1-2

 入学式から一週間経ち、教室には少しずつ日常と呼べる空気が生まれ始めていた。

 クラスメイトは互いの名前をおおよそ憶え、休み時間を誰と過ごすかも、だいたい決まったころあいだ。


 入学初日に、水面下で誰が自分のグループに引き入れるかの駆け引きが行われていた菅原小春は、絵里奈、杏、祐実、佐々良と、五人組を作って落ち着いた。小春本人は、自分が駆け引きの対象になっていたことなど気づいてもいない様子だが、祐実はそういう少女と親しくなれたことに、大いに満足している。


 絵里奈や杏という新しい友人も、もちろん気持ちを弾ませるものだが、高校生活で何かが起こるかもしれない期待は、やはり小春にかけてしまうのだ。


 その五人が昼休みに食事を終わらせて談笑していると、ふいに、教室の後方が騒がしくなった。小春以外の四人がそちらへ目を向けて、祐実は小さく歓声を上げる。


「あの人、剣崎けんざきくん! 何回見てもすっごいよね~!」


 興奮する祐実に、杏が何度も首を縦に振る。


「ほんと。見たことないくらい美人。わたし、まだ慣れないな」

「あれ、アルビノじゃないんだってね」

「やっぱりハーフなのかなあ」


 一番はしゃいでいるのは祐実だが、絵里奈と杏も興味を隠せずにいた。佐々良はやや冷静に首を傾げる。


「ハーフでも、赤い目ってそうとう珍しい気がするよね。どこの国なのかしら?」


 少女たちが色めき立った原因は、数名のクラスメイトを引き連れて、後ろの扉から入ってきた男子生徒だった。


 名は、剣崎けんざき由希斗ゆきと。新入生として校門に現れた瞬間から全生徒の注目を集め、瞬く間に校内一の有名人となった人物である。


 さらさら流れる雪のような白銀の髪がまず目を引き、ついで柔和に微笑む瞳が淡い赤であることに驚かされる。なによりも、その色彩が違和感なく馴染む美貌。すらりとした細身の身体は、しかし痩せすぎには見えずしなやかで瑞々しい。


 容姿だけでもそうなのに、さらに、注目を浴びて人に囲まれながらも落ち着いて席に着く様子や、そのクラスメイトたちに対する物腰、表情、言葉の発音まで、彼は何もかもが整いすぎていた。


 成長途中にある生徒たちの中ではよけいに異質さが目立ち、彼だけ別世界のようだ。


 祐実のグループ五人のうち、残る小春は騒がしさにつられて一瞬まぶたを上げたものの、すぐに視線を戻した。


 男女を問わず教室中が色めき立つさなか、少しも動じていないのは当の由希斗と、小春だけ。小春のまとう凪のような雰囲気も、また人の気を引くものだった。


「小春ちゃん、剣崎くんに興味ないの? あんなに綺麗な人、滅多にいないのに」


 祐実は何気なく問いかけて、ふっと視線の合った小春の眼差しにどきりと息を呑んだ。よく見ると灰色がかった小春の瞳は、黒よりも透き通って見える。それがあまりに穏やかだから、同じ年頃の少女らしからぬものを感じたのだ。


「男の子って、見た目が良くても、それだけじゃあね」


 くすくすと小春が笑う。色事とはほど遠い、子どものような無邪気さだった。そのあどけない笑みと、ませた物言いは不釣り合いのようでいて、彼女の身体では不思議と調和していた。


「剣崎くんなら、いい人そうじゃない?」

「どうかしら」


 まるで興味なさげにさらりと言う小春が少し憎らしく、祐実はややむっとする。


「小春ちゃんはかわいくて、彼氏に困らないから余裕なんだよ」

「そういうのじゃないわよ」


 照れもなくふんわり微笑みながら言う小春に、祐実はそれこそ余裕を感じて唇を突きだした。


「高校生になったんだし、そろそろ彼氏欲しいー! とか、思わないのぉ?」

「祐実は中学のときから言ってるじゃない」


 訳知り顔で佐々良が突っ込む。


「彼氏がいたさっちゃんにあたしの気持ちなんてわからないよー!」

「佐々良ちゃん彼氏いるの?」


 杏は、今しがたまで由希斗を見ていたのに、祐実の発言にすかさず反応して振り向いた。佐々良を見た杏の目には、佐々良の容姿について、これだけ美人ならね、という納得もうかんでいる。


