第二章 神さまと舞姫
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春祭りとは、この街の神さまに、無事に冬を越えて春を迎えたことへの感謝を伝え、また一年の加護を願うものである。
本来のメインイベントは神社の奥の宮で、宮司たちが捧げる祈りだ。しかしながら、奥の宮は街の最奥、山裾に位置し、すぐ裏手はもう立ち入り禁止という場所がら、厳かな緊張感がただよい、春の爛漫なイメージからはほど遠い。
街の住人たちの大半にとっては、舞姫の舞と、そこから続く神さまの嫁取りの再現の、いっとう華やかな部分が楽しみな祭りだった。
春を歓ぶ娘は、いのち溢れる春そのものを表すように、朗らかに、活き活きと舞う。神話に伝えられる娘が舞ったのは山裾の野原であったことから、舞殿には天井がない。晴れ渡る青空のもと、淡色の薄布を幾重も重ねた衣装を纏う舞姫が床を蹴るたび、その小柄な身体がふわりと宙にうかんで、春風に舞う花びらのようにも、風そのものであるようにも見えた。
この可憐な舞姫は、神職たちが適任と思われる娘を協議して決め、指名することになっている――建前は。
生花で編まれた花かんむりからこぼれる花びらが、視界の端で揺れる。
一枚は透けるほど薄くとも、何枚も重ねれば重い衣装を、重量を感じさせない軽やかさで翻す。
毎年やっていれば、視界の悪さや衣装の重さ、人々の歓喜の目、速い舞の動き、そのほかあれやこれやのすべてに慣れる。
小春は、弾む息を振りの合間に鋭く吐いて宥め、次の呼吸でまた跳んだ。
人びとの歓声が、少し遠く聞こえる。自分の呼吸と、霊気で満ちた周囲の空気が、小春の意識をさらってゆく。
(……神さま……)
この街を満たし、繁栄と豊かな実りをもたらす神の力が、小春にいっそう濃くまとわりついてくるかのようだった。
山に棲む神は、今、小春を一心に見つめている。力の流れから、小春はそう感じ取った。
舞殿の真正面に設えられた特別な観覧席に、小春の舞に心を奪われたこの街の神さまがいる。
神話に語られる始まりの娘は、踊ることに夢中で、神さまに見られていることにはまったく気づいていなかったらしい。だから小春も舞いはじめてから今まで、一度も彼を見ていない。けれど、小春はその娘と違い、彼の視線を無視できなかった。
舞姫の務めに没入して研ぎ澄まされた小春の意識は、よりいっそう彼だけに向かってゆく。
この街の守り神。
しかしながらその本性は、祟り神である。
喜びの衝動を舞に注いでいた娘は不意に、草花や動物たちとも異なるものの気配を感じる。彼女が振り返ると、息をのむほど美しい青年が、微笑みながら歩み寄ってきていた。
陽光に透けるほど真っ白な髪に、桃の花のような淡い紅色の瞳。観覧席から舞台へ向かう姿は堂々としたもので、神さま――由希斗は、春の陽射しを一身に浴びて、輝かんばかりだ。
小春は一瞬だけ見惚れ、意識を切り替えて舞姫役に戻る。
ただ人とは思われない青年に、娘はひと目で心を奪われた。
彼が近づいてくるのに合わせ、娘もゆるりと身体の向きを変え、ついにふたりは間近で向かい合う。
はるか昔からこの土地を見守ってきた神さまは、小春を見下ろし、眩しげに柔く目を細めた。
無言のまま差し出される手。彼のまなざしは穏やかだが、その身は、人を圧倒する気配を纏っている。仕草こそ誘うようでも、彼は、娘が彼の手を拒むことを許していない。
娘は抗わず、おのれの手のひらを彼の手に重ねた。
その瞬間、喜びを表すかのように、彼の周囲に柔らかな光がふわりと広がり、きらめきながら空気に溶けていった。
街の人々が歓声を上げる。
神の祝福だ。
禍をもたらす存在であった神が、人間の娘を見初め、結ばれて、娘の故郷を守護する存在になった。
どこからともなく吹いてきた風に花びらが舞い上がって光のきらめきと混じり合い、いっそう幻想的な光景が現れる。
光も風も花びらも、観客は演出の仕掛けだと思っていることだろう。
歓声が感嘆のため息に変わる中、小春はそこにちらほらと憂いの視線が混ざっているのを感じた。
神に嫁ぐ娘。すなわち生贄。
神話に隠された後ろ暗い出来事を知る者たちは、娘と引き換えに自分たちが恵まれた暮らしを送る罪悪感で、憂鬱なため息をつく。そして小春を、怖れと罪の意識を乗せた目で見上げる。
どんな視線にさらされても、小春は愛らしい微笑みを絶やさなかった。
陽光を全身に淡く纏い、麗しい笑みをたたえる由希斗は幻のように美しく、見慣れた小春でさえ、魂を奪われそうになる。
そのかんばせを眩しく見上げながら、小春の心には、ほんの少しの陰がさす。
遥か遠い昔、彼はこの地で、生贄を求めたのだろうか。
それとも伝承の通り、娘が心を奪われたのか。
うつくしい神と、彼が見初めたという娘、この地の始まりの物語。
真実は、この街の神さまと、今は亡き舞姫だけが知っている。
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