神さまの隣の街 祟り神さまの願いごと
崎浦和希
序章 神さまの花嫁
……! ……は、る……! 小春……!
誰かが自分を呼んでいる。
柔らかくて、とても心地のいい、大好きな声。
誰だったかしら。
大切な誰かのはずなのに、頭がぼんやりして、何も思い出せない。
「お願い……君は、まだ……」
甘く優しげな声音は、悲痛に細く掠れている。
どうしてそんなに悲しそうなの。何があったの?
問いかけようとしても、声が出なかった。
唇と喉、それから体のどこも、少しも動かない。何も見えなくて、目が開いているのか、閉じているのかさえわからない。
とろりと深い闇の中で、ただ、自分を呼ぶ声だけが聞こえていた。
なんだろう、と考えかけて、鮮やかな血飛沫が脳裏をよぎる。
倒れ伏す父と母、駆け寄ろうとして、次の瞬間、自分を貫いた衝撃。
そうだ。
(わたし、もうすぐ死ぬの……)
おのれの命運を思い出したというのに、不思議なほど心が穏やかだった。
生まれてからずっとそばにあり、いつでも見守ってくれていた清らかで優しい霊力が、いまも、自分を包み込んでいる。
痛みも、苦しみもない。
何も怖くない。いま居る場所が、世界でいちばん安らかだ。
「こはる……!」
小春は死に抗わず、闇に沈もうとしていた。だが、静かな夜を裂く稲妻のように、呼び声が絶えない。
「こはる……小春……、だめだよ……」
何度も呼ぶ声が、小春の表面を撫でて、無為に落ちてゆく。答えが返らないとわかってか、優しかった声は、やがて、低いつぶやきをこぼした。
「……許すものか」
小春を包んでいた霊力が、重く、濃くなる。かすかな異変が、小春の意識を呼び戻す。
「君は、死んではいけない」
浅く止まりかけていた呼吸が引きつる。
喉の奥に詰まった空気を、小春は弱く咳き込んで吐き出した。だが、そんな空気なんかよりももっと圧倒的で、抗いようのないものが、小春の小さな身体に流れ込んでくる。吐き出すことなどとうていできず、小春はすぐそばにある何かに縋りついて、身体のなかを掻き乱されるような衝撃に必死に耐えた。
「小春」
いかにも嵐の去ったのちにふさわしい、凪いだ声音が小春を呼ぶ。
逆らえない。
呼ぶひとに応えて目をひらくと、視界いっぱいに光が滲んだ。
「……どう、して……?」
「小春!」
見上げたすぐそこに、小春の敬愛する美しい神さまがいた。白銀の髪が、きらきらと清らかに輝いて、そのたび、まるで小春に光が降ってくるかのようだった。
神さまは小春を腕に抱き、じっと小春を見つめていた。
桃色の目に涙をためて、今にもその可愛らしい色が滴り落ちてしまいそう。拭ってあげたいけれど、腕がうまく動かない。
ぼんやり思ったとき、神さまは震える息を吐いた。
「小春……!」
小春の頬に、温かい涙の雫が落ちる。ひとつふたつ、自分のものではない涙が頬を伝い、流れ落ちていった。
たった今、強大な力を振りかざしたものとは思えないありさまだ。
「わ、たし……死ぬ……んだ、って……思った……のに……?」
とぎれとぎれの小春の問いかけに、神さまは「いやだ」と首を振った。小春を抱く腕に力がこもる。
「君に生きてほしかった。僕の勝手な気持ちを、君は許してくれる?」
「許す……?」
神さまが瞬きをして、またぱたぱたと涙が降ってくる。
「君から、人であることを奪っても、僕は……」
神さまは泣きながら、彼の涙が濡らした小春の頬を撫でていた。まだ冷たい小春の肌に、彼の温度は熱いほどだった。
その温もりのみなもとである彼の霊力が、自分の体をめぐるのを感じる。その力は小春を神さまのもとへ繋ぎ止め、小春を彼の一部にしている。
何が起こったのか、うっすらとわかってきた。
「わたし、あなたの……眷属に、なったの?」
失われた心臓の代わりに、神さまの霊力が、小春の胸の底で脈打つ。
「違うよ」
神さまが、涙に濡れてきらめく瞳を細め、微笑む。それはすぐに崩れ、彼はまた悲しい顔をしたけれど、小春には、綺麗な微笑みだけが心に残った。
大好きな神さまが、小春が生きることを願ってくれた。
嬉しかった。
家族を失った悲しみや、襲い来た敵への憎しみを越えて、彼の思いがあれば、生きてゆけると思った。
「眷属じゃない……。小春は、僕のお嫁さん」
言い聞かせるように、神さまは小春とそっと額を合わせる。
そうしてこの日、小春は神の花嫁になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます