライバーズ・ミーティングに通るか否かと関係なく、出走申し込みしているマシンは車検を受けなくてはならない。
ゼッケン「1」アウトウニオンAGのシュトゥック選手のマシンがまず車検を受ける。
見た目にはピットの一角に横たえられた長方形の鋼板に見える台座に載せられ、タイヤがホイールごと外された。
タイヤを外されジャッキで支えられた銀色の細長い車体は魚のように見えた。
ホイールナットを競技委員に手渡したアウトウニオンAGの整備員がタイヤを運び出し、そして競技委員がホイールナットをマシンの傍に置いて台座の上から退出する。
燃料とオイルと冷却水はすでに抜かれており、ドライバーシートも外されている。
固定が外されたのか、計測台が少し揺れ、しばらく掛かって静かになった。
天秤の「もう片方」に錘が載せられ、さらにバーニャ錘が操作される。
「ゼッケン『1』、重量740.5kg」
「燃料のニトロベンジン含有量、4.4パーセント。常温常圧で液体であることを確認した」
競技委員が次々に数値を確認し、そして見学者よりも近くで車検を見ている各チーム関係者を見渡した。
「車検に疑義ある場合、手数料を添えて抗議書を示されたい」
疑義を唱えるものはなかった。
「ゼッケン『1』アウトウニオンAG、アウトウニオン『タイプA』第12回アイフェルレンネンにおけるフォーミュラに合格と認める」
離れて見守っていたアウトウニオンAGの整備員たちがゼッケン「1」に手早くタイヤを装着して秤の上から運び出し、ゼッケン「2」ライニンゲン王子のマシンを運び入れる。
「ゼッケン『2』、重量738.5kg」
シュトゥック選手のマシンとライニンゲン王子のマシンの重量差は約2kg。
重量比にして0.3パーセント弱の違いが車検天秤の誤差か製造誤差なのか微妙なところだ。
一昨年に航研所員のお供をして視察に回った欧州各国の航空機産業ではこの類の天秤の精度等級は0.1パーセント程度だった。
ゼッケン「3」のモンベルガー選手のマシンが計量され、結果が読み上げられる。
「ゼッケン『3』、重量736.5kg」
この結果に能村は納得した。
「つまり。ケムニッツ市にあるアウトウニオンAGの本拠地には『飛行機工場並みの重量検定を行いつつマシンを組める体制』があるわけやな」
柿崎がアウトウニオン「タイプA」に対して要約を呟いた。
ともあれ車検は粛々と、異議が出ることもなく進んでゆく。
ゼッケン「4」と「5」はそれぞれ個人参加の選手が持ち込んだマシンで、一昨年のアフスレンネンでカラツィオラ選手が操縦したものと基本的に同じだ。旧型のアルファロメオ「モンツァ」である。
705kg、そして709kg。これは管理状態の差だろうか?
なんにせよ、この分野の設計初心者である能村の作品よりも重い。
次いでスクデリア・フェラーリが持ち込んだ2台が車検を受ける。
スクデリア・フェラーリが持ち込んだ「P3」はアフスで見た"Aerodinamica"のような流線形フェアリングやスタブウイングを備えてはいない。
しかしラジエーターグリルがアフスで見た時よりもいくらか前に設けられ、縮小されている。
そして、アイフェルレンネンには適用されないAIACRフォーミュラのコクピット幅規定を尊重して幅広に作られている。
その効果は練習走行の間にピットからの観察で判っている。
ドライバーの肩幅ギリギリの細いシャシーを持つ「モンツァ」は
だが「P3」は違う。
シャシーの剛性を上げる事も、重量物を機体中心へと寄せることも重大な効果を持つ。
「ゼッケン『6』、721.5kg」
アルファロメオの、あるいはフェラーリの新マシンは旧型の「モンツァ」よりも重い。
行程容積2900ccのエンジンを載せていること、そのエンジンは「モンツァ」の2300ccと同じく直列8気筒であり2つの過給機を装備していることは公開されている。
そして剛性の高い幅広シャシー、新しいサスペンション。
重くなるのは当然だ。
そして重量の増加を補って余りある性能向上を実現していることは、アフスでも見たし今日までの練習走行でも判っている。
能村の作品はその新型アルファロメオよりもさらに剛性が高く、さらに軽く、そして重心も低い。
曲線区間では「今のところ」どのチームのマシンより速い。
恐らくは出走できない。
残念なことなのか、未発見の危険を回避する機会を得たと考えるべきかは判らない。
まだ機会はある。
ともあれ、燃料サンプル検査にもなんら問題なく車検は粛々と進む。
「ゼッケン『7』、720.5kg」
これも合格だろう。
ただ、アフスでは3台エントリーだったスクデリア・フェラーリがアイフェルレンネンには2台、2名のエントリーであることは少し気になった。
あの"Aerodinamica"を委ねられてアフスレンネンに優勝したG.モル選手の名前はエントリーリストに無く、見かけてもいない。
モル選手はアルファロメオ社とスクデリア・フェラーリの本拠地でテスト走行でも行っているのだろうか?
