トンボと虹

愛川あかり

第1話 あやめの谷戸


 山の端が白んで来ると、紫にたなびく雲がオレンジ色に輝き始めた。

日が昇るにつれ、西側のほの暗い影が、新緑の鮮やかな色を取り戻して行く。

朝もやを追い払うように風が吹きぬけ、一面の幼い稲をなでてゆく。


 すっかり夜が明けると、朝露に濡れ、キラキラと朝日を映す水田が、ちょろちょろと水音を立てて広がっていた。



 あやめの谷戸。

昔から田んぼが連なる小さな谷だ。

何百年、いや千年の昔から、人は稲を植え、棚田と共に暮らして来た。


 上流に水源があり、見渡す限りあやめの花が咲いていた。

中ほどに池がある。


 あやめ池と人は呼び、とても大切にしていた。

透き通る水が滾々と湧き出し、この水が、谷戸に生きるすべての命を育んでいた。



 あやめ池の周りには湿地が広がり、あやめの花が咲き乱れていた。

あやめの花のすぐ下に、トンボがじっととまっている。

風に揺らめくあやめの花は、トンボのことなどまるで知らない。

トンボは懸命にしがみついていた。

生まれたばかりのトンボだった。

その羽は、まだ儚げにほの白く、つかまる足も弱々しい。

水に落ちればすぐに死んでしまうだろう。


 風に揺れる若葉を透かして、お日様がまぶしい光を投げかけている。

さわさわと吹き抜ける風に、きらきらと水面が光る。

そのたびに、トンボも花もきらめいた。


 トンボはじっと待ち続けた。

青空は高く広がり、山の端は萌える緑に輝いていた。

お日様があやめの谷戸を真上から照らすころ、トンボはふわりと舞い上がった。



「うわぁ、なんてきれいなんだろう!」

トンボは叫んだ。

眼下には、あやめの花が咲き乱れ、空をうつした池が広がる。

さらさらと流れる水はきらめいて、あちらこちらできらきら光る。

きれいに並んだ稲の隙間で水がきらめき、空を映して輝いていた。


 トンボは軽やかに空を滑る。

池を飛び越し、棚田を駆け降り、ぐんぐんスピードを上げていく。

稲の葉先をひらりとかわすと、一直線に空を駆け昇り、くるりと向きを変えると池をめがけて急降下する。

そんなスピードで何をするのか!?


 でも、あやめの花のすぐ目の前で、ぴたりと宙に止まって見せた。

再びパッと身を翻すと、すごいスピードで空に駆け昇って行く・・・


 空はどこまでも青く、木々の緑はつややかだった。

縦横にあやめの谷戸を飛び回り、やがてトンボは農道脇の柵にとまった。




「キミ、上手だね」

はじめて見るトンボがふわりと横に舞い降りた。

「うわっ!」

トンボは目を見張った。

やって来たトンボの羽は、向こうが透けて見えるほど薄く、透明で美しかった。

「ん?」

可愛らしい女の子のトンボだった。

楽しそうな顔のまま、くるりと首を傾げている。



「んー、キミの名前はサキグロかな?」

「え?」

美しい羽根に見とれるトンボに女の子のトンボがほほ笑んだ。

「だって、キミの尻尾の先、真っ黒なんだもん」

目をぱちくりするサキグロを見ながら、くすくす笑う女の子のトンボ。



「あたしはさしずめキゴロモだよ。体が黄色っぽいでしょ?」

そう言うと女の子のトンボははにかんで、美しい羽をすっと下げた。

「いや、キミはハゴロモだ」

「えっ?」

「キミの羽はとてもきれいだ」

透けるように美しい羽を見ながらサキグロが言った。



「えぇっ!」

ハゴロモが急に飛び上がった。

「おい!」

でも、ハゴロモは、サキグロの前で羽ばたいている。


「競争しよう」

サキグロと目を合わさないままこう言うと、一直線に空へかけてゆく。


「よし!」

サキグロは、力強く羽ばたいた。

見る間に近づき追いついてゆく。


 飛び回る二匹の軌跡は絡み合い、時に近づき、時に離れて、あやめの谷戸を駆け巡った。




「どうだ!」

サキグロがハゴロモを追い越した。


「まだまだぁ!」

パッと向きを変えたハゴロモが急角度で降下して行く。


「このっ!」

サキグロも向きを変え、ハゴロモを追いかける。

ぐんぐん加速するサキグロ。


 みるみる田んぼが近づいて来た。

二匹は同時に向きを変え、再び空を駆け昇って行く。



「わっ!」

突然ほかのトンボが二匹の前に現れた。

同じコースを同じ速度で飛んでいる。


「ん? あいつの方が少し速い」

すかさずサキグロは加速した。


「あは♥」

ハゴロモがうれしそうに後に続く・・・


 気がつくと、もつれあう三匹の軌跡に、いつの間にかもう一匹が加わっていた。

トンボたちは、先になり、後になり、あやめの谷戸を飛び回った。



 サキグロは楽しかった。

水の底に潜み、きらめく水面をつい昨日まで見上げていた。


 大きな魚の目を盗み、勇気を出して茎を登った。

登った先には、信じられないほど美しい花が咲いていた!


 そしてサキグロは翼を得た。

自分が生まれた池を飛び出し、田んぼを滑り、山をかすめ、大空高く舞い上がった。


 オレは自由だ!

サキグロは、縦横無尽に飛び回った。



 幼いトンボたちは、いつまでもあやめの谷戸を飛び回った。

整然と並ぶ稲は美しかった。

新緑は瑞々しく、柔らかそうな葉を輝かせていた。

世界は美しく、まばゆいばかりに輝いて、空は青く、どこまでも続いている。

そしてオレたちには翼がある!

山の端を染めて日が沈むまで、トンボたちは飛び回った。




「楽しかったぁ~!」

柵にとまったサキグロの横に、スッとハゴロモが舞い降りた。

ハゴロモの声は弾んでいた。

「ああ」

サキグロはあらためてハゴロモを見た。

ハゴロモはピンと伸ばした羽を少しだけ下げてとまっている。

美しい羽だとサキグロは思った。



 サキグロたちの近くに二匹のトンボが降りて来た。

「おや、キミらは知り合いなのかい?」

大きい、がっしりした体つきのトンボが声をかけた。

「うん。こっちはサキグロ、あたしは・・・」

「こいつはハゴロモさ」

「えへっ」

くすぐったそうにハゴロモが笑った。



「いいなぁ、名前があるのか」

「じゃあ、あたしがつけてあげるよ」

ハゴロモは大きなトンボをじっと見つめた。

「キミは、クロスジ!」

「お、いいじゃん!」

「ええと、キミは・・・」

もう一匹のほっそりしたトンボを眺めるハゴロモ。



「クロモンだ」

サキグロがぼそりと告げた。

「クロモン? なんだそれ」

ほっそりとしたトンボがむっとした顔をサキグロに向けた。

「だって、羽に立派な紋章があるじゃないか」

「紋章? ふむ、それもそうか・・・」

クロモンと呼ばれたトンボは、羽の先の紋章に似た黒い斑点に目を留めた。

「紋章って、ちょっといいかも。王様みたい!」

ハゴロモが言うとみんな笑った。


 山の向こうに日が沈み、あやめの谷戸が闇に包まれても、トンボたちは時を忘れて語り合った。

星が瞬き、月が昇った。




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