X集落の橋 ~唯香side~
音織かなで
第1話 事件発生
駆け付けた先のビジネスホテルでは、部屋のドアノブを握りしめた佳奈美が、
なんとかドアを閉めようとしているのに対して男が力づくで開けようとしている
ところだった。
「だ、誰か……この人……!」
佳奈美も必死で助けを呼ぼうと声を上げてはいるのだが、ドアノブから少しでも
力を抜けば男の侵入を許してしまうため、思い切り声を張り上げることが出来ない。
――間に合った!
佳奈美が生きているのを確認できた私は、すぐに同行者たちにお願いして男の
身柄を取り押さえてもらう。
――これで本当に終わった。
何度も諦めようとした世界がようやく手に入った。
私は安堵のあまり、ぺたりとその場に座り込んでしまった。
何度も何度も間違えてはやり直し、ようやく辿り着いた結末。
連れられていく男の後姿を感慨深く見守りながら、私はここに至るまでの長い
道のりを静かに回想する。
始まりは、今日と同じ抜けるような青空が印象的な暑い夏の日だった。
※
神妙な面持ちの女性アナウンサーが、寮の建物をバックに事件のあらましを
落ち着いた口調で伝えていく。
「本日午前11時30分ごろ、この寮に住んでいた◇大学1年生の……佳奈美さんが、
男に刃物のようなもので胸を刺されて亡くなりました。加害者の男は、狐の面を
付けており、現場から逃走しましたが、警察により殺人の容疑で逮捕されました……」
テレビの画面越しに見ると、いつも目にしている寮の建物も大学の構内も、
なんだか違う景色のように見える。画面越しに見る「事件に関連する景色」は
暗さを孕んだ特別なものへと造り上げられ、 画面の左端に付けられた「夏休み
真っ只中の悲劇! 女子大生が刺される!」という視聴者を煽るキャプションが
一層景色を非日常のものへと変えている。
見て居られなくて俯いている私の横で一緒にテレビを見ていた母親は、被害者
が通っていた大学が私と一緒であることが分かってから、目を丸くしてこの事件
の報道に見入っている。
「ねえ、これ、唯香の通っている大学じゃない? あら、まあ、こんな可愛い子
が、殺されるなんて……可哀想にねえ。ちょっと、よく見たら、この殺された子、
唯香と一緒の学年じゃない! 知っている子?」
流れるように母親から繰り出される質問は、すべて好奇心によるもの。あくまで
他人事だから出るものだ。私は母の質問には答えず、「荷物の整理をしてくる」と
だけ言って、自室へと向かった。
まだ大学に入学したばかりの若い女性に起こった悲劇ということや、偶々注目
されている学生アスリートも同じ寮に住んでいることから、学内の寮周辺をバック
にしてこの事件の報道は過熱を極めた。
テレビ画面には、まだ帰省していない寮生たちが登場してはインタビューに答えたり、先生方もハンカチを顔に当てながらコメントをしている。寮生の中には人目も憚らず大声で泣き崩れている学生の姿もあった。
――それから10年。
愛理は、5歳上の私の兄と結婚した。
努力家で心優しい兄は、友人を亡くし心を閉ざしていた愛理にも寄り添い、愛理も心から兄を信頼しており、双方の実家ともに二人の結婚を心から祝った。新婦の愛理は兄と出会う前から私とは同じ大学出身で仲も良かったため、結婚後もそれまで通り特に仲がこじれることもなく上手くやっていた。
……と、私は本心からそう思っていた。
だが結局、本当の意味で、愛理は佳奈美への罪悪感から逃れることは出来なかった――結婚から1年後、私たち家族はそれを思い知らされることになった。
愛理が自ら命を絶ってしまったのだ。
遺された遺書には、『私だけが幸せになってしまったら、佳奈美に申し訳がたたない』。その一言だけが書かれていた。
愛理が亡くなった後、兄はすっかり変わってしまった。
人との付き合いも、あれほど夢中になっていた仕事にも興味を無くし、ただ愛理の写真を飾った仏壇の前に座っていた。抜け殻のようになった兄は、次第に仕事も休みがちになり、酒量だけが増え、生きること自体に興味がなくなってしまった。始めは同情してくれた会社側も、今では持て余しているようだ。
そんな毎日毎日ただ仏壇の前に座っている兄の存在に、両親も心を痛め、手を尽くして回復させようとしているが、今ではもう疲れ切って、実家までもが暗い雰囲気に包まれている。
もちろん私だって平気な訳がない。
友人であり義姉でもある存在が自ら死を選んだのだ。
結果として穏やかな兄も、居心地の良い実家も無くしたのだから、日常生活でも
ふとした折に前触れもなく
それでも私が酒に逃げることも、ネガティブな気持ちに沈んで日常を壊すことも
なかったのは、ひとえに「こんな現実は認めない」という強い意思のお陰だった。
私も愛理同様、現実が「露悪的で趣味の悪い脚本」でしかなく、到底受け入れる
ことは出来ないと、心の底から思ったのだ。
ただ私は愛理のように死を選ぶことでこの世界に見切りをつけることはせず、
別の方法を選んだ。不完全な世界のために自分を犠牲にするなんて馬鹿らしいと
思ったからだ。
私たちは、この神も仏もない不完全な世界に生まれ、生きることを強制されて
いる。それならこの世界に責任を取ってもらおう――そう思った。
それは現実逃避だと言われれば、紛れもなくそうだ。
でもそうでもしなければ、どう取り繕おうと、この現実は無意味な時間を浪費するだけの牢獄に成り下がってしまう。
そんなのは絶対に嫌だ。認めない。受け入れられない。
だから私はそのための方法を探すことにした。
もはや使命のように、私はそれに全身全霊をかけることで、この世界に見切りを
つける方法を選んだのだ。
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