第三章 初恋

3-1

「ねえねえ小春ちゃんっていつから剣崎くんと付き合ってたの?」


 そう、杏は早口にひと息で言った。

 昼休みになるなり詰め寄られた小春は、面食らったふりをしてひと呼吸置いた。


「……いったい、どうしたの?」

「剣崎くん、告白断ったんだって」


 絵里奈が杏の肩を軽く引き戻しながら、彼女の勢いの理由を教えてくれる。杏は小春の正面を陣取り、小春の机に弁当箱を置いて、ちらりと由希斗を振り返ってから、また身を乗り出した。


「その理由が、もう相手がいるから、ってさ」

「それでどうして、わたしが彼と付き合っているって話になるの」


 いかにも可笑しいという空気を作って、小春は何気ないふうに自分の弁当箱を机に載せる。詰めたおかずはきのうの夕食の残りや作り置きがほとんどだが、由希斗と被らないよう、いつも気を遣っているものだ。それが由希斗にはどうにも不満らしく、小春がうなずかないとわかっていながら「おそろいがいい」と言う。

 だから、家事のほとんどを分担しても、お弁当作りだけは、由希斗には決して任せられない。


「彼の言う『相手』が誰かなんて、わからないじゃない」


 あっさり言う小春に、杏はむっと頬を膨れさせた。


「剣崎くんが気にしてるの、小春ちゃんだけだよ」

「気にしてるかしら」


 ショッピングモールで適当に選んできた二段重ねの弁当箱を広げながら、杏をあしらう。そこへ、隣の机をガタガタ引っ張ってきた絵里奈が、小春の机にぴったり横付けした机と同じく、小春を追いつめるように指摘した。


「しらじらしいよ、小春ちゃん。剣崎くんって、小春ちゃんのこと、よく見てるよね。みんな気づいてるし、小春ちゃんだってわかってるでしょ」


 杏はともかく、この手の話にはわりと冷静な絵里奈に言われると、適当に流したところで逆に不自然になる。


「あら……」


 小春はため息を飲み込んでいつも通りの笑顔を保った。実を言えば、由希斗の甘えた仕草や振る舞いを可愛いと思ってしまっている。

 だが、こうも筒抜けだと困りものだ。


「で、どうなの」


 絵里奈の後押しを受けて、杏がずいと迫る。


「そういう関係じゃないわ」


 これは、事実である。

 小春と由希斗は恋人ではなく、交際もしていない。


「えー、じゃあ、剣崎くんのあの視線は何なの?」


 杏の後ろから、祐実が顔を出した。日直の関係で黒板の始末をしていた彼女だが、話はしっかり聞いていたらしい。


「何、って言われても……」


 小春が言い淀むうち、祐実はちらりと顔をあさってのほうへ向けた。たぶん、由希斗を見たのだろう。


 べつに、学校で由希斗と親しくしようと、恋人と思われようと、それ自体が困るものではないのだ。周囲は騒がしくなるだろうが受け流せるし、何より、由希斗は一切構いもしないだろう。


 ただ、自分たちは調べたいことがあって高校生に紛れているわけで、別々に行動しやすいほうが都合が良いに決まっている。由希斗は何かと小春のすぐそばに居たがるけれど、こればかりは我慢してほしい。


「気にしている程度なら、『もう相手がいる』という言い方は違うでしょう」

「んー、願掛け、とか? 告白はされてないの?」

「ないわ」


 正真正銘、数百年遡っても真実だった。

 由希斗は、小春を『僕のお嫁さん』とは言うが、愛を告げたりはしない。


「えー」


 祐実が不満そうにむくれる。

 年頃の少女たちにとって、美貌のクラスメイトの恋路となれば、格好の娯楽なのは、小春もよくわかっている。本人に恋を楽しむ気などないのに、学校中からのそんな注目と期待を寄せられる由希斗には、かわいそうな気持ちも抱く。


