第10話 1934年アフスレンネン(6) 分析と別解
この観戦で重大な教訓をいくつも得た。
たとえばフェラーリと言う
同じ日に同じコースで、新しいフォーミュラに合わせて設計された新車をアウトウニオンと同じ台数走らせたが、完走率が違う。得た戦果も違う。
観客席が閑散とするのを待ってからツクバGPチームの面々は公式記録を買い、パドックに移動した。
完走できなかった5台それぞれに、恐らくは些細な調整や確認のミスが原因であろうリタイヤ原因が記されている。
パドックに向かう途中で叶と最若手の整備員がライニンゲン選手の横転事故の経緯を時系列順に読み上げ、そして能村と柿崎はアウトウニオン「A」の公開されていないリアサスペンション構成を推測した。
単純型スイングアクスル方式。
ディファレンシャル両脇に伸びる駆動軸のカルダンジョイントをそのままサスペンションの上下軸として用いる。
駆動軸にもサスペンションアームを兼ねさせる。
これだけでは駆動軸が前後方向にも自由に振れ回るから、前後方向への動きを制御する何かの機構と併用しているはず。
能村と柿崎はこの方式を基礎研究段階で却下している。
一見簡素軽量だが、旋回力を発生させるとタイヤ接地点とカルダンジョイントの回転中心を結ぶ斜めの線に沿って力が掛かり、機を持ち上げる。
ある臨界値を超えたところで内輪は路面から唐突に離れ、外輪は大きく傾いて旋回力を一挙に喪失する。
それがライニンゲン選手の事故原因で、防ぐには旋回力を故意に逃がすシュトゥック選手の技巧が単純確実。
若手整備員によるとリアサスペンションがジャッキ挙動を開始するのと同時にライニンゲン選手は後輪を空転させ滑らせたが、サスペンションが再度沈み両輪が正しく接地する直前でコースアウトしたと言う。
叶の評は「予想も準備もしていただろう。失敗からの回復余裕が不足だった。タイヤ接地面の幅の半分弱、内側のラインを取っていれば回復が間に合ったはず」だった。
叶の評が正しいとするなら、絶妙に見えたライニンゲン選手のライン選択は2インチか3インチほどミスしていたことになる。
スイングアクスルの欠点を解決する設計例はある。
能村はそれを、ローピボットスイングアクスルを選びかけた。
しかし基礎研究段階で藤本、川真田両顧問のアドバイスを容れ、整備性を優先してダブルウィッシュボーンにしたのは正解かもしれない。
*
「94RCの場合、3速から上では回転上昇を追いかけてスロットルを開く操作が限度です。どれほど路面とタイヤに余裕があっても」
パドックへと歩きつつ、叶が質問に応じた。94RCの見落としていた欠点について。
「回転数が低い、吸気流量が少ない状態で大きく開けるとキャブレタースロートに掛かる負圧もスロットルバルブ周りの乱流も減る」
柿崎がその仮説に沿って解説を加える。
「いかにアセトンとエーテルを混ぜて燃料の表面張力を下げているとは言っても、それでも燃料は霧にならず小雨になるわけだな」
能村が応じたところでグランドスタンド下を抜け、パドックに出た。
一昨年ほどには報道陣が多くない。
優勝したのがドイツ車に乗るドイツ人ではないからだろうか?
