第6話 バレンタインデー

燈実とうみ紗鳥さとりさんに会う日取りが決まったぞ」

 午前のトレーニングを終えてオフィスへ戻ると、元夢もとむさんが声をかけてきた。

 はっとしてオレはすぐに彼のそばへ寄る。

「いつですか?」

朝陽あさひの方からも話があって、相談しながら決めたんだが」

 言いながら元夢さんは席を立ち、壁にかけられたカレンダーの前へ移動した。一枚めくって三月のカレンダーを見えるようにし、話し始める。

「実は来月の二十五日に、年度末恒例の特殊事業部合同練習がある」

 彼の指さした日付を見つつ、オレはうながす。

「その日にってことですか?」

「理解が早くて助かる」

「えへ、それほどでも」

 と、オレが照れるのを無視して元夢さんは続けた。

「だが、本来は外部の人間が参加していいものではない。何しろ、一年の成果を試合を通して発表する場だからな。もちろん強さを競う意図もあるが、言いかえれば現在誰が一番強いのか、はっきり決まるわけだ」

「一番、強い……?」

 脳裏に浮かぶのはハロウィンパーティーでの会話だ。あの時、芽衣めいさんとせいさんは社長が一番強いと話していた。

 そんなオレの思考を見透かしたように、元夢さんがこちらを見る。

「当日は社長も参加する。人数が多かった頃はトーナメント形式で試合をしていたが、ここ数年は相手を選べるようにしてある。下剋上げこくじょうなんてこともめったに無いからな」

「ああ、そうですよね。一課には四人しかいないし、芽衣さんは非戦闘員だし」

 わざわざ戦わずとも、強さランキングは決まっていて変動がないのだろう。

「そこでだ、燈実。お前は誰と戦いたい?」

 元夢さんがカレンダーから手を離してオレを見る。

「誰と……うーん、やっぱり一番強い人とがいい、ですかね」

「じゃあ社長だな。今年も静は帝人ていと先輩と戦う。俺は朝陽に勝負を挑む予定だ」

「おお、それじゃあ凜風りんふぁさんは?」

「ちーが戦いたいそうだ。どうせ負けるのは分かってるんだがな。格上の相手と戦うことで、学びや気づきが得られることもある」

「練習っていうか、わりとガチの試合なんすね」

「ああ、そうだ。年に一度のこの日は、外部に漏れてはならない重要な情報、個々の実力や戦い方、弱点などが明確になる。だから部外者は入れない決まりだったんだ」

 なるほど、言われてみれば納得だ。

「で、今回は特別にオレの参加が認められた、と」

「そういうことだ。当日は紗鳥さんも来るから、空いた時間に謎を解明してもらうことになった」

「分かりました。ちなみに、その合同練習はどこでやるんですか?」

「山の方に廃校になった小学校があるの、分かるか? 毎年、そのグラウンドを借りている」

「へぇ、そうだったんすね」

 驚きとともに納得するが、廃校になった小学校があるのを知らなかった。どの辺りなのか見当もつかない。

「俺たちは現地集合だが、燈実は場所を知らないだろう?」

「ええ、ちょっと分からないです」

「それなら、当日は俺が車で拾おう。朝八時、駅前のロータリーにいてくれればいい」

「分かりました。ありがとうございます!」

 よかった、元夢さんの車に乗せてもらえるなら安心だ。

「試合は夕方の五時までかかる。体調は万全に整えて、昼食と飲み物もしっかり準備してこいよ」

「はいっ」

 超能力を使ってもいい試合は久しぶりだ。まだ一ヶ月以上先のことではあるが、少しわくわくした。


 バレンタインデー当日。友人たちには予定通り、五人全員にちゃんと渡せた。去年も同じことをしたからか、みんな喜んで受けとってくれた。

 お返しは別に期待してないのだが、ジュースをおごってくれたのが一人いた。いいやつだ。大事にしたい友人だなと思いつつ、今日も楽しく学校での一日を終えた。


 放課後は詩夏しいかさんと、いつもの公園で待ち合わせをしていた。

「あ、あの、これ……っ」

 彼女が恥ずかしそうに差し出したのは、綺麗な平べったい箱だった。いかにも高級そうな上品なデザインだ。

 大好きな人からチョコレートをもらうのは、人生で初めてのことだった。つい頬をゆるませながら受けとり、「ありがとう」と、礼を言う。

 彼女がチョコレートをくれるのは分かっていたが、やっぱりめちゃくちゃ嬉しい。

 詩夏さんがはっとしたように顔を上げてオレを見る。

「あ、あの、本当は手作りしようかなって思ったんですけど、その、わたし、お料理得意じゃなくて。燈実さんにまずいものを渡すわけにはいかないから、その……で、でも、燈実さんの好きな抹茶チョコにしたんですっ」

