(三)
(三)
砂溜まりのなかでうごめくものがあった。二匹の黒い蛇が縄のようにたがいの体で結び目をつくりながら、交尾している。
蛇は精力旺盛な獣で、一度交尾をはじめると何日間も離れることがない。どれほど長い間そうしているのかと、砂の入り混じった絨毯の上に横たわりながら、ナサカは天幕の片隅で繰り広げられる光景を眺めていた。毒蛇でないかぎり、メロエの人間は蛇を追い払わない。霊的な存在であると考えているからで、外敵に襲われないここでつがうことを考えた蛇は賢い生き物だとも思った。
「舌を噛まぬように」
その声とともに、ナサカの喉の傷口に粉状のものが振りかけられた。
皺の寄った手が少量の灰をはたくと、喉の表面で熱が破裂した。絨毯の裾を指先で掴み、歯を食いしばって、衝撃をこらえた。
「ここのところ糸が買えなくてな。しばらく喋れないが、聖女王の祝福を持つお前であれば間もなく治癒するであろう」
火打ち石を使わずとも、呪術師は指先だけで火を熾すことができる。ナサカはか細く息を繋ぎながらうなずくと、痛みをこらえて声を発した。
「私の手足は……」
「喋るなと言っているだろう。義肢の修復には数週間かかる。せっかくの賜り物を派手に壊しよって、この恩知らずめ」
腰の曲がった老婆は厳しい視線をむけた。自慢の義肢は右脚が大きくひび割れ、左脚に至っては部位が欠損している。左腕はそもそも無く、自由に動かせるのは右腕だけという体たらくだった。
そのとき、天幕の裾を割って他の呪術師が姿を現した。彼女に手渡された什器を受け取り、老婆が取り出したのは獣とおぼしき骨だ。
「まだ物は食えんだろうから、この髄を舐めなさい。飢えとともに生きてきたメロエの知恵だ」
砕いた小さな骨を右手で受け取り、その断面を口に含む。
老婆は床に置いた鉢を膝に置き、低い声で歌いながら石黄をすり潰しはじめた。綿糸の代用品だ。これで木皮あるいは獣皮に呪紋を描いて義肢を包めば、欠損した部位を補うことができる。呪術師は刺繍を施すときも歌う――呪詛の念をこめやすいとの話だ。フォロガングのように物質を介さずに歌だけで呪術を施せるものはとても少なく、白い女のなかでも貴重と聞いた。
その歌に耳を傾けながら、天幕の裏側にぐるりと視線をめぐらせる。黄ばんだ布には、色褪せた綿糸でびっしりと刺繍が施されていた。外敵から身を隠すための術で、長い間、一帯の呪術師で継承されてきたものなのだろう。天幕の外には夜の静寂が広がり、はるか彼方から、時折ハイエナのあの奇妙な鳴き声が響くのみだ。
「おや」
老婆の歌が止まった。
「こいつ、食っちまうつもりだ」
見れば、まじわっていたはずの蛇の雌が雄に噛みついたところだった。つがった相手を丸呑みにする蛇を、ナサカは黙って眺めた。
厄災の日から数年が過ぎ、ナサカは十代の終わりに差しかかろうとしていた。
エグジアブヘルは混迷の時代を迎えていた。メロエ人の厄災によって土地は悉く荒廃し、人口は激減。伝染病がようやく下火になる頃、残されたわずかな数のナパタ人が団結し、各地で蜂起した。しかしナパタ人とメロエ人は、身体装飾や肉体のわずかな特徴――――背丈や首の長さ――でしか見分ける手段がなく、父系譜や
数で圧倒的に劣るメロエ人が優位を手にしたのは、その混乱を逆手に取ったこと――類い希なる呪術の異能を持った聖女王の力が大きい。一年ほど前からナサカはエベデメレクの隊を完全に離れ、数週間、あるいは数ヶ月おきにメロエ人経由で渡される勅令にしたがって任務をこなすようになっていた。勅令はすべて聖女王から直々にくだされ、ナパタ人の共同体に奇襲をかけて殺害を要請するものであることが多い。聖女王の義肢を持つ彼女は誰よりも肉体的に強靱で、大多数の戦士を相手にしても常に生き残った。一方で単独で行動する彼女は蛇の尾のようなもので、いつ捕虜や裏切り者になってもいいように、与えられる情報は限定的で、連続性に欠けていた。自分が「何を」しているのか知らされることがなかった。
このときは砂漠の岩山に潜伏していたナパタの戦士集団を殲滅する任を負い、無事に遂行したものの、義肢を破壊された末に喉を貫かれた。かろうじて太い血管は避けたので深手には至らなかったが、瀕死の状態で近くにある呪術師の集落にまでたどり着いたのだった。