「じゃあ剣崎くんの相手って、いったい誰なの。ほかに居なくない?」

「うーん、佐々良ちゃんは、美人だけど……」

「私、剣崎くんとは喋ったこともないわ」


 それまで黙々とサンドイッチを齧っていた佐々良が、巻き込まれたくないとばかりに素っ気なく言う。


「だったら山村さん?」

「あれは山村さんがつきまとってるだけで、剣崎くんは相手にしてないでしょ」


 祐実と杏を中心に、あれこれと楽しそうにお喋りしている仮初めの友人たちの話を聞きながら、もし、何かの拍子に、由希斗がそんな相手を見つけたら、とふと考える。


 それで、彼は幸せになれるだろうか。


 小春とのような、おままごとみたいな関係ではなく、心から満たされる日々を手に入れられるのか。


 ずっと昔に彼が見初めたという舞姫との結末を、小春は知らない。人であった小春を神嫁としてそばに留めおくことができるのに、舞姫は彼のもとにいないのだから、何か事情はあったのだろうと推し量るのみだ。


「……かわいそうに」


「えっ? 山村さんが? でも、剣崎くんって、誰にでも同じ対応なだけじゃん? それに山村さんが諦めないだけで」


 胸のうちだけで呟いたつもりが、あまりに心を占めたからか、声に出てしまっていたようだ。高校の教室に似つかわしくない憂いが滲む小春のひと言に、祐実が豆鉄砲を食らった鳩みたいに目を丸くした。


「……あ、違うのよ。その彼のほうが、興味がないのに、そうやって追いかけられたり、大変ねって」


 とっさに話を合わせて誤魔化す。小春の胸中など知らない友人たちは、すんなり納得してくれた。


「それは、確かに……」

「そういえば、小春ちゃんって『そっち側』の子だよねぇ」


 杏は、小春の頭から、机の上に出ている腰の上あたりまでを一通り眺める。小春はそういった人の反応には慣れっこなので、じろじろ見られても何とも思わない。


 人の視線を受けて平然としているさまがまた、十代半ばの少女たちには特別そうに見えるらしい。そこはわかっているが、あまりにも取り繕って過ごすのは窮屈なのだった。


「そっちもこっちも、ないでしょう。彼みたいに、騒がれたりしないもの」

「それがおかしいんだよね、むしろ。さっちゃんは、もう三人から告白されたって。ねえ?」

「全部お断りしたけど」


 祐実に話を振られた佐々良が、苦笑して軽く手をひらひらさせた。

 小春もその話は知っている。由希斗がとかく騒ぎの中心にいるが、佐々良もしっかり注目されていて、動向はすぐ噂になるのだ。


「なんで断っちゃったのぉ」

「彼氏より、みんなといるほうが楽しいと思うの」


 祐実の不満に、つっかえもせずそう返す佐々良は、どう見てもこの手のことに慣れている。それが小春には、年齢不相応に見えた。


「私のことはともかく、小春ちゃんが、本当に何もないのが不思議だわ」

「そうだよ」

「ほんとそれ」


 佐々良のほうを向いていた祐実と杏が、ふたたび小春に顔を向ける。小春は弁当箱の中身に目を落として彼女たちの視線を避けながら、なるべくさり気なく聞こえるように言った。


「つまり、わたしなんてその程度なのよ」

「絶対違う」


 間髪入れず、絵里奈が突っ込んできた。祐実や杏に比べると、しっかり者の彼女が相手になると、小春もあしらいづらい。


 ついでに、特に恋愛がらみでは、小春は絵里奈への引け目があった。

 絵里奈は与り知らぬことで、かつ、小春も決して彼女へ明かすことはないけれど、彼女の初恋を終わらせたのは小春なのだ。


「ねえ、ほんとに何にもないの? 直接はなくても、机に手紙が入ってたりとか」

「ないわねぇ」


 本気で不思議そうな少女たちに悪いと思いつつ、自分にそういうことが起こりづらいのを、小春は知っている。


 この街では、街を巡る霊力の持ち主である由希斗の意思が、物事に影響することがある。霊力の扱いが下手な由希斗だから、思うがままに事を操れはしないが、偶然と言うには彼に都合のよい成りゆきをみせることがよくあるのだった。


 由希斗は小春が言い寄られるのを心底嫌っているらしく、誰かがその気を起こしても、バタフライ現象なみの障害が生まれて、ほとんど達成されない。彼自身が追いかけ回される問題よりも、小春にまつわる妨害が優先して起こるというのが、いかにも由希斗の甘えたがりで可愛いところである。


