5-2
放課後、職員室に向かう小春の足取りは、いつもよりゆっくりだった。
職員室への呼び出しは嘘であって、途中のどこかで、絵里奈が声をかけてくるだろう。帰りのホームルームが終わったあと、小春は、帰宅したり、部活に向かったりする生徒たちがほとんどいなくなるのを待ってから、教室を出た。校舎に人が少ない時間のほうが、小春にとっても都合が良いからだ。
隣町高校は幕府時代の私塾から数えて百年を越える歴史を持つが、校舎は豊かな市の財政をもとにたびたび改築されている。今の建物は数年前に改築工事が終わったばかりで、まだ新しさがあった。
「菅原さん」
てっきり、声をかけてくるのは絵里奈だろうとしか思っていなかった小春は、別の生徒に呼び止められて少し驚いた。
「山村さん?」
職員室は校舎本館の一階にある。自分たちの教室があるのも同じく本館の三階だから、小春はわざと少し遠回りをし、美術室や音楽室、理科実験室などがある別館へ、三階で渡り廊下を使って移動していた。絵里奈なら小春の後をつけてくると思ったからだった。
用事がなければ足を運ばない別館で小春を呼び止めたということは、山村もまた小春を追ってきたわけだ。
小春が教室を出た時点で、山村はまだ残っていた由希斗の机に寄りかかり、彼に話しかけていた。そのとき、小春は一瞬だけ由希斗と目が合い、彼の心配そうな視線を受け取っている。
「どうしたの? わたしに用事かしら」
「菅原さんって、剣崎くんとどういう仲なの?」
小春の問いかけに被せるように、山村は早口に言った。彼女は、髪を緩く巻いてセットしているが、校則違反は犯さず黒髪のままで、制服にもきちんとアイロンをかけて皺がない。小春を見据える表情も嫌な含みはなく生真面目で、少し由希斗への執心が過ぎるように見えるほかは、この街の住人らしく素行の良い少女なのだ。
「どういう……。クラスメイトよ」
小春は少し迷って、ひとまず嘘ではない答えを口にし、山村の様子をうかがう。
由希斗は高校生に紛れ込むたび女子生徒に、ときどきは男子生徒にも好意を寄せられる。それでも、そこは彼の霊力のはたらきか、あるいは単に由希斗が欠片も興味を返さないから飽きられるのか、大きな問題になったことはない。小春は山村もそのうち落ち着くだろうと思っていたけれど、今回はその前に、由希斗と揃って欠席するという、耳目を集める出来事を起こしてしまった。
「本当? 嘘じゃない? 菅原さんは、本当に剣崎くんと関係がなくて、剣崎くんのこと、何とも思ってないの?」
「……」
そうよ、と嘘をつくのは、簡単だったはずだ。今までも、そういう嘘で誤魔化したことは何度でもある。
それなのに声を詰まらせてしまった。
真剣で、熱心に由希斗を想う山村の表情を前にして、小春に、ほんの少しの対抗心が芽生えたのだ。小春が自分のそのささやかな気持ちに気づいたのは、「やっぱり、何かあるんだ」という、山村の呟きを聞いてからだった。
「ずるいよ、菅原さん。何でもないふりをして、裏では実は、なんて」
「……そうね」
小春は、ふっと息をついた。
由希斗への想いを嘘で汚すよりも、今この瞬間だけ、素直になることを選んだ。
山村の記憶は、あとで消してしまえばいい。どうせ、これから会うはずの絵里奈にも、同じように術をかけることになるのだ。
「山村さんは、どうしてわたしの彼への気持ちに気づいたの?」
「菅原さんの気持ちに気がついたわけじゃないけど、剣崎くんにあんなに大事そうな目で見られてて、何もないなんて寂しいじゃん」
由希斗に好意を寄せているはずの山村がそう言うから、小春は意表を突かれて、思わず彼女をまじまじと見た。
「……わたしが彼を何とも思っていないほうが、あなたには都合がよかったのではないかしら」
「そうなんだけどさ……」
山村は、ふてくされた子どものように唇をへの字に曲げ、視線を斜めに落とす。
「剣崎くんが、私を好きになってくれたら嬉しいよ。でも、好きな人には、幸せでいてほしいじゃん。違う?」
「それは……わかるけれど……」