能村が考える間ににも車検は進んでゆく。
計測結果に驚かされたのはゼッケン12番、R.スタインウェグ選手の「ブガッティT35」が秤に載せられたときだった。
ブガッティは伝統的に、新フォーミュラになる前から2人並んで乗れる幅のシャシーを設けている。
しかしスタインウェグ選手あるいは契約技術者はそれを気にせずに大規模な設計変更を実施している。
新フォーミュラの第2項も全く無視している。
このレースに何か意気込みがあるのか、ハンガリーには新フォーミュラを適用しない独自のレースがあるのかは知らない。
シャシー幅は目算では「モンツァ」などとほぼ同じ。
一方で旧フォーミュラの欠点を理解しているらしく、ブガッティの純正シャシーのような「穴をあちこちに開けた鋼板」シャシーではない。
シャシーは鋼管溶接の梯子型構造のようだ。
そして梯子の踏み桟に相当するクロスメンバーは大きく湾曲し、エンジンも変速機もプロペラシャフトも何もかもブガッティT35より低く搭載されている。
シャシー溶接個所の削り痕と言い、能村にはいささか度が過ぎるようにも思えた。
「ゼッケン『12』……640.2kg」
大きくどよめく中、能村は「度が過ぎる」と結論した。
前後サスペンションはブガッティ純正のまま……ではない。ヤスリを当てた痕跡がいたるところに見える。
ともあれ「ブガッティT35だったマシン」は車検に合格し、ツクバの順になった。
「ゼッケン『13』……701.4kg」
これには納得の声が聞かれた。
「ブレーキングに旋回、立ち上がり加速。速いわけだ」
「しかし出走したとして走り切れるのか?削りすぎじゃあないのか?」
スタインウェグ選手の大改造ブガッティT35には聞かれなかった言葉が94RCに対して聞こえるのはなぜか?
能村は考えないことにした。
何故か大きなゼッケン番号を割り振られているダイムラーベンツAGの3台が車検を受ける順番になったときには 南ドイツの遅い夕日が傾いていた。
まずブラウフィッチュ選手のゼッケン「20」を描いたメルセデスベンツW25が秤に載せられた。
秤の片方でバーニャ錘を滑らせて精密計測する競技委員の手元が安定するまでずいぶんと時間が掛かった。
「重量749.5kg」
車検場がどよめく。狙った値なら驚異的だ。
能村が考えている間にゼッケン「21」も計量に掛けられる。
「ゼッケン『21』……重量……749.8kg……」
当惑を隠せない競技委員の声に、またも車検場にどよめきが広がる。競技委員は再計測を行ったが、同じだった。
ついでファジオーリ選手の「22」が秤に載せられる。
「ゼッケン『22』……重量……749.4kg……」
競技委員の声に、今度は車検場に静寂が広がった。競技委員は再計測を行ったが、同じだった。
燃料サンプル検査も合格している。
しかし誰も抗議書を提出しない。
能村は茫然としていた。
750kg近い車両の重量バラつきが数百グラムしかない。誤差を0.01パーセント強に収めている?
メルセデスベンツ社はどんな秤を用いて完成検査を行っているのか。いかなる管理体制で設計と製造組み立てを行っているのか。
飛行機でも、たとえ量産体制が安定していてもここまでの重量精度では作れない。
全ての部品を……座金の1枚、リベットの1本に至るまで計測して組み上げても、それでもメルセデスベンツが示した精度で組むことはどこの飛行機会社にも出来ないだろう。
市販車ともなれば、たとえば日本帝国の自動車の検査を行う「地方長官」つまり道府県知事は誤差10パーセントまでなら認める。
なにしろ大量生産されるアメリカ車でもそのくらいの誤差はあるのだ。
最後にゼッケン「24」、最年長にして歴史上2人目のグランプリ50勝ドライバーT.ヌヴォラーリ選手のマセラティが車検に合格したところで事件が起きた。
車検場からダイムラーベンツAGの整備員たちの手で押されてパドックへ向かう真っ白い「W25」の列にスクデリア・フェラーリの監督が歩み寄ったのだ。
フェラーリ監督は滑るような足取りで「W25」のコクピット脇に立ち、そして長身を折り曲げるようにしてコクピットの足元に手を差し込んだ。
ダイムラーベンツAGの面々がいっせいに足を止め、周囲は静まり返った。
エンツォ・フェラーリは言い放った。
「ブレーキフルードが入っていない。さて、親愛なるダイムラーベンツAGの諸君はこれをいかが思われるかな?」
その言葉に車検場は騒然となった。
AIACR規定の750kgフォーミュラ第1項には計測時にブレーキフルードを入れるか否かは一切の記載がない。
ただし「何を外して計測するか」は明記されている。
そしてなにより、競技規則として「出走車両は有効なブレーキを備えること」と定めてもいる。
