58.風邪
「くしゅっ!」
早朝の英梨花の部屋に、彼女のくしゃみが響く。
英梨花の頬は熱で上気し、呼吸も荒く、額に汗。典型的な風邪の初期症状だった。
枕元にいる美桜は、体温計を見て困った様に眉を寄せる。
「38度1分。うーん、昨夜より少し上がってるね」
その言葉を聞いた翔太も、渋い顔で呟く。
「ちゃんと解熱剤飲んだのにな……大丈夫か、英梨花? やっぱり病院に行くか?」
「ん、平気。寝てれば多分治る」
「でもなぁ」
そうやら英梨花は昨日の雨で風邪をひいてしまったらしい。
苦しそうに答える妹に、くしゃりと顔を歪める翔太。
思えばかつて住んでいたとはいえ、新しい環境になったのも事実。その生活にも高校にも慣れなきゃだし、色々疲れも溜まっていたのだろう。
「まぁまぁしょーちゃん、ただの風邪だよ。病院行くにもタクシー呼ばなきゃだし、とりあえず今日は一日安静にしてもらって、様子見ようよ」
「みーちゃんの言う通り。今日は寝ておくから、兄さんたちは学校行って来て」
「うーん、英梨花もそういうなら」
「そうそう、ここに居たらあたしたちも風邪うつっちゃうかもだし、えりちゃんも寝られないだろうし、ね?」
「おい、美桜……っ!」
「えりちゃん、お薬やタオルはそこに置いておくから。食欲あったらキッチンのおかゆ、暖めてね」
「英梨花、何かあったらメッセージくれよ」
「んっ」
翔太は美桜に背を押され、不承不承といった様子で家を出るのだった。
◇
今朝の空は雨のおかげで大気の不純物を洗い流されたのか、透き通るように青く澄み渡っており、太陽も夏を先取りするかのように力強く輝いている。
しかし翔太はそれらと対照的に、表情を曇らせており、時折家の方を振り返ってはため息を吐く。
美桜はそんな翔太を見て、くすくすと可笑しそうに笑う。
「しょーちゃん、ただの風邪だし大丈夫だよ。うちの兄貴も、しょーちゃんくらい心配してくれればいいのになー」
「それは……」
「あたしたちが変に大騒ぎすると、逆にえりちゃんが変に気を遣っちゃうしね」
「うっ、それもそうか……」
確かに美桜の言う通りだった。
ぐぅの音も出ない翔太。
「ったく、しょーちゃん相変わらずシスコンなんだから」
「え、シスコン? 俺が?」
「違うの? 今も昔もえりちゃんとべったりだし」
「それは恵梨香が」
「まぁアレだけ可愛い子に懐かれたら、わからなくもないけどね」
冗談交じりにそんなことを言いながら、からからと笑う美桜。
確かにこの年頃の兄妹なら、風邪1つで大騒ぎするほどのものではないだろう。
しかしなおも顔を訝し気に歪める翔太を、美桜は微笑ましそうに目を細め、ポンと背中を叩く。
「ま、えりちゃんも家で1人だと心細いかもだからね。今日はできるだけ早く帰ろ?」
「……おぅ」
翔太はなんとも曖昧に返事をした。
◇
授業は、ずっと上の空だった。
やはり、どうしても英梨花のことが気になってしまう。
過剰に気に掛けている自覚はあった。それこそ、シスコンと言われてしまうほどに。
理由も分かっている。
熱で苦しそうにしている顔が、かつて髪や容姿のことでいじめられ、泣きついてきた
だけど、今と昔は違う。英梨花も随分と大きくなった。色々翻弄されることも多い。
それでもやはり、翔太にとって英梨花は守るべき妹なのだ。
苦しそうにしているなら、悩んだりしているなら、兄として何とかしてあげたくなるもの。そのことを再確認させられた形だ。
こういう時、一体どうするのが正解なのだろう?
そんなことをずっと考えていたからだろうか。
その事故は起こるべくして起こった。
「随分とファインプレーだったな、翔太。バスケのパスを顔で受け止めるとか」
「うるせーよ、和真」
「まぁでも、大したことなくてよかったよ。鼻血も止まったみたいだし」
「……おかげさまでな」
体育の授業中、不注意から怪我をした翔太は、和真に連れられて保健室の世話になっていた。
幸いにして大したことはなく、養護教諭も処置をした後、席を外している。
養護教諭の代わりに経過観察のため残った和真は、揶揄うように言う。
「今日はほんとボ~ってしてるよな。それだけ妹ちゃんのことが気になるのか?」
「それは別に…………悪いかよ」
「過保護だね~、まぁアレだけ可愛いとわからなくもないけど」
「美桜と同じこと言うのな」
「あっはっは、翔太はそれだけ分かりやすいからな」
うぐっ、と呻き声を上げる翔太。
どうやら英梨花を気に掛けているのは、一目瞭然らしい。
そしてやはり、この年頃の兄妹としての関係としては奇異に映るようだ。
「……変か?」
「いんや、全然」
「へ? 和真……?」
翔太が恐る恐る訊ねれば、和真はやけにはっきりとそう答えられ、思わず呆気に取られる翔太。
和真は苦笑しつつ窓の外へと視線を移しながら、少し気恥ずかしそうに言う。
「受験間際に風邪をひいた時さ、ねーちゃんがわざわざちょっとお高い桃のゼリーを買ってきてくれて『さっさと治せ』って言ってくれたんだよ。それ、結構嬉しかった」
「そっか」
「もしうちのねーちゃんが風邪をひいたとしても、オレもなんだかんだ同じことすると思う。翔太の場合、これまで離れてたんだろう? なら、余計に気にもなるだろう。あと美人だしな」
「一言余計だってーの」
「ははっ。で、美人は否定しないんだ?」
「うっせ!」
親友に自分の気持ちを肯定され、心が軽くなるのを感じる。
どうせこのまま学校に居ても、授業に身は入らないだろう。
よし、っと勢いよく立ち上がった翔太は、和真に伝言を頼む。
「やっぱ俺、帰るわ。和真、あとは任せていいか?」
「おぅ、今度昼メシ奢れ」
「学食の素うどんな」
「ははっ、ケチ」
※※※※※※
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