が、レース後の車検風景は一昨年と変わらない。
まだしばらくは見学者が近づけないことも。
*
「ドイツ勢のように、あるいはレース用バイクのように足回りに対して過大なエンジンを載せて『絞って』走らせるのもひとつの手段ではある。燃費が悪い上に、重くなるが」
「絞るのをスロットルバルブではなくキャブレターのスロートそのものにする、つまり小さいキャブレターに換えるのはどうだ?」
「同じことや。この根本解決は燃料噴射やけど、ディーゼル用ほどではないにせよ高いし、出先で手作りできるものでもない。発注してすぐ出来るものでもない」
*
この問題は彼らの大半が世を去った後にも続くとは、この時には誰も予想していない。
そのうちにインジェクションが実用化され解決されると考え、機械式インジェクションの出現時の不評も「いずれは解決される」と信じた。
「応答性を上げるだけならキャブの口径ダウン」
「インジェクションでも同じ」
「ディーゼルに近い高圧噴射なら解決できる」
と結論されること、つまり「ディーゼル用ほどの高圧は要らない」は「間違いではないが不十分」だとは予想していない。
彼らのうちただ一人が、ホンダ第2期F-1エンジンがインジェクションと燃料予熱を併用するのを目にし嗅ぐ。
ヤマハ
結局「ガソリンエンジン用の低圧インジェクションは決定打ではない」と知る前に6人中5人が世を去る。
*
「最善は間に合わないどころか手も出ない。次善は?」
「ベンディックス・ストロンバーグみたいなフロートレスキャブレターやな。まず定圧燃料配管。これの出口ニードル弁をインパクト圧とベンチュリ圧の差圧を使って動かす。まだアメリカ車でも採用例がないはずや」
柿崎はこの「フロートレスキャブレター」を日本でも模倣しようとして失敗作の山を各社が築いていることには触れなかった。
「次善もまだ無理。ならば3善は?」
「ベンチュリスロートの絞り比をスロットル操作そのもので変化させる、強制可変ベンチュリキャブレター」
柿崎が即答した。
「新良貴さんたちがテスト走行している、あのバイクが使っているイギリスのアマル社式キャブレターですか?」
「そう。日本では確か……ミクニさんかな?どこかがライセンスを得て生産しとるはずやな。スロットルバルブはギロチン式で、これが可変ベンチュリを兼ねる」
「足による雑な操作で問題ないものですか?」
6人の中でもっとも緻密なスロットル操作をこなす叶にそう問われれば技術側も考え込むしかない。
「買って試してみるのはどうや?」
柿崎が提案する。
「アマル式は無理です。構造が精妙にすぎます。今のソレックスとは比較にならない手間が掛かります」
整備班長が率直に否決した。
「3善は整備の手数で試す前に無理。では次は?」
能村が問う。
「スキナーズ・ユニオンの半自動、可変ベンチュリキャブレター」
柿崎がこれも即答した。
「イギリス車によくあるSU式キャブレターですか。何度か触ったことはありますが、あれは楽ですね」
これには整備班長も同意した。能村もそれは知っている。パオロ選手の改造インディーカーが装備していた。
「そう。あれなら整備工数はソレックスより減る……が。各種のシールがアセトン混ぜた燃料に耐えるとはとても思えんな。ベークライトに置き換えなら自作する方が早い」
原理と機構を思い出しつつ、能村は首を傾げた。パオロ選手のリタイヤ理由と無関係だろうか?
レース用エンジンの発する強烈な負圧を掛けたときに理論どおりに動くものだろうか?
「市販品はベルリンのバイク屋をいくつか巡れば買えるはずや。ツクバセダンに合うものが」
柿崎が実に荒っぽい初期実験を提案した。
「口径その他が合わなかったら?」
一応は確認してみる。
「ガソリンで走らすんやから、ゴムか革のアダプターで実験には十分。……諸君。ロストクへの復路で試しはせん、安心しろ」
機先を制された。
*
今年はリタイヤ順の早いものから先に車検が進み、パオロ選手の改造インディーカーの周囲を取り巻いていた車検委員と報道陣が離れた。
5周目でリタイヤに終わったが、得るべき解の多くがそこにはあるはずだ。
フェアリングは外したままで、エンジンルームはその全てが見えた。
「やあ、能村博士。見ての通り、オーバーヒートだ。インディーカーは低速コーナーからの立ち上がりには向いてないね」
パオロ選手とスカリー氏はあっさりと述べ、そして背広姿にゴムマスクを被った叶に視線を向けた。
「そちらが例の『ガスマスクと革服の騎手』……いや、『皮鎧のサムライ』かい?」
パオロ選手が実にアメリカ人らしく、勝負の場に出るものへの敬意を示しつつ訊ねた。
「操縦者でも騎手でも結構ですが『侍』だけは止めてください」
叶は声を張り上げたわけではない。しかしツクバGPチームの誰もが初めて聞く強い口調で応じた。
報道陣の数名が振り向いた。
「……失礼。私の家に伝わる、あなた方の言葉で言う『サムライ・ソード』を私は受け継いでおりません。私は日本帝国の公務員でもありません。ですから私はどちらの意味でも『侍』ではないのです」
叶の言葉の後半は「侍」の原義でもある。
ならば航研に入ってから最終的に東京帝大を辞するまでの能村も「侍」だったことになるが、口出しは止めた。
「……『サムライ』を名乗るには資格が要ると判ったよ、騎手さん。能村博士、紹介してもらえるかな?