(しかし数週間もかかるとは……)
綿糸があればあるいはもう少し早かったのだろうが、このあたりは聖殿からも遠く、周囲は岩山と砂漠のみの曠野が広がるため供給源がないのだ。ため息をこらえて、ナサカは目を閉じた。
そのまま昏々と眠り、目を覚ます頃には夜が明けていた。天幕に老婆の姿はない。両手足に呪紋を描いた木皮が巻かれているのを確認してから、右手で喉に触れた。傷口は塞がっていたが、まだ痛みが残っている。
「誰だ」
ナサカは天幕の外に声をかけた。すると裾が持ち上げられ、顔を覗かせたのは六、七歳くらいの幼い娘だ。
娘は腕を伸ばし、持っていた什器をそっと離れた場所に置く。そそくさと去ろうとするので、「起き上がれないので取りに行けない」と指摘すると、娘は諦めたように天幕の中に入った。
「おばあちゃんが持っていきなさいって」
素焼きの器のなかにはすりつぶした薬草と一緒に匙が入っている。
「あのご老人の孫か。何をおびえているんだ。呪術師の孫なら、怪我人なんていくらでも見たことがあるだろうに」
「怖い女の人だと思ったの」
その言葉に、ナサカは「そうか」とうなずく。
「お前は害さんよ。それに、この体では無理だ」
娘ははにかんだ。匙ですくった薬を差し出されたので、ナサカはそれを口に含んだ。自分の真横で胡座をかいた娘は、祖母が看病する怪我人が悪者でないとわかって――それも、ナサカが屈強な男ではなく、若い女であったのも手伝っているだろう――すっかり警戒を解いてしまっている。
「お前、前歯が足りないな」
「あのね、乳歯が抜けたの。おばあちゃんにちゃんと取っておきなさいって言われてたんだけど、私、気がつかずに飲み込んじゃった」
「せっかちな娘だな」
娘は不服そうに唇をとがらせる。違うと主張したかったようだが、天幕の外から自分を呼ぶ声が聞こえるのに気付くと、什器と匙を回収するのも忘れ、慌てて飛び出してしまった。その様子を見て、ナサカは思わず笑みをこぼした。
昼時に老婆がやってきた。朝方に来た娘の話をすると、「タイトゥのことだね」とうなずいた。
「孫娘だよ。呪術師の跡継ぎが必要だから、死んだ娘の子を引き取ったんだ」
「内気そうだがかわいい子だ。呪術師に向いているとは思えん」
「さてね。難しいなら集落に帰して、また別の子をもらうだけだ」
両手足に巻いた木皮の様子を確認して、老婆は「まあ、気長に待つことだ」と言った。
呪術師の集落は、人里に離れて置かれることが多い。ナサカがたどり着いた集落も例には漏れず、タイトゥは大人の足で三日かかる場所からやってきたそうだ。厄災によって副王領府を頂点とする土地制度が破壊された結果、最近ではメロエ人を主体とする新しい集落ができつつあるとも聞くが、ここは歴史が古い。辺境にあることも手伝って、奴隷狩りから運良く逃れてきたのだろう。
一週間が経過する頃になっても、ナサカはまだ立つことさえできなかった。寝たきりではできることも少ない。聖女王からの伝令が届く気配もなかったので、久方ぶりに退屈を持て余すことになった。
寝て過ごすことに飽き、天幕を眺めながら物思いにふけることにも
エグジアブヘルの民族は、文字を持たない代わりに、口伝で歴史・神話・さまざまな寓話を語り継いだ。手段のひとつに歌があり、メロエ人とナパタ人のどちらに生まれつこうとも、誰もが歌とともに育ち、歌を愛する。ナサカも例外でなかった。
特にメロエ人の歌は呪術とも密接なぶん、ナパタ人と比較して音階が多岐に渡り、喉笛をはじめとした様々な歌法が使われる。これを機にメロエの歌を覚えるのも悪くないと思い、老婆の歌を盗み聞き、時に教えを乞うてはその真似をした。
どうせならフォロガングに教えてもらえばよかったと思わなくもなかった。そうすることで遠く過ぎ去り、取り返しようのない日々を噛みしめた。
ある日の昼、ナサカが喉笛を鳴らしていると、天幕の外に人影が見えた。声をかけると、顔を覗かせたのはタイトゥだ。
「楽しそうに歌ってるから、見に来ただけ」