「もう別れたわ」


 佐々良の言いようは、実にあっさりしたものだった。新しい顔ぶれの中から次の彼氏を探す意気込みもない。


「これが自分から行かなくても男が寄ってくる子の余裕かあ」


 祐実は小春と佐々良を順に見てため息をつく。


「祐実ちゃん、剣崎くんに話しかけてみたら?」


 絵里奈が言うのに、祐実は首を横に振った。


「相手にされないって。ていうか、あの中に入っていくのなんて、無理」


 由希斗の周りには、相変わらず生徒たちが集まっている。とりあえず話題の中心に居ておこうとする男子生徒はともかく、女子の狙いはひとつで間違いない。


「絵里奈ちゃんこそ、いいの?」

「あたしもあの中はヤだな」


 絵里奈は祐実に肩をすくめてみせる。入学早々、敵を作りたくない思いは同じだった。

 容姿か成績か家柄か。何かずば抜けて秀でているものがなければ、由希斗を囲む女子たちは黙らないだろう。


 それこそ、佐々良や小春のような。


 祐実はふたりを見比べた。

 佐々良は大人びた美人。小春は、神さまが『可憐』という言葉をもとに作ったかのような少女。


 佐々良は見た目に加え、中学ではいつも学年トップを取っていたくらいに頭がいい。高校でもきっと上位だ。


 小春のほうは、成績や家柄はわからないが、容姿は間違いなく群を抜いていて、それに少し話しただけでも、彼女の纏う雰囲気には妙に惹かれるものがある。


「女子は剣崎くん狙い、男子は佐々良か小春ちゃんかあ」


 男子たちが事あるごとに佐々良や小春をちらちら気にする視線に、祐実は気づいていた。いまも、小春を盗み見る男子がいる。それに全く気づいていない様子で、小春は首を横に振った。


「わたし、彼氏には、興味ないかな」


 小春がおっとり言う。佐々良もうなずいた。


「私も」

「えー」


 と、不満そうな声を上げたのは杏だった。「わかるぞ」と、祐実も後押しする。彼女たちのそれは、祐実や杏にしてみれば、持つものの奢りだ。それにこのふたりが下手にフリーでいるより、誰かとくっついてくれたほうが、チャンスが回って来やすそうでもある。


「小春ちゃんも、中学のころにはもう彼氏がいて、飽きちゃった、とか言う?」


 杏は両手で頬杖をついて、半眼の上目遣いに小春を睨む。


「ちがうわよ」


 この手の話題につきもののはずの、年頃の少女の恥じらいというものを、小春からはまったく感じられなかった。彼女は純粋に、ただ可笑しそうに笑う。


「でも小春ちゃん、中学じゃ、学校とか、地域で有名人だったでしょ」

「そんなことないわ」


 それが謙遜の誤魔化しなのか事実なのか、軽やかな小春の口調では、どちらともつかない。祐実は彼女の中学時代を想像しようとしたが、どうにもうまく思い描けなかった。小春がいた街は、この街よりも都会なのか、田舎なのか、寒い地方だったか、暖かなところだったか。


 どれでもありえそうで、どれもしっくりこないようでもある。


 いや、そもそも。


 揃いの制服姿の少女たちと、その中の小春のたたずまいを眺め、祐実は思う。

 小春は、外から来た子と思えないほど、この街の空気に馴染んでいる。


 気づいて、なぜか背がぞくりとした。


「ねえねえ、祐実ちゃんは、剣崎くんの噂、聞いたことあった?」

「えっ?」


 絵里奈に声をかけられて、祐実ははっと我に返った。


「剣崎くんくらいすごい人、絶対噂になってたはずなのに、聞いたことないなって」


 祐実が上の空だったことに気づいた絵里奈がそう教えてくれる。その内容にもなんとなくそら寒いものを感じつつ、祐実は気づかなかったふりをした。


「そういえば、アタシもないなあ。中学どこだったんだろ」

「トウキョウで芸能人になった人の噂が回るんだもん。学校関係なく、噂くらい、知られててもよさそうなのにね」


 そう言って、杏は、つまらなそうに頬杖を崩して猫背になった。そこには、もっと前から知っていれば、今、指をくわえて眺めているばかりではなかったかもしれないのに、という悔しさがある。


「芸能人って、室井むろいって人? スカウトされたんだっけ。そういえば、今どうしてるのかな」


 祐実はその人にあまり関心がないから、無遠慮に言った。噂を聞いた当時こそ「すごい」とはしゃいだ記憶はあるが、それ以来、テレビやネットで見かけないと、興味はとうに薄れている。