「お、抹茶は嬉しいな。ありがとう、詩夏さん。買ったものでも全然嬉しいよ」

 大切にそれを鞄の中へしまってから、オレはラッピング袋に入ったチョコマフィンを取り出す。

「はい、これ」

「えっ」

 詩夏さんの目が丸くなり、今度はオレが恥ずかしくなる。

「実は毎年、バレンタインにお菓子作ってんだ。これまでは友だちにあげるだけだったんだけど、詩夏さんにあげる分は気合い入れてトッピングしたから」

 おそるおそると小さな手を出し、彼女がチョコマフィンを受けとった。

「燈実さんの、手作り……」

「うん。めっちゃ可愛くできたと思ってるんだけど、どうかな?」

 ラッピング袋の透明な部分から中が見える。それをまじまじと見て、気づいた詩夏さんはにっこりと笑みを見せた。

「うさぎさんですね、すっごく可愛いです」

 どうやら気に入ってもらえたようだ。オレは内心でほっとして笑った。

「事前に言おうかどうか、ちょっと迷ってたんだけど、喜んでもらえてよかった」

「当然、嬉しいですよ! というより、わたしのことを思いながら作ってくれたのかなって、考えたら……もう、胸がいっぱいになっちゃいます」

 頬を赤らめながら言う詩夏さんにつられて、オレも頬を紅潮させてしまった。

「そ、そっか。キモいって思われたらどうしようって、マジ不安だった」

 半ば無意識に視線をそらすと、彼女は少し落ちついた口調になって返す。

「そうですね、男の人から手作りのお菓子をもらったのは初めてです。でも、燈実さんってそういう可愛いところあるから、全然嫌じゃないですよ」

「そっか。本当によかった」

 やっぱり詩夏さんはいい女性だ。どんなオレも受け入れてくれる、優しい人だ。

 オレも彼女にとってそうありたいと、心の奥で思った。


 その後、予定通りに定時の頃を狙って日本支部へ行った。

「お疲れさまです」

 静さんたちがこちらを見てそれぞれに「お疲れさま」と、返してくる。

 すぐにオレは彼らの方へ寄って、チョコマフィンを配り始めた。

「今日はバレンタインデーなので、どうぞ」

 最初に渡したのは静さんだ。

「……」

 戸惑っているのか、静さんは何も言わずに受けとった。

 かまわずにオレはその隣の芽衣さんへ手渡す。

「どうぞ」

「まさか、手作りですか?」

 と、目を丸くする芽衣さんへオレは照れながら言う。

「はい、オレの手作りっす」

「えぇ、属性盛りすぎ……」

 小さな声で言う芽衣さんだが、オレにはばっちり聞こえていた。

「何すかそれ」

 苦笑しつつ返せば、芽衣さんははっとして口を閉じた。薄々感じてはいたが、芽衣さんってオタクっぽいよな。まだ害がないからいいけれど、頭の中では何がどうなっていることやら。

