十六夜目 呼ばれる
「生前に墓を建てると建てた人が呼ばれるんだよ」
この話は私が幼いときからずっと聞かされてきた話だ。
今回、この話をするにあたって、本当にそんな話があるのか調べてみて驚愕した。
言われていることが逆なのだ。
生前にお墓を建てることを『生前墓』と言うのだが、これは別名『寿陵』と呼ばれており、中国が起源とされている。中国統一を果たした秦の始皇帝も、この『寿陵』を建てている。
仏教では『逆修』とされるこの行為は、生前に自分の冥福を祈る行為であり、功徳がもたらされると考えられている。
こういったことからも、生きているうちから墓を建てることは決して悪いことではなく、むしろ縁起がいいものである。
では、どうして私は幼いときから生前墓の考えとは真逆のことを教え込まれていたのか。
日本で『墓』に対して悪いイメージを抱きやすい。それは墓地、墓場という場所に暗い、怖いものであるという印象を持っているからだろう。
私自身、墓参りに行くたびにうすら寒さを感じたものだ。
午前の明るい時分である。にもかかわらず、鬱蒼とした木々に囲まれ、墓地全体はくらっぼったく、じめっと湿気を帯びた空気が整然と並ぶ冷たい墓石の間にどんよりと淀んでいる気がしてならなかった。
加えて葬儀や法事となれば、皆一様の黒い衣装。子供心に恐怖を抱かないでいられるものだろうか。
だから私は墓参りに行っても、両親たちのあとをついて、お墓をきれいにしたり、手を合わせたりすることをすごく嫌がった。お寺に併設された保育園や公園の遊具で遊んで、大人たちが戻って来るのを待っていることのほうが多かった。
こんなふうに極度に墓参りを怖がったのも、教えられていたことが起因していたのではないか。
それを私に教えたのは祖母である。彼女は若くして夫が亡くなったのは、生前に墓を建てたからだと思っていたからだ。
町の開業医として慕われていたという祖父は、病院を移転、大規模にすべく土地を購入した。休みなく働いたのは、借金を返済するためだったという。その無理が祟ったのか、祖父は脳溢血で、母が十七歳のころに亡くなっている。借金はすでに返済を済ませ、さあ、これからだ――というころの話だ。
本当に突然のことだった。
あんなに元気だったのに、なぜ亡くなったのか。
医者の不養生とはよくいうが、まさかという思いでいっぱいだったのだそうだ。
その死が、墓を建てて幾ばくもしないころだというのだから、祖母にしろ、母にしろ、墓が主を求めて祖父の魂を呼んだと考えるのも不思議なことではない。
ただ、大人になって振り返ると、あの教えは祖母の祖父を失くしたやりきれなさやわりきれなさが込められたものであり、そういう心情を素直に出せないほど、気丈に振舞わねばならなかったために作られ、語られたものだったのではないか――そんなふうに思えてならないのである。
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