 そんな祐実に、絵里奈が少し気まずそうな顔をした。


「きっと頑張ってるよ。トウキョウだもん、そんなすぐに、うまくいかなくても……」

「室井先輩は、絵里奈の幼なじみで、初恋の人なの」

「ちょっと、杏!」

「ごめん、絵里奈ちゃん」

「ごめん、絵里奈」


 祐実と杏の声が被った。杏は気安い調子だが、祐実は本気で決まりが悪い。


「幼なじみって、歳は近くないんじゃない? 芸能人の噂というけれど、私、その人の話、全然聞いたことがなかったわ」


 微妙な空気を取りなすように、佐々良が絵里奈に訊いた。


「うん、五歳上かな。家が近くて、よく遊んでもらった」


 絵里奈の答えを聞き、佐々良が同情してうなずく。


「じゃあ、トウキョウに行っちゃって、寂しかったでしょうね」

「まあね。だけど、実はとっくに失恋してるんだ」


 もう吹っ切れているというふうに、絵里奈はひょいと肩をすくめる。杏は知っていたようだが、事情がわからない祐実たちに、絵里奈は恥ずかしげにしつつも、朗らかな彼女らしくあっさり言った。


「トウキョウに行くって聞いたとき、告白したんだよ。中一の終わり。そしたら好きな人がいるんだって。でもライバルがいて、振り向いてもらうためにトウキョウで芸能人になるって言われた」

「安直だよね~。芸能人だからって、好きになるわけじゃなくない? 女の子って、そんな単純じゃないよ」


 祐実が思ったことを、杏は遠慮のエの字もなく言い放った。


「トウキョウに行って芸能人になった人がいるってクラスで噂になってさ、すごい、って思ったのに、そのすぐあとに絵里奈から真相聞いて冷めちゃった」


 杏が無遠慮なもの言いをしたのは、当の男子に良い印象がないかららしい。絵里奈もそこは思うところがあるかのように、半笑いで軽くうなずいている。

 祐実も同じ意見だった。片思いの相手がどんな女の子かはわからないが、失礼じゃないかと思う。


「男の子って、お馬鹿よね」


 佐々良がくすりと笑って言う。容赦ない言いようだが、微笑ましげにする彼女の態度のおかげか、嫌味がなかった。


「男の子みんなが馬鹿ってわけじゃないと思う。剣崎くんとか、たぶんそんなことしないでしょ」


 憧れ半分で、祐実は佐々良に言い返した。あんなに綺麗な人の中身が馬鹿だなんて、夢を壊さないでもらいたい。


「剣崎くんがいると、トウキョウの芸能人も霞むしねぇ」


 杏はちらちらと由希斗を盗み見している。


「あんまり綺麗で、ちょっと人じゃないみたい」

「杏、それはさすがに失礼でしょ」


 正直すぎる言いようを絵里奈が窘めるが、その表情は同意に近い。


 由希斗は、特異な容姿につられてなのか、雰囲気までも浮き世離れして見えた。

 だからこそ、一切の噂のなかったことが、よけいに謎なのである。


「ねえ、小春ちゃんは……聞いたことないよね、この街にいなかったんだし……」


 ふと、小春がずっと黙っていることに気づき、祐実は彼女へ水を向けた。黙ってはいても話は聞いていたようで、小春はあっさりうなずく。


「そうね」


 祐実には、そう答えたときの小春の笑みが、何か曖昧なものに見えた。


 小春は名前に『春』とあるのが似合いすぎるくらい、いつも穏やかな微笑みをうかべている。愛らしいけれど、たとえ内心で何かを思っていても、その微笑みのせいで気づけないだろう。


 祐実は、少し不気味だと思ってしまった自分を、失礼じゃない、とこっそり戒めた。

 そんな祐実の横で、佐々良がふと「あっ」と声を上げた。


「私、もしかしたら、聞いたことあったかも」

「え!? なんで!?」


 佐々良が言った、ということに、祐実は人一倍驚いた。絵里奈と杏がそんな祐実をきょとんと見、それを受けた祐実が弁明する。


「さっちゃんは、中三のときに転校して来たんだよ。だから、アタシも知らない話を知ってるなんて、思わなくて……」

「それで、どんな噂?」


 佐々良が転入者であるという情報は、少女たちの好奇心をよりいっそう掻き立てたようだった。杏が前のめりに問う。


「人じゃないっていうので思い出したの。おとぎ話みたいなものよ。この街には神さまがいて、人に紛れて暮らしている、って」


 佐々良の口にした噂に、絵里奈と杏、祐実は拍子抜けした。そんな三人を見て、佐々良は小首をかしげる。


「今思えば、剣崎くんのことだったのかなって、思ったのだけど、違うの?」


 佐々良がきょとんとするのに、ほかふたりと目を見交わしたのち、絵里奈が答える。


「その話は、この街の人なら誰もが知ってることなんだよ。あの山」


 と、絵里奈は教室の窓の向こうにあるなだらかな緑の山を指さした。それはこの街のほか二方にそびえる山と比べても、とりたてて高くもなく、すがたかたちも平凡で、特別に目に留まるようなものではない。