能村は順に紹介し、この6名がツクバGPチームの全員だと締めるとパオロ選手もスカリー氏も大げさに天を仰いで見せた。
*
「……スキナーズ・ユニオンの純正なら負圧シリンダーはアルミ合金ですが、違いますね」
許可を得て、もちろん手は触れずに柿崎がルーペ片手にパオロ選手のマシンのキャブレターを検分している。
「もちろんさ。ガソリンで走らせるならアルミ合金でも構わないが」
スカリー氏が微笑んで見せる。
「キャブレター内部に入り空気に触れたメタノールは湿気を吸い込み、瞬時にギ酸を発生します。ギ酸がアルミ合金の表面に形成された酸化アルミ層へと浸透してアルミ合金を溶かす。酸化アルミ層は微細粉となって剥がれ、そしてキャブレター内部に飛び散る」
柿崎が即答する。
「そのとおり。酸化アルミ粉末はダイヤモンド以外の何もかも削る、この世で最強の研磨剤だ」
スカリー氏が頷いて見せる。
「ましてエンジンに吸い込ませるなど論外。まあ、化学と物理は世界中どこでも同じですね、スキナー技師……監督?」
「この場合は技師として答えているつもりだよ」
柿崎とスカリー氏、2人の「技師」が論じているのを聞きながら能村は整備班の1人に"Aerodinamica"とアウトウニオン「A」の底面をなんとかして見るようにと命じた。
この改造インディーカーがここに示している解は、柿崎がおおよそは読んでくれるはずだ。
そしてふと、整備班が慎重に扱うある研磨剤を思い出した。
日本では酸化アルミ粉末は着色油に溶いて使う。
目視で「どこかに残ったり流入していないか」を確認できなければ危険なほどの研磨剤だと思い出す。
アメリカでも同様だろう。
「レッディングして鉛被覆してあればアルミ合金はギ酸から守られますが、これはまさにレッディングだからこそ。常温でアルミ合金に鉛めっきする方法と言うものは、今のところはありませんね」
柿崎の言葉が質問なのか確認なのかは能村には判らなかった。
「そうだ。が、実に意外な物質がギ酸に耐える」
「スズですね」
柿崎が即答したのは、すでにメタノール混合燃料対応のSU式キャブレターの構想を立てているのか?
今のソレックスキャブレターに用いている亜鉛合金では駄目なのだろうか?後で聞こう。
「そのとおり。ただし、スキナーズ・ユニオン方式そのままの『ベンチュリを駆動する負圧ピストンと、アルミ合金の負圧シリンダーの隙間をゴムや革のリングでシール』する方式は使えない」
スカリー技師は指摘と共に出題した様子だった。
これは能村にでも判る。
ゴムも革も、あの混合燃料に晒されれば溶けてしまう。
「ええ。別の方法が必要ですね。ところで念のためにお聞きしますが、オーバーヒートの原因は負圧シリンダーが固着し、気化不良になったせいではない?」
柿崎は平然と応じ、訊ねた。
何か策はあるのだろう。
「プラグを見るに違うね。雨上がりのペースダウンが間に合わなかった。こないだのトリポリでは完走できたんだが、やはりインディーカーに低速コーナーを回らせるのは無理があるようだ」
パオロ選手とスカリー技師はまたも両手を挙げて見せた。
これは初耳だった。
5月上旬にイタリア領リビアのトリポリで「トリポリグランプリ」が行われたこと知ってはいた。
平均速力がインディアナポリスに匹敵する、トリポリ市郊外の塩湖の回りを走るコース図は見た覚えがある。
日程上、出走できないレースだから気にもしていなかった。
しかし5月上旬だからと言って「ジブリ」なる熱風吹き荒れるリビアが涼しいはずもない。
しかしこれで、なぜ改造インディーカーの冷却問題を軽視したままアフスに出走したのかが理解できた。
若手の整備員が早足で戻ってきた。
「アウトウニオン『A』は機首底面に金網で塞いだ開口があり、"Aerodinamica"と『P3』は底面全体に金網が貼ってあります」
予想外の答えではないが、どうやって人垣の外から見たのか?
「カメラマンが何人か『うっかりと』手鏡を落としたんですよ。割れませんでしたが」
苦笑で応じる。
そのカメラマンが本当に報道関係者なのか、いずれかのチームと関係のある人間なのかは詮索しても意味がない。
ただ、整備員の報告で今さらながら判った。
使える限りの手段を使う勝負の場なのだ。たとえ決勝レースの終了後であっても。
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次、あるいはその次から主人公たちの欧州でのレース活動が始まります。
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