十夜目 くつあと

 息子が小学四年生のときのこと。

 離婚したばかりの私は、娘を保育園に預け、息子には家で留守番をして仕事に出掛けていた。


 本当は学童保育や一時預かり施設に頼みたかったのだが、学童保育は定員いっぱいで申し込みできず、また民間の預かり施設は高額で、長期の休みとなれば別料金も取られる。生活で手いっぱいなのに、とても無理な話だった。


 ならば祖父母にでも頼めればと思っても、実家は認知症の祖母の介護で飽和状態。ときどき頼むも、いい顔はされない。前夫に頼み込んで、彼の実家にお願いもしたが、それだってまるまるひと月お願いできるわけもない。


 そういった具合で、やむなく息子をひとり、家に置いておくことになってしまった。息子も心細かったとは思うが、飼い犬のひなもいるからと、泣く泣く承知してくれた。


 そんなある日のことだった。

 仕事中に私の携帯電話が突如として鳴った。

 息子からだった。

 急いで出ると、電話の向こうで息子が泣いているのである。

「どうしたの?」と問うと、息子はわあっとさらに声を上げた。落ち着くように声を掛け、なにがあったか話すように促す。

 息子はしゃくりあげながら「誰かが覗いてた」と言った。


「男の人みたい。部屋の中を覗いてた」


 息子の部屋は北側の共用の廊下に面しているのが、自分の部屋で遊んでいたところ、誰かがすりガラスの窓からじっと中を伺っていたらしい。大きな黒い影が立っているのを見た彼は、その脇のカーテンに隠れ、じっと声を殺していなくなるのを待ったらしい。

 ただ影はなくなっても、どうにも不安が募り、急いで私に電話を掛けたのだと息子は言った。


「ママ、いつ帰って来るの?」


 震える息子の声。私は「まだ帰れない」と答えた。


「警察に電話するから。いい? ひなと一緒にいるんだよ。ピンポンって鳴っても出ちゃダメだからね」


 そう言い含めて、急いで警察へ通報した。

 警察はすぐに向かってくれた。

 折り返しにかかってきた電話は「誰もいませんでした」というものだった。


「子供がひとりなんです」

「パトロールを強化しますので、お母さんも落ち着いてください」


 私はくれぐれもよろしくお願いしますと、電話越しに警察官に頭を下げた。

 息子にこのことを伝えると、幾分安心したようだった。すぐにでも帰ってやるべきだったろうが、当時の私は仕事に穴を開けられないとか、休むと給料が減ってしまうとか、そういったことを優先させ、子供に我慢することを強要するような人間だった。


 今から考えるととんでもないのだが、結局、この日私は自分に課せられた仕事が終わるまで帰宅しなかった。帰れたのは午後六時も回ったころ。

 息子は私の帰宅でようやっと息ができたのか、怖かったと何度も訴えた。


 とはいえ、このときの私になにができたろう。

 仮に過去に戻れるのなら、翌日は休みをもらって息子の傍にいてやれと言うだろう。


 だが、当時の私はとにかくいっぱいいっぱいで、余裕がまるでなかった。子供たちの安心よりも、食うための金が優先。

 とにかく子供に安心して留守番してもらうために、私自身、もう一度家の周りを調べてみる。


 ゾッと首筋が寒くなった。

 あまりのことに、喉元で笛のような声が出た。


 くつあとが残っていた。

 男物の茶色いくつのあと。

 泥でもついていたのだろうか。

 両足揃った状態で、玄関前にハッキリと残っていた。

 帰って来たときは特に意識していなかったせいか、このくつあとに気づいていなかったのだが、これはいったい誰のものなのか。


 別れた夫ならば、なにも怖がらせるような真似をすることもない。息子に会うのに制限は設けていないのだ。隠れて会いに来る必要性もなかったからだ。


 ならば、これはなんだろう。

 気持ち悪さだけが残る。

 息子を誰かに預けたい、だけど――

 

 重々思い悩んだ末、私はそのままの生活を続けた。

 その後、同じようなことは起こらなかったのは運がよかっただけなのかもしれない。

 日中、家の外にいた人物は不審者ではなかったのか。

 なにか別のものだったのか。

 

 この話を思い出すたびに、息子には申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 もしもあのとき、私にもっと気持ちの余裕があったら。

 お金のことを顧みず、子供のことを優先に考えられたなら。

 果たして恐ろしいのは、本当に覗き見していた相手だったのか――

 

 今の私には、当時の自分こそが恐ろしい黒い影に思えてならない。

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