 ただ、この街の最奥にあって、街のどこからでも、あの山が見える。山から向こうは連山になっていて、地平線はなく、山影が空と混じり合ってゆく。


「人は入っちゃいけないって言われてるんだけど、あれが、神さまの住んでるところ」


 杏が、絵里奈の言葉に軽くうなずき、あとを引き継ぐ。


「この市の名前、『隣町市』って、ちょっと変でしょ。『神さまのとなりの町』って意味」

「へえ……」


 佐々良は山を見て、興味深そうに目を眇めた。黒髪美人がそうすると、どことなく意味ありげに見える。その横顔へ、祐実はこの話の肝を教えた。


「その神さまは、山にいても退屈だから、この街に下りてくるんだって」

「フレンドリーな神さまなのね」

「ううん、違うよ」


 おもしろそうに言う佐々良に、祐実はすかさず首を横に振って否定した。


 この街の子どもは、物心つくころには、決してあの山に立ち入ってはならないと約束させられる。そのほか、神さまの機嫌を損ねるようなこと、悪いおこないや、主には神事にまつわるしきたりに背くようなことをしてはならないと厳しく言い聞かされて育つ。


 それは、神を敬うからばかりではない。


「その神さまはね、祟り神なの。だから機嫌を損ねたりしないように、この街のどこかにいるかもしれないから、アタシたちいつでも、悪いことを言ったり、したりしちゃいけないの」


 この街の田畑の実りは豊かで、通常ならこの地方では育たないような作物も、立派に収穫できる。病人は少なくて、怪我の治りも早い。赤子はほとんど安産だ。商売をしても、不思議なほどうまく客が訪れる。仕事上のトラブルも、なぜかするりと解決してしまう。


 理屈では説明のつかない街。それを街の住人たちはよくわかっているから、神さまなどという不確かな存在を、決して蔑ろにはしない。

 町史には、祟りとも思える災いごとも記録されている。


「この街、外には道一本しか通じてないでしょ。もし、神さまを怒らせたら、逃げる前に全滅だよ」


 そう言う祐実の気持ちは、半分冗談。もう半分は、本気だ。


「でも、悪いことしなければいいんだから、結局はいいところだよ」


 絵里奈がそう締めくくって胸を張った。佐々良は、いまいち飲み込みづらいような顔をしている。


 この街に来てまだ長くないなら、そうだろうな、と思う。


 佐々良から小春へと目を移すと、彼女は変わらない様子でうっすら微笑んでいた。

 外から来たばかりだというのに、小春はこの街の不可思議さについて、何とも思っていないようだ。


 山が背側にあったためか、特に振り返ることもせず、どこともつかないところへ視線をやっていた小春は、ふと瞬きをして、そっとまぶたを伏せた。


 祐実が彼女の見ていたほうを振り向くと、生徒たちの隙間を抜けて、由希斗の薄紅の瞳と目が合った。彼は祐実が自分を見たことに気づいたが、何ということもなく軽く微笑んで返し、そのとき周りにいる生徒の誰かに声をかけられたようで、ごく自然に目を逸らした。


 その由希斗の雰囲気と、小春は、なんとなく似ている気がする。そんなことを感じて、祐実はなぜかやけにぞっとした。


「祐実ちゃん、寒いの?」


 無意識に二の腕あたりをさすった祐実を見て、小春が訊く。

 問いかけの言葉でありながら、答えを知っているかのよう。あまりにも穏やかに微笑む小春に、祐実は思わず、何か別の意図があるのではないかと勘ぐってしまった。


「……、少し。春とはいえ、まだ肌寒く感じるときもあるよね」


 つい小春をまじまじと見返し、その不自然な態度を誤魔化そうとして、一瞬、声が詰まる。小春はただ、「そうね」と同情するようにうなずくだけで、祐実を不審に思う様子は見せなかった。


「でも、すぐに暖かくなって、制服を暑いって言い始めるわ。……毎回、そうだもの」


 そう言って、小春は今はまだ長袖の制服の袖を指先で軽くつまみ、引っ張ってみせた。セーラー襟と揃いの、銀鼠色のラインが一本入った純白の袖口から、細い手首が見え隠れする。


 入学したてで、成長期を見込んだ大きめの制服に着られている生徒たちの中、小春の袖は、彼女の身の丈にぴたりと添っていた。

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