内気な娘はしどろもどろに喋った。集落に暮らす呪術師は年を食った女ばかりという話だ。自分のような若い女が滞在するのは珍しいと聞かされていたので、ナサカは彼女を天幕の内側へと招き入れた。
それから、タイトゥはしばしばナサカのもとを訪ねるようになった。祖母の手伝いのこともあれば、用件もなしにやってくることもある。
「おばあちゃんはあまり寝物語を話してくれないの」
ある夜にはそんなことを言ってきたので、なし崩し的に彼女を寝かしつけることになってしまった。
砂地に敷いた絨毯の上に並んで横たわると、ナサカは何を話そうかと思案した。ナパタの神話を話すわけにはいかない。メロエ人の神話には詳しくないし、それくらいは祖母が語って聞かせるだろう。
メコネンが寝物語が好きな女だったので、話の種はいくらでもあった。
「土器職人の話は?」
「聞いたことない」
「ある集落に住む土器職人の話だ。彼の作る土器は美しいだけでなく、清流の水を注いで覗くと自分の未来を知ることができ、飲めばどんな病でも治った。その噂を聞きつけた各地の権力者が、彼の土器を欲しがったが、数年にひとつしか作らなかった。土器職人は秘密主義で、弟子がひとりいたが、その弟子にさえ作り方を教えない。ある日、彼が事故で死んでしまい……弟子は教えを乞うため、死者の町まで彼を探しに行くことにする」
「死者の町?」
「死んだ人は、死んだあともしばらくはこの世に住んでいるんだ」
ふうん、とタイトゥはうなずいた。「私のおかあさんも?」その言葉に、そういえばこの娘の母親は死んでいたのだったな、と思い出す。
「いつ死んだ」
「私を産んですぐに死んじゃった」
「ずいぶん前だ。それなら、もうこの世にはいないだろうな」
タイトゥが不安げな顔をしたので、ナサカは物語るのをやめて、「私の母も、同じように私を産んですぐに死んでしまった」と囁いた。
「私はひどい娘で、生まれてはすぐに死ぬのを何度も繰り返して、ついには自分の母親を殺してしまったんだよ」
右腕を伸ばして間近にあった黒い縮れ毛に触れ、指先で
ナサカが怪我の治療のために集落を訪れてから半月、タイトゥの訪問がぱったりと途絶えた。
食事を運んできた老婆にそのことを問えば、集落に帰した、と言われる。
「呪術師に向いてなかったのか」
「違う。あの子も割礼を受けなければいけない年頃だ。ここでは必要なものを揃えられないから、いったん集落に帰して、むこうで受けさせる約束をしていたんだ」
ああ、とナサカはうなずいた。
タイトゥと同じくらいのときに、自分も割礼を受けたものだった。あんなにかわいらしい娘にも、女としての宿命が降りかかることの残酷さを思い――息もつけなくなる。せめて傷が悪化しないように、母親のいないあの娘の看病を誰かがしてくれることを、遠くから祈ることしかできなかった。
以降は静かな日々が続いた。
ナサカはひとりで歌って暮らした。日中はそうして穏やかに過ぎていったが、夜はいつも不安に取り憑かれる。昔のように不安と恐怖、同族を手にかける罪悪感から夜ごと嘔吐を繰り返すことはなくなったが、毎晩、夜闇のなかから、人のささめきが聞こえてくるのだ。この数年間に渡って、一晩と欠かすことなく。
それは、老若男女の声でつむがれる
呪詛はナサカの肉体に忍びこんでは、はらわたを歯で食いちぎり爪でむしりとり、痛みを逃すためもだえ打とうとする四肢を金縛りで封じ込める。しかし体の中心で熱の生まれる感覚がすると、その炎は血潮に乗って全身を循環し、自分の命を奪わんとするあらゆる憎悪を跡形もなく焼き尽くした。それはナサカの生への渇望が喚起する、悪霊の力だった。
夜ごとそれを繰り返し、痛みが消えるまでは一睡もできない。明け方になってようやくまどろむ程度。時には、引き切らない悪霊の熱を持てあました――無性に他人の熱が恋しくなるのだ。衝動を収められないと、罪深いと知りつつも切除痕をなぞり、特定の男に抱かれる夢想をした。あれほどの屈辱を経験してきたはずなのに、それでもなお欲望が自分のなかに存在することが、厭でたまらなかった。生命への欲求が強すぎるためか、そもそも人のからだがそういう作りになっているのか、知るすべはない。