「小春ちゃんが高嶺の花すぎて、みんな勇気出せないのかも」

「あー、それはわかる気がする。あのね、悪口じゃないんだよ。でも、小春ちゃんって、ちょっと、普通じゃないっていうか、手を出すとかダメな感じあるもんね」


 祐実と杏、それに絵里奈と佐々良も、揃って目を向けてくるのに、小春は黙って微笑みを返した。


 ちょっと変わった子だと思われても、どうということはない。そんな小春を相手に、普通の友人として接してくれる少女たちを、小春は少し誇らしくも思う。


 由希斗が守るここは、本当に良い街だ。


「中学まではどうだったの? スカウトとかなかった? ていうか、小春ちゃん、前はどこに住んでたんだっけ」

「スカウトなんて来ないような、人に知られていない街よ」


 何食わぬ顔で答える。

 嘘は言っていなかった。


 この街は、由希斗が嫌がるようなものは、普通は入って来ないようになっている。街に生まれ育った者であっても、彼に嫌われると、何か理由ができたり、何となく居づらくなったりして、街を出て行ってしまう。


 由希斗はのんびり屋で、街が賑わうのは好きだけれど、騒がしすぎるのも嫌いだから、人が増えすぎることもない。


 街の外の人間は、この街についてあまり思い出さず、興味も持たないらしい。小春は外のことには詳しくないが、市長や神職などが言うには、そういう状況にあるそうだ。


「それって、どの地方?」


 目線を上げると、佐々良のものとぶつかる。

 小春があえて明言しないことに気づいたのか、単なる好奇心か。

 小春は、佐々良の問いの意図を読んでいないふりをして、逆に問い返した。


「佐々良ちゃんは、スカウトを受けたことはある?」

「あるわ。トウキョウに遊びに行ったら、しょっちゅう。ここはそういう声をかけてくる人がいなくて、そこもいい街ね」

「芸能人に憧れる人もいるだろうに、チャンスがないのがいい街って、さすが言うことが違う……」


 衝撃を隠さずこぼした絵里奈に、佐々良は「だってねぇ」と苦笑してみせつつも、視線は小春から逸らさなかった。小春は、絵里奈への同調とも佐々良への共感ともつかない曖昧な微笑みを返して、口をつぐむ。


 佐々良が転入生と知ったときから、彼女がやって来た理由が、少し気にかかってはいた。

 由希斗は外部の人間を拒絶はしていないから、移住者は時折現れる。とはいえ、ほとんどが何かしらこの街の住人と縁を持つ者で、何の繋がりもなくみずからこの土地に入ろうとする者は、とても珍しい。


 佐々良が、両親と彼女の三人家族であり、その全員ともこの街の縁者でないことは、すでに調べてあった。


「小春ちゃんは、トウキョウや、都会に出たことないの? あったら、すぐに声をかけられるでしょうに。それこそ、私よりもたくさん」

「わたしには、経験がないわ」


 さて、佐々良は何者か。


 微笑みの下で、小春は慎重に思考を巡らせた。

 由希斗の影響を跳ね返すほど強い力を持っているなら、彼が嫌がるようなものでも、この街に入り込むことができる。そうしてわざわざ入ってくるものたちは、力を隠すだけの能力も持つ。だからこそ小春や由希斗は、地道に問題解決を図る羽目になったりもするわけだ。