 なんて考えながらも、すぐにオレは凜風さんの方へ顔を向けた。

「凜風さんもどうぞ」

「おー、マフィンだ! 謝謝シェイシェイ、トウミ!!」

 目をキラキラと輝かせる凜風さん。やっぱりスイーツが好きなだけあり、とても喜んでもらえた。

「朝陽さんも」

 と、最後に朝陽さんへ渡すと、彼も驚いた様子だ。

「燈実君、作っちゃうタイプの人だったんだ」

「ええ、妹がやってるのを見てたら、自分もやりたくなっちゃって。それから毎年、身近な人たちにあげてるんです」

 きっかけはとても単純だった。妹が友達へ渡すチョコを、母親の助けを借りながら作っているのを見て、興味が湧いたのだ。

「なるほどね。ありがとう」

「どういたしまして。お返しは別にいらないので、気にしないでくださいね」

 にこりと笑ってみんなに言ってから、オレは背中を向けた。

「二課にも配ってきます」

 少し急ぎながら廊下へ出て、二課を目指す。まだみんないるといいな。もう帰っちゃってたらしょうがないけど。

 階段を一段飛ばしに上って廊下を進んでいくと、ちょうど伊織いおりさんが出てくるところだった。

「あ、伊織さん!」

 オレが駆け寄っていくと、伊織さんは「お疲れさま。何か用事?」と、たずねてくる。

「はい、今日はバレンタインデーなので」

 鞄からチョコマフィンを取り出し、差し出した。

「どうぞ」

「えっ、くれるの?」

「はい。お世話になっているので」

「わああ」

 伊織さんは嬉しそうに笑い、受けとってくれた。

「ありがとう。もしかして手作り、だよね?」

「はい、そうです」

「うわあ、すごいなぁ。燈実君、お菓子作れるんだ」

「まあ、簡単なやつですけどね。あ、お返しはいらないんで」

 と、オレが伝えたところで扉が開いた。

「何してんの、あんたたち。邪魔よ」

 出てきた千咲ちさきさんが呆れたように言い、オレたちは慌てて扉から離れる。

「あ、ごめんっ」

「すみません。あ、千咲さんももらってください」

 すかさずオレはチョコマフィンを彼女へ手渡した。

「え、くれるの?」

「はい。オレの手作りっすよ」

「……可愛いところあるのね」

 と、どこか神妙な顔で言いつつ、千咲さんはチョコマフィンを鞄の中へしまった。

「ありがとう」

「いえ、お返しはいらないんで」

「そう」

 そして歩き出した千咲さんだが、何故か廊下の途中で立ち止まった。かと思えば、ちらちらとこちらを見てくる。何か気になることでもあるのだろうか。

 すると、伊織さんが何かを察した様子で言った。

「まだみんな、中にいるよ」

「あ、それはよかった。すぐに渡してきます」

「うん」

 伊織さんにうながされるようにして、オレは扉を開けた。


「お疲れさまです」

 と、声をかけると中にまだ四人がいた。

「燈実君、どうしたんですか?」

 と、近くにいたラナさんが寄ってきて、オレは鞄からラッピング袋に入ったチョコマフィンを取り出す。

「バレンタインデーなので配ってるんです」

「わあ、お菓子! ありがとうございます、燈実君」

 にこりと笑いながらラナさんが受けとってくれて、オレはすぐに帝人さんの方へ寄った。

「帝人さんもどうぞ」

「おう、ありがとう。三倍返しとか言わないよな?」

 冗談めかして言う彼へオレはくすくすと笑う。

「言いませんよ。むしろ、お返しはいりません」

 それから元夢さんと――ボサボサの黒い短髪の男性の方へ。

「お二人もどうぞ」

 と、それぞれに渡せば、持ってきた分のチョコマフィンが綺麗になくなった。

「へぇ、手作りか」

「はい。毎年身近な人にあげてるんです」

 元夢さんはにやりと笑って、「ありがとう、いただくよ」と、返してくれた。

 一方、それまで彼と話をしていたらしい男性が神妙に言う。

「身近って、俺と会うの初めてじゃんね?」

 思わずドキッとするが、二課の最後の一人であるその人はにこにこと微笑んでいた。

 少し緊張しつつ、オレは名乗る。

「はじめまして、外野との燈実です」

「うん、はじめまして。過福寛太かふくかんたですー」

 ゆるい。口調や雰囲気が圧倒的にゆるい。

「えっと、これからお世話になると思うので、そういうことにしておいてください」

「それはどうだろねー? まあ、もらうけど。ありがとう」

「あ、はい」

 独特なペースの人だ。笑ってるせいか、目が細くて人の好さそうな感じはする。痩せ型で背は高く、たぶん、朝陽さんと同じくらいはあるだろう。

「それにしても、やっと会えましたね? でも、もしかしてもう二度と会えなかったり……します??」

 ずっと気になっていたことをたずねようとして、オレは二人へ言った。

 元夢さんと目を合わせてから、寛太さんはどこか楽しそうに言う。

「そうかもねぇ。俺、だいたい外にいるからさぁ」

「外で何を?」

世界線タイムラインの確認さ」

 急に聞き慣れない言葉が出てきて、オレは思わず首をかしげてしまった。

 寛太さんは口角を少しだけつりあげて説明する。

「俺の能力は『過去見グゥォチュジィェン』って言って、その場所で起きた過去を見ることができるんだ。で、最近マンデラエフェクトが多いでしょ? 今いる世界がどうなっているのか、過去を見て回ることで世界線を特定しているのさ」