呪術師の集落でさらに半月を過ごし、ナサカはようやく両足で歩ける程度に回復した。その頃、ひとりの戦士が村を訪ねた。彼は聖女王からの勅令を携えていた。
次の目的地と任務内容を伝え、戦士は去っていった。ナサカの行動は早く、世話になった老婆には明朝出立すると伝え、綿糸の足しにしろと僅かばかりの宝貝を渡した。
――タイトゥが戻ったと知らされたのは、その日の夜のことだった。
最低限の装備を揃え、砂除けの外套をまとう。両手足の動作を確認して、ナサカは天幕の外に出た。夜明け頃のことで、曙光が荒れ地の空を淡紫色に染めていた。空気は澄み渡り、ひんやりと冷たい風が黒い肌を撫でていった。
鶏が小屋のなかで餌をついばんでいる。雌鶏から卵をひとつ失敬しようと腕を伸ばしたところで、近くの柵に見慣れた娘がいることに気付いた。
「タイトゥ」
彼女は柵を越え、一頭の駱駝の前に立っていた。
まだ若い、子どもの駱駝が地面に伏している。その行動自体はとりたてて不自然なものではないが、前足の片方が曲がっていた。
「足が折れたのか」
「そう。生まれてすぐ、おかあさんがお乳を飲ませなくなって。私が面倒をみていたの。でも、他の駱駝と喧嘩しちゃって……」
タイトゥは不安そうにナサカを見上げ、「殺さなきゃなんだって」と囁いた。
「足の折れた駱駝がまた立てるようになるのは難しい。その前に衰弱死するか、傷がもとになって足が腐ってしまうから。苦しまないうちに殺してやらないといけない」
ナサカは山刀を差し出した。
「大事にしていた駱駝なら、お前が殺してやればいい。父親が山羊か何かを殺すのを見たことはないか」
「女の人は獣を屠っちゃいけないよ」
「ここは女だけの集落だ。お前もここで暮らすなら、いつかはやらなければ」
タイトゥはかぶりを振った。震える両肩を見下ろし、ナサカは目を伏せた。わずかに笑い、地に顎をつけた駱駝の前で膝をつく。
「よく見ているんだ。次はひとりでうまくできるように」
怯える駱駝の顎を掴んで、その喉に刃の先端を押し込んだ。数回に分けて切り込みを入れると、間歇泉のように血が噴出する。
家畜の巨体が痙攣する。やがて息絶えるまで黙って見守ってから、ナサカは背後を振り返った。幼い娘はうつむいたまま、砂の上を流れる血の河を眺めていた。
山刀を脇に置く。
ナサカはタイトゥの体を両腕ですくい上げると、その場を立った。口ごもる娘の顔を覗き込む。黒い睫の先端についた透明な滴がまばたきに散り、夜空のように青い膚の上をつたい落ちてゆく。しかし幼子のようにしゃくり上げはしなかった。
もうこの
抱え上げた腕はタイトゥの体重をしっかりと感じていたが、ナサカにはあまりに軽く、がんぜなく感じられてしかたがなかった。どこもかしもも痩せ細って骨張り、四肢は緊張にこわばっている。こんなに弱い娘が、割礼のあの痛みをやり過ごさなければいけなかったのかと思うと、ふいに胸の潰れるような痛みを覚えた。
息が詰まる。呼吸ができない。ナサカはタイトゥの閉ざされた瞼のむこうに、
この先、この娘が女として生きるがために経験する、あらゆる痛みや悲しみが――わずかにでもやわらぐように、すこしでも減るように。
すこしでもはやく、切除の傷が硬くなり痛まなくなるように。夫となるべき男から縄で縛られ暴力的に奪われることがないように。不特定多数の男たちに陵辱されることがないように。お産がすこしでも軽くなるように。健康な男児に恵まれるように。赤子が何度も死ぬことがないように。道端で同族の女に「お前は本当の苦しみを知らない」と言われて頬をぶたれることがないように。女として足りないと陰口を叩かれる一方で、欲望にまなざされることがないように。つらいことを分かち合うための居場所があり、誰かと繋がっていられるように。
「お前が、わたしたちのように誰かを憎み、害することがないように」
「わたしたち?」
タイトゥの言葉にナサカは「間違えた」と答えた。
「私はナパタの
ふうん、とタイトゥはうなずいた。
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