第4話

午後六時。定時きっかりに仕事を終えた忍が自宅の鍵を開ける。扉を開くと、予想外に食欲をそそる香りが流れてきた。



広い2LDKの廊下を突っ切り、訝りながらキッチンを覗く。


意外にも料理をしていたのは瞬だった。



「……出ていかないでくれたんだね」

「帰ってきて第一声がそれってなんだよ。普通ただいまだろ」


むすっとしながらも手際良くフライパンを振るその長身に悪戯っぽく尋ねる。


「ただいまって僕が言ったらおかえりなさいって言ってくれるのかな?」

「……おう。おかえり」



 憮然とした声ながら耳を赤く染めている瞬の手元に手を伸ばし、ガスを切る。

「あっ、お前何すんだよ、まだ作って──」

「kneel」


 指先でトントンと床を指され、条件反射で正座する。その首を膝を折った忍が抱き寄せた。

「偉いね。よく待てたね──いい子だ」

「……──」

瞬の目に僅かに涙が滲む。

「俺、お前のところにいてもいいのか。ここにいても……」

忍の手が瞬の髪を優しく撫でる。

「いいよ。好きなだけいるといい。君を養うくらいなら簡単だからね。僕も一人でこんな広い部屋にいるよりも気がまぎれるし」

忍が瞬の首に回していた腕を解き、立ち上がる。それを追って上がった瞬の目に頷いて見せた。

瞬が袖で乱暴に目元を擦り、立ち上がる。消されたガスを着け直し、料理を再開した。



自室に消えた忍が部屋着に着替えて戻ってくる頃には、手の込んだ食事が食卓に並んでいた。









 シャワーを浴びた瞬が髪をガシガシと拭きながら戻ってくる。その耳と尻尾はまだ隠しようもなく、それらもまた湿気を帯びているのが愛らしい。


「おいで」


 忍がソファに座ったまま瞬を呼ぶ。

そちらに向かう前に冷蔵庫に立ち寄ってコーラを取り出した瞬が指示された通りその前に座って足を投げ出した。忍がその手からタオルを奪い、丁寧に髪を拭いてやる。


「お前、コーラなんて飲むのか?」

訝しそうに瞬が口をつけていたペットボトルを見る。

忍が笑った。

「いや。僕自身は飲まないよ。それは帰りに社員から渡された差し入れ。まだ入ったばかりの子だったから僕の好みはわかってなかったみたいだね」

「……お前そういうの平然ともらうのやめたほうがいいんじゃねえのか。顔も顔なんだからさ……勘違いさせるんじゃね?」

「そうでもないよ。僕が受け取らないとガッカリしてしまう子も多いからこれも仕事さ」

「天然のたらしじゃねぇか」

うんざりしたように瞬が顔を顰める。

「そんなたらしに引っかかった気分はどう?」

「だからそういうことを平然というのをやめろ」

忍の指が瞬の顎を捉えて上向ける。

「光栄に思ってほしいね。僕が自宅に誰かを入れたなんて初めてなんだから」


瞳を覗き込まれた瞬が目を逸らす。



「……俺が……今朝からその……お前に色々……その」

「そうだね、随分と反抗されたな」

「その……お前のことを疑ったりしたのは……その……」


懸命に「悪かった」という一言を押し出そうと頑張っているその耳を指先でなぞる。


「うん? ごめんなさいって言ってくれるのかな」


さらにハードルを上げてくる忍に瞬が絶句する。この歳にもなってなぜそのワードなんだといいたげな瞬の目に忍が笑顔で圧をかける。


「あ……っ、と、その……ご、ごめん……ナサイ」


真っ赤になってなんとか忍の圧を解除するためのパスワードをつぶやいた瞬に忍がよしよしと笑った。

「いい子だ」



 手元でゆっくりとグラスを傾けてワインの香りを楽しんでいるその目が瞬に肝心の続きを促す。

聡い青年はわかっているというように視線を伏せた。


「俺がこの姿になるのは満月の前後の一週間だけなんだけどな……すげー小さい時はそんなことなかったんだ。初めてなったのが十歳の満月で……その半年後に俺は置き去りにされた。────保健所の前に。狼の姿のまま…………」