「おお」

 何だかすごそうな仕事だ。すると今度は元夢さんが口を開く。

「寛太にしかできないことだからな。こっちにいるのは週に一日か二日で、あとはずっと外だ」

「だから今日会えたのは、めっちゃラッキーだったねー」

「なるほど。そういうことでしたか」

 まさかそんな仕事までやっていたとは驚きだ。世界線を特定しているなんて、まさにファンタジーでレストレーショナーっぽくて、かっこいい。

「まあ、特定したところで何にもならないんだけどねー」

 と、寛太さんが机の上に置いてあった鞄を手に取った。

「そんじゃ、お疲れでしたー」

「おう、お疲れー」

「お疲れさま」

 帝人さんたちがそれぞれに返し、オレは元夢さんへ視線をやった。

「重要な仕事じゃないんですか?」

「いや、重要だ」

 そう答えつつも、元夢さんは何故かため息をつく。

「重要だからこそやらせているんだが、特定したところで何のメリットもないのは確かだ。活かす方法も見つかってないしな」

「マジすか」

 どういうことだよと内心でツッコミつつ、オレも用事が済んだので帰ることにした。今日はまだ日課のトレーニングもしていないし、家に帰ったら、きっと妹の用意したチョコレートが待っている。早く帰ってやらないと悪いだろう。