「私は剣崎くんが好き。剣崎くんに振り向いてもらいたい。ホントにそう思ってるよ。だけど同じくらい、剣崎くんの想いが報われたらなあ、っても思う。変かもしれないけど」
「……山村さんって、素敵なひとね」
それは小春の、心からの言葉だった。
「でもそれって、苦しくはないの?」
山村は、はあっと大きなため息をついて、その勢いを使うように言った。
「正直しんどい。けど、しんどいぶん、私ってホント剣崎くんが好きなんだって思う。好きな人の幸せを願うなんて、その人のこと、ホントの本当に好きじゃん」
山村の言葉に、小春は胸をきゅっとつかまれたような感じがした。彼女がなんだかとても愛おしくなる。想う気持ちはきっと小春と同じなのだろう。
それでも、由希斗については譲れない、と思ってしまい、小春は、自分の情動に意表を突かれた。
由希斗を幸せにしてくれる誰かが、彼のそばに居てほしい。
そう思ってきたのに、今、山村よりも自分のほうが彼を幸せにできる、と思った。それ以上に、由希斗を、ほかの誰でもない、自分が幸せにしてあげたいと、強い想いが小春を内側から激しく叩いている。鼓動に代わって、霊力が乱れる。
そんな小春の内心などつゆ知らず、山村は続けた。
「だから、もし菅原さんが、剣崎くんを何とも思ってないって言うなら、酷いって言うつもりだった。あんな目で見られてるのに、何ともないって、残酷すぎる」
「……わたしの場合は、彼を想っているからいいけれど、誰かにどれほど想われたからといって、必ずしも、その相手を想うとも限らないのではないかしら」
「そうだけど、それならそれで、きっぱり振るのがマナーだよ」
「告白、されていないのに?」
小春が少しだけ意地悪な気持ちになってそう言うと、山村は、思い当たるふしがある、というふうに気まずそうに目を逸らした。
「……あー、と……、それは……。うん……剣崎くんも、よくないよね……」
言いづらそうにする山村に、小春は、つい、小さな笑いをこぼしてしまった。くすくす笑いながら「そうよね」と言えば、山村も頬を緩める。
「告白って勇気がいるから、剣崎くんは、ちょっと意気地なしかな、とは思う」
「ふふ。……でもほんとうはね、わたしとユキは、そういうのじゃないのよ。何かと騒がれるから他人のふりをしているけれど、仲のいいお友だちみたいなものなの」
種明かしをすれば、山村はきょとんと鳩が豆鉄砲を食らったかのように目をまん丸にした。それから、なぜかキッとまなじりをつり上げ、小春に詰め寄ってくる。
「それはない」
「え?」
「剣崎くんの目、そういうのじゃないよ。菅原さん、確かめたほうがいいと思う」
「そういうの、って……」
小春は戸惑って首を傾げた。
由希斗の目。きらきらした桃色の、うれしそうに小春を見つめてくる瞳。小春はそれを、世界で一番綺麗で可愛いと思っている。
「お友だちじゃないよ。ねえ、剣崎くんのこと、ちゃんと見てあげてよ」
言い切る山村は、小春に由希斗との関係を問いただしたときよりなおいっそう真剣な顔をしていた。
「そうだよね」
小春が気圧されて答えに惑っていたところへ、ふいに、小春でも山村でもない、三人目の声が割り入ってきた。
「そうだよね、小春ちゃん。ただのお友だちじゃないよね」
「えっ、田町さん?」
突然現れた絵里奈に、山村が驚いている。そして、絵里奈の深刻そうな顔を見て、少し後ずさった。
「えっと、じゃあ、私の用事は終わったから、もう行くね」
「あ……ねえ、山村さん。もしもわたしが剣崎くんと何の関係もないって答えていたら、あなたはどうしていたの?」
立ち去りたい気配の山村を呼び止め、尋ねる。山村は絵里奈を見、視線を少しさ迷わせたあと、小春へややぎこちない悪戯な笑みをみせた。
「神さまにお願いしたかも。あの性悪女から、剣崎くんを私のほうに振り向かせてください、って。それじゃあ」
なかなか大胆なことを言う。
山村にとってもしらふで言うには気恥ずかしかったのか、ひと仕事終えた顔つきで、くるりときびすを返して行ってしまった。
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