「…………」


 それはつまり彼が殺されかけたことを意味する。それも実の母親に。それからは学校にもいかず逃げ隠れする日々だったと青年は呟いた。


「でもガキがどんなに逃げ隠れしたってそんなの無駄だ──学校がある時間に外にいるだけで警察には補導されるし、補導されたら家を聞かれる。家がなければ施設行きだけど俺はこんな体だ。施設なんかに入れない。だから仕方なかったんだ」


 彼の物珍しさに釣られて一時的な飼い主になる人間の元に身を寄せるのは。いい飼い主ももちろんいたが、多くはそうではなかった。DV紛いの暴力を振るう相手や性行為を迫る相手の方が圧倒的に多かった。



「……だからあんなに過剰反応していたのか。事情も知らずに厳しいことを言ってすまなかったよ」

「いいんだ。普通はああ言ってくれるはずなんだって俺はどっかで忘れてた。俺が荒れれば荒れるほど力ずくで手懐けようとする奴らばかりだったから、あんな風に冷静に言われて目が覚めた」


なぁ、とその赤い瞳が忍を見る。初めて出会った時に彼が発した人恋しさに満ちた声。

「お前は違うって思っていいんだよな。俺を裏切らないよな?」

忍は頷く。たしかに珍しいとは思ったものの、自分は彼をペットにするつもりもなければ慰み者にする気もない。

「安心していい。僕はそういう目的では君を拾っていない。そもそもは君をあのまま置いていくわけにはいかなかったから保護しただけだったからね。でも僕は自分が拾った生き物の面倒を途中で放り出したりはしない性格だ。君はもう次の飼い主は探さなくていい」

「俺は何をしたらいい? ただお前が帰ってくるのを留守番してるだけってのは気がひけるから何かやらせてくれ」

「君は色んな飼い主のところで家事を完璧にしてきたみたいだからそれをお願いしようかな。残念ながら僕には家のことをしている時間がほとんどない。今までは僕一人だったから適当にハウスキーパーに任せていたけれど、君がやってくれるならそれに越したことはない」

「分かった。任せろ」

「頼んだよ」


 きれいに乾いた赤みがかった髪を指先で梳く。


「君は今日は僕のベッドで寝るといい。僕はソファでいいよ。明日には君のベッドが届くように手配しておく。昼のうちにもう一部屋の方を君好みに整頓しておいて」


う、となぜか瞬が口籠った。


「いや……俺ソファでいい」

「どうして? 君の身長じゃ……」

「なっ……なんでもいいだろ! 明日にはベッド届くならそれで」


なるほど、と忍が人の悪い顔をした。


「ベッドが嫌なわけじゃなくて『僕の』ベッドだと何か不都合があるんだね?」

「そ……それは……」

「もしかして僕の匂いで寝付けないの?」

「!!」


 ぎくりとした瞬に忍が意地の悪い笑みを向ける。

「困ったな。君を布団もなしに寝かせるわけにはいかないから僕の布団を使ってもらうしかないのに」


妖艶なその笑みに瞬が固まる。



「そういう目的では飼われたくないって君が言っておいてこんなふうになっているようではこの先思いやられるね。僕は手は出さないって言った以上約束は守るから、これは自分で処理するんだよ」


 ピンっと指先で膨らんでいる股間を弾く。びくっとした瞬を自室へ放り込み、ソファでやれやれと読書灯を付けた。彼が好むのは意外にもビジネス書などではなく、美術史だ。ルネサンス期の作品の挿絵とともに解説の書かれた文庫本を捲りながら寝る前のひと時を楽しみつつ、この妙な一日への想いを巡らせたのだった。

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