「それじゃあ、お疲れさまでした」

「ああ、お疲れさま」

「お疲れー」

 元夢さんや帝人さんの声を背中に扉へ向かう。

 出ていくのとほぼ同時に、ラナさんの「あの、元夢さん」と、言う声が聞こえた。きっとチョコを渡すのだろう。

 思わずにやけてしまいながら階段へ――向かう途中に、寛太さんと千咲さんがいた。

「あれ?」

 二人の雰囲気がちょっと違うのを感じ、オレは思わず壁際へ身を寄せてしまった。今さら何もなかった顔をして、通り過ぎることもできない。

 視線をそらし、おずおずと千咲さんが鞄から小さな箱を取り出す。

「そ、その……別に、本命とかじゃないです。義理です、けど」

「えー、嬉しいなぁ」

 寛太さんが箱を受けとると、千咲さんが顔を真っ赤にして彼を見上げた。

「こっ、ここ、今度! また、その、二人でご飯、とか……」

 だんだんと声が小さくなる千咲さんだったが、寛太さんはにっこりと微笑みながら返した。

「うん、いいよ。また二人でご飯、食べに行こう」

 ぱっと嬉しそうな顔をしたかと思うと、千咲さんは「お疲れさまでした!」と、駆けていった。

 すごいところを見てしまった。しかしオレも帰りたい。

「えっと……すみません、見ちゃいました」

 オレがどぎまぎしながら近づいていくと、振り返った寛太さんは言った。

「ああ、別にかまわないよ」

「千咲さんって、あんな顔もするんですね。ちょっと意外でした」

 いかにも乙女といった表情で、ちょっと可愛いと思ってしまった。

 寛太さんはくすりと笑って階段の方を見る。

「可愛いでしょ、ちーちゃん」

「ええ、まあ」

 年上の彼女を軽率に可愛いとも言えずにごすオレだが、寛太さんは言う。

「普段はクールでストイックだけど、めっちゃ可愛いところあるんだよねー」

 ふとオレは、彼が手にしたままの箱へ視線をやった。

「それ、義理って言われてましたけど」

 寛太さんはすぐに返す。

「あの様子から見て、そんなわけないじゃん?」

 さすがは大人だ。ちゃんと彼女の気持ちに気づいていたらしい。

「ですよね」

 と、オレは返してからたずねた。

「ちなみに千咲さんのことは、どう思ってるんですか?」

 微笑んでいた顔をさらににっこりとさせて、寛太さんは穏やかに言った。

「それはもちろん、めちゃくちゃに泣かせてやりたいねぇ」

「えぇ……」

 苦い顔をするオレへ、寛太さんは楽しそうに笑った。

「あはは。高校生にはまだ理解できないかー」

 そしてのんびりと歩きだし、オレは不愉快なんだかよく分からない気持ちになり、ため息をついた。

 寛太さん、よく分からない人だ。悪い人ではないはずだが、ちょっと……いや、あまり仲良くなりたくないかもしれない。


「食べちゃうの、もったいないなぁ」

 詩夏は自分の部屋で一人、机の上に置いたチョコマフィンをながめていた。

 袋から取り出したはいいものの、その見た目からなかなか手が出せずにいる。

「ふふっ、可愛いうさぎさん。これはこれで燈実さんらしいかも」

 細長い板状のホワイトチョコレートが左右に刺さっており、つぶらな瞳と鼻まである。実に可愛くトッピングされていた。

 詩夏はふと思い立ち、脇に置いたスマートフォンを手に取った。

 すぐに写真を何枚か撮り、再びスマートフォンを机の上へ置く。そして覚悟を決めて食べようと、手を出した時だった。

 入り口の戸がノックされ、母親の声がした。

「詩夏ちゃん、ちょっとお話があるの。入ってもいいかしら?」

 はっとして顔を向けた詩夏は、すぐに返した。

「はい、どうぞ」

 すっと戸が開き、母親が中へ入ってくる。

「何の話ですか?」

 と、立ち上がった詩夏だが、母親は怪訝けげんそうに机の方を見ていた。

「それは何かしら?」

「え?」

 彼女の指さしたのはチョコマフィンだ。

 詩夏は思いがけず戸惑いつつも、正直に答えた。

「お付き合いしている方からもらったんです。今日はバレンタインデーだから」

「え、男性よね?」

「はい」

「でも、それってどう見ても……」

 母親は困惑している様子で詩夏を見る。

 嫌な予感を覚え、詩夏はすかさず返した。

「今の時代、お菓子を作る男性なんてめずらしくありません。それに、わたしはうさぎが好きだから、可愛くしてくれたんです」

「そう? だけど、素人の作ったものでしょう? そういうものはあまり……」

 と、難色を示され、詩夏の胸が傷つく。母親も裕福な過程で生まれ育っており、いいものだけを食べて育ってきた。詩夏もまた同じではあるものの、そうではない世界のことも知っていた。

 賢い詩夏は感情に流されることなく、母親へたずねる。

「それより、何のお話ですか?」

 しかし母親は困った顔のままで言った。

「よく聞いてね、詩夏ちゃん。やっぱり、詩夏ちゃんには達希たつきさんの方がいいと思うの」

「え……?」

「達希さんはちゃんとしたお家の生まれだし、学歴も立派で聡明な好青年だったでしょう?」

 かろうじて保っていた冷静さがかき消える。

「何、言って……」

 悲しみと悔しさがぶわっとわきあがり、詩夏は頭が真っ白になる。手が、唇が震える。

「だから、今の彼とは別れるべきだと思って、話を――」

 すぐに心が拒絶した。

「お母さまには関係のない話です! 出て行ってください!!!」

 思わず大きな声をあげてしまうと、視界も涙でにじんだ。

 ますます困惑した様子を見せながら母親は言う。

「何を言うの。私は詩夏ちゃんのためを思って」

「いいから出ていって!! わたしは絶対に燈実さんとは別れませんっ!!」

 母親の背中を力任せに押して廊下へ出させる。

「でも、詩夏ちゃん」

「わたしは最初から言っているでしょう!? 達希さんと結婚する気はないんです!!」

 戸をいきおいよく閉めると、涙が頬を伝って畳へ落ちた。

「……詩夏ちゃん、よく考えなさい。庶民が相手では釣り合わないのよ」

 すたすたと母親の去っていく音を聞き、詩夏はその場にしゃがみこむ。

「そんなの……分かってるけど、分からない、です」

 育った環境が違いすぎて、価値観にも差があるのはすでに感じ取っている。庶民的すぎるのは確かであり、話が合わないこともある。

「でも、でも……」

 それでも詩夏は彼に惹かれていた。真面目で素直で優しくて、一生懸命努力をしていける彼だから、詩夏は好きになったのだ。自分にはないものを持っている彼だから、そばにいたいと思ったのだ。

「燈実、さん……」

 ぐずっと鼻をすすって、詩夏は机の上に置いたままのチョコマフィンを見つめた。

「絶対、別れないもん」

 自分へ言い聞かせるように口に出してから、詩夏は涙を袖でぬぐう。そして机の前まで戻ると、思いきってチョコマフィンへかじりついた。

 もぐもぐと何度か咀嚼そしゃくして、ゆっくりと飲みこむ。

「……美味しい」

 庶民的な味だった。詩夏は不思議と気分が落ちついて、少しだけ頬をゆるめた。母親に何を言われようとも、やっぱり彼のことが好きだった。

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