「いやな勧誘もあるから、芸能人に憧れがないなら、経験がないほうがいいわ」


 佐々良はわけ知り顔で、小春を労わるように笑う。その気遣いは作りものには思えない。

 小春は佐々良を疑いつつ、たったひと月ほどの付き合いとはいえ、肌感覚として、彼女は悪いものではないとも感じている。


 ファントムペインとかかわっているなら対処しなければならないが、関係のないただの移住者なら、このまま平穏に暮らしていってもらいたい。


「……わたしはともかく、剣崎くんがそういうところへ行ったら、大変なことになりそうね」


 小春がさりげなさを装って口にした由希斗の名にも、佐々良は肩を竦めて「でしょうね」とあっさり済ませてしまう。その目は由希斗より、小春をうかがっていた。

 この街で悪さをしようとするなら、由希斗に反応しないはずがない。


 悪だくみをするものは、彼を手に入れたいか、排除したいか、どちらかだ。そうでなければ、こんな山に囲まれた辺鄙な街に用はないだろう。


「この街にいるってことは、剣崎くんも、芸能人には全然興味ないのかなあ。相手がいるってのも、嘘なのかな」


 祐実がつまらなそうに唇を尖らせる。杏が首を傾げた。


「祐実ちゃん、なんで残念そうなの?」


 祐実や杏は、小春と佐々良のあいだに生まれた微妙な空気には、少しも気づいていないようだった。警戒心や、猜疑心を持つ必要のない街で育った少女たちなのである。


「だあって、どんな人を彼女にするのかは、ちょっと興味あるもん」

「あ、それは確かに」


 由希斗をちら見しながらの祐実の答えに、杏がうなずき、絵里奈も同意していた。


 人がそれなりに充実した人生を送れるほどには豊かに栄え、それでものどかで、きっと、世界中でいちばん幸せな街。


 由希斗が愛するこの場所を、小春は守りたい。


「ねえ、ほんとのほんとに、小春ちゃんと剣崎くんは、付き合ってないの? 告白されたこともない?」


 祐実が、小春を覗き込むように身を乗り出してくる。

 小春は、いらぬ感情が滲まないよう、静かに微笑んだ。


「わたしじゃないのよ」


 高校生に紛れ込むと、だいたいいつも、同じ話に巻き込まれる。小春は毎回、由希斗に気をつけるよう言い聞かせるのだが、甘えたで寂しがりの神さまは、どうにも感情を隠すのが苦手だ。


 由希斗の小春を見るまなざしが恋着でないとわかるほど、十代の少女たちは思慮深くもない。


 残念そうな祐実の視線から逃げて、小春は教室を見渡した。あちこちで集まって昼休みを過ごす生徒たちの中、相変わらず一番多くの人に囲まれながら、自分の席でお弁当を広げる由希斗がいる。軽く目を伏せ、弁当箱の中身しか見ていないような彼は、周囲がしきりに何か話しかけるのも、適当に聞き流している様子だった。

 だが、ふと瞬きして顔を上げた由希斗と目が合いそうになり、小春はすばやく目を逸らす。その先で、別の少女たちが小春を見ていたのに気づいた。


「ねえ、菅原さんって、お姉さんとか、いる?」


 小春と視線が合ったクラスメイトが、片手に食べかけの菓子パンを持ったまま、チャンスとばかりに近寄ってくる。


「いいえ。どうして?」

「このあいだ、古典の大野先生がさ、菅原さんに似た生徒を、何年か前にも担当した気がするって言ってて。でもはっきり思い出せないんだって」


 大野は、初老の穏やかな女性教師だ。のんびりと古文を読み上げる声音は、子守歌と呼ばれたりもする。


「おばあちゃんボケた? ってからかったら、テスト赤点にしますよって言われたぁ~」

「そりゃあ怒られてもしょうがないよ」


 絵里奈が笑いながら呆れている。それに応えて、少女たちがいっせいにくすくすと肩を揺らす。


 小春も彼女たちに合わせながら、話題になった教師を思い浮かべていた。


 彼女は、この街で生まれ育ち、街で唯一の大学を出てから、長年、この高校に勤めている。その引っかかりは気のせいではなく、小春はこれまでも何回か彼女の生徒だった。

 霊力をほとんど持たない人間にも、ときどき勘の鋭い者がいて、彼女もそのひとりなのだ。


 過去には、直接尋ねられたこともある。


(わたしね、本当は、あなたのクラスメイトだったのよ)


 伝えることは絶対にないだろう答えを、心の中でつぶやく。


 無邪気でいたずら好きだった少女は、今では生徒たちに慕われる先生となり、もうしばらくすれば引退して、そして安らかに死にゆくだろう。


 これまでにも、そうしてたくさんの住人たちを見送ってきた。それを小春は、確かに幸福だと感じている。この街が、これから先も数多の生と死を迎える場所であるようにと願う。


 そしていつか小春も、この街に――由希斗に見送られたい。

 それが、小春の誰にも言えない望みだった。


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