十二夜目 水たまり

 今年の六月の初旬のことだ。

 仕事中、なにか妙な臭いがした。

 嗅いだことがあるし、嫌いな臭いではない。

 それと同時に、肘のあたりがやけに水っぽく、濡れている感覚があった。


 フッと見てみると、机に乗せた私の左肘の下に直径十センチほどの水たまりができていた。

 水のようにサラサラしたものではなく、少し粘っている。腕を数センチ持ち上げると、肘にべっとりとくっついてくる。


 独特の香りが鼻腔を刺激する。

 手拭きのタオルで濡れた部分を拭き、鼻を近づける。

 ハッと息を飲んだ。


 よだれの臭いだった。


 急いで自分の口元に触れる。

 しかし濡れていない。

 視線を下げる。

 服も濡れた形跡はない。

 ぽかんと口を開けて、知らないうちにダラダラとよだれを流そうものなら、口の周り、特に顎のあたりが濡れるはずである。それに加えて首元も濡れるはずだろう。

 机に突っ伏して居眠りしているなら、水たまりができるほどよだれを垂らすというのも頷ける。

 姿勢の問題ならば顎に手を添えていたことは事実である。仮に腕を伝っていくなら、よだれの垂れた筋道ができるはず。左手首にした息子の初任給のプレゼントである数珠が濡れていてもおかしくない。


 だが、どうにも腑に落ちない。


 机に突っ伏すどころか、まっすぐにパソコンを凝視していた。

 席に着いてからは一度も立っていない。

 朝来たときにも机上にそのような水たまりはなかった。


 突然降ってわいた水たまりをタオルで拭いた。

 もう一度鼻を近づけて確認する。

 やはり、どう考えてもよだれ。

 それもひなが来たときの臭いとまったく同じもの。


 彼女が来たのだろうか。

 このころ、私は非常に大きなストレスに悩まされていた。それを心配して現れたのだろうか。

 それとも、これはこのころ連続して起こっていた怪異のひとつだったのか。

 不思議に思いはすれど、怖さは特にない。そのまま仕事を続け、しばらくしてからもう一度臭いを確認して、再び息を飲んだ。


 まったく臭いがしなかった。


 腕も、タオルも確認したが、どちらからもあの、独特の臭いは消えていた。

 タオルも完全に乾いていて、ふき取った形跡は完全に消えている。

 まるで最初からそんなものはなかったみたいに、痕跡が消え失せてしまったのである。


 これも一度きりのことで、今日に至るまで同じ現象に出くわしたことはない。


 奇妙な水たまりの正体は未だにわからない。

 一見すると気味の悪い現象ではある。

 だが、『根を詰めすぎないで』といたらない主人の心身を慮ったひなからのメッセージだったのではないかと、私は前向きにとらえるようにしている。

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