競技委員が「ゼッケン20,21,22に対して再度の予備車検を行う」と宣言したときにはダイムラーベンツAGの整備員がブレーキフルードの缶を手にパドックから戻っていた。
30分ほどを費やして3台の「W25」の予備車検が終わった。
ゼッケン「20」は750.7kg。
ゼッケン「21」は751.5kg。
ゼッケン「22」は751.1kg。
いくつか判明したことがある。
ダイムラーベンツAG「W25」は飛行機メーカーにさえ困難な水準の重量管理体制で設計製作されている。
しかしなんらかのミスがあった。「重量のバラつきはごく小さく、しかし全車が重量を超過」となった。
ブレーキフルードを入れずに車検を受けたのが故意か過失かは不明。
なんにせよ、これほどまで徹底した重量管理で設計製作された機体を明日までに規定重量まで軽量化することは困難だろう。
その困難を一番知っているのは、悄然とマシンを押しながらパドックへ引き上げてゆくダイムラーベンツAGの面々だ。
明日の本車検で重量超過のままとなれば、ベンツ勢はアフスレンネンに続いて「練習走行のみ出走」となる。
もっとも「練習走行のみ出走」となっているのはツクバも同じではある。こちらは実に手短にドライバーズ・ミーティングで結論が出た。
ミーティングの座長を務めた、このレース唯一の女性ドライバーの言葉は実に簡明だった。
「中尉さんが他マシンと近接したときの動きを今のところ誰も見ていない」
言ってミレ・ヘレ=ニース女史は挙手を求め、叶本人を含む誰一人として「叶の出走を認める」に挙手しなかった。
トンネルを抜けてパドックへ戻り、13番の格納庫へ94RCを収めたところで能村はひとつ気づいた。
フェラーリ監督は抗議書を提出せず、またダイムラーベンツAGの誰にも断りなく「W25」に触れてブレーキフルードが入っていないと指摘したのだ。
競技委員が3台の「W25」に対して予備車検をやりなおしたことはどのように1934年アイフェルレンネンの記録に残るのだろう?
ともあれ、ツクバRTとダイムラーベンツAGの格納庫以外は次々にマシンを収めると扉を閉じ、灯りを落とした。
背後にそびえ立つスポーツホテルで夕食を取り就寝するのだろう。
ダイムラーベンツAGの格納庫からは論争の声も止み、今は何かの作業をする音が小さく響いてくるのみだ。
*
翌日、6月3日。第12回アイフェルレンネン決勝当日。
13番と21番以外の格納庫の扉が開き、マシンがパドックへと引き出される。
ダイムラーベンツAGの格納庫から引き出された「W25」はゼッケン20も22も一夜にして様変わりしていた。
白塗装を落とし、銀色に輝いている。
「能村、どう見る?あれで『W25』は通るやろうか?」
柿崎が尋ねた。
普通ならアルミ合金は酸化被膜に覆われて白く見えるものだ。それさえ磨き落としてあるのが今のW25である。
だがルーバー回りは白塗装のままだ。
つまりヤスリを当てないと落とせない、なおかつ薄く塗れる軽量塗料。心当たりがある。
「塗装はおそらく航空用。面積から考えて1kg程度の軽量化だな。さらにアルミ合金が銀色に輝くほど磨いてある。通るだろう」
*
「W25」は本車検に合格し、拍手が巻き起こった。
「銀の矢」なる言葉もその人垣から聞こえた。盛んにカメラのフラッシュが焚かれる。
これをきっかけにドイツのレーシングナショナルカラーがそれまでの「白または銀」から「銀」に定着すること。
しかし「ジャーマン・レーシング・シルバーの始まりの日」が史書に確定するのはずっと後になること。
それを確定させる写真を撮影した「ベルリン日報」のカメラマンが彼の意に反してドイツからの避難亡命を強いられること。
この日この時、それらを予想したものがいたかどうかは、判らない。
判っていることは、2009年にメルセデスベンツ博物館がそのユダヤ系カメラマンの遺したフィルムのデジタイズと保存に出資すると決定したときには、この日この場所で立ち会った人間の全員が世を去っていたことだけである。
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2024年4月23日
「シルバー・アロー」に関する追記。
日本語wikipedia記事の「メルセデス・ベンツW25」には「その記事が作成される前に」証拠写真が出て否定された説が未だに書かれています。
残念ながらweb検索でも上位に来ます。
ので、ここに追記します。
本作ではゾルタン・グラス(当時はベルリン日報のカメラマン、ユダヤ系であったためにイギリスに亡命し1982年に死去)が残した写真を作中の事実とします。
https://cdn-static.kakuyomu.jp/image/uQymv2cg
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