10. where's he now?
中川さん、とカーテンの向こうから声がする。はい、と返事をするとカーテンが開き「採血しますねー」と笑顔の看護師さんが入ってきた。
二日目に投与されたキイトルーダと毎日のインライタの副作用は、軽い蕁麻疹が出ている程度だった。昨日もうひとりの担当医の吉田先生の往診があったとき、看護師さんたちにしていたように元気さを訴えると、明後日の採血の結果次第で退院できると言われた。家の猫さんの具合が悪いからどうしても早く帰りたい、と頼み込んで次の日に採血してもらえることになった。その採血準備がいま為されている。
針が刺さっている右腕は見れないので、左を向いて猫さんのことを考えているうちに採血は終わった。まだ朝食を食べ終わったばかり。結果が出て主治医の許可が降りたら午前中に退院できそうだ。洗面所に向かい歯磨きを終え、顔を洗っていると廊下から名前を呼ばれる。濡れた顔で振り向くと主治医の須藤先生が立っていた。
「まだ結果は出てませんが、良かったら退院ですからね」
「はーい」
入院してから初めて須藤先生を見た。スウェットの後ろ姿でよく私だとわかったものだ。それにしても洗顔中に声をかけるなんて忙しいんだな。もうすぐ退院できるかも、と思うと心が軽くなっていく。キイトルーダは治療後七日から十四日頃に白血球減少が起こり免疫が大きく下がるらしい。退院後の心配もあるけれど、今は家に帰れる嬉しさのほうが上回っていた。
いつ結果が出るのだろう。気が早いかなと思いつつ少しずつ荷物をまとめた。あとは着替えてスリッポンをスニーカーに履き替えるだけになってしまったけれど、なかなか誰からも呼ばれない。もう十一時を回っている。彼から駐車場に着いたと連絡が入り、昼食前のバイタルチェックも来てしまった。検温、血圧測定、血中酸素濃度測定。
「検査結果は出ていますよ。いま須藤先生のオーケー待ちですからね」
着替えよう。
『あと先生の許可だけだって。もう少し待っててね』
彼にラインしてソックスを履いていると知らない看護師さんから声がかかる。
「お聞きしたいんですが」
「はい?」
「中川さんに『今日退院』と言いに来たのは須藤先生ですよね」
「そうです」
「つかまらないんです……」
「……」
「須藤先生いるんですね。もう一度探してきます」
「お願いします」
須藤先生、どこへ行ったんだ……。持ってきた紙袋にスリッポンを入れスーツケースにしまう。スニーカーを履いたり脱いだり。ベイブリッジを眺めたり。隣や向かいのベッドに昼食が配られた。昼食、私のところには来ないで。このまま帰りたい。
「オーケー出ました! 退院です! 途中までお付き添いしますね」
「ありがとうございます……! すぐに用意するので待っててください」
やった! 彼にラインしてスニーカーを履く。すでにフーディーは羽織っているし、スーツケースはロックしてある。ベッド周りのカーテンを開けると看護師さんがスーツケースを持ってくれた。すれ違う看護師さんたち、ナースセンターに挨拶してエレベーターホールに向かう。
「おめでとうございます。お大事になさってください」
「ありがとうございました」
付き添ってくれた看護師さんと別れてエレベーターに乗る。一階でエレベーターを降りると、すぐ側の椅子に座っていた彼と目が合った。
「おめでとう、おかえり」
「ただいま。ありがとう」
ハグする彼の背中に腕を回す。
新山下から首都高に入り、ベイブリッジを走る。本町で下りてパーキングに入る。五分くらい歩いて古いビルのエントランスを潜った。階段で二階に上がる。廊下の奥でかわいい磨りガラスのドアが開かれていた。無垢材の床と木製のテーブルと椅子が温かい店内。エイミーのおすすめのpuukuu食堂に来ていた。ランチは二種類。私はサンドウィッチのプレートと季節のスイーツのガトーショコラとアイスコーヒー、彼はサンドウィッチとキッシュのセットプレート、同じガトーショコラとアイスコーヒーをオーダーした。
丸いバンズのハムとチーズのホットサンドウィッチ。ケール、ニンジン、ブロッコリー、トマトのサラダと半分の茹で卵。卵だけでこんなにも豊かな味がするのかと驚く。ミルクを少し足したアイスコーヒーがとてもおいしい。彼が分けてくれたキッシュも、次に来たときにオーダーしようと思うくらいおいしかった。
二回とも相手のほうから離婚を切り出されたという彼だけれど、相手はどこが不満だったのだろう。優しくて穏やかな彼の笑顔を見つめながら、ふと考える。彼はあまり感情の起伏がなく、口数も少ないので掴みどころがないところはあるけれど、安定してぶれないところにとても安心する。私はというと浮き沈みが激しく神経質だった。いつ愛想を尽かれてもおかしくないと思っている。だからこそ不安は忘れて今の幸せを受け止めていたい。
窓際のテーブルに並ぶミナペルホネンのかわいいトレーとお皿。窓には白い木が描かれていて、木漏れ日のような影をテーブルに落としていた。
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