全世界記憶喪失

晴坂しずか

第一部 命の価値と天邪鬼

第1話 ひとりぼっちと庇護円

 スマートフォンのアラームで目が覚めた。枕元にあるそれを手探りし、すぐに止める。

「ふあぁ」

 寝ぼけまなこであくびをしてあおむけになる。昨夜も暑かったせいか、タオルケットは足元で丸まっていた。

 一学期の定期テストが終わって、あとは夏休みになるのを待つだけだった。今日も学校に行くのだるいな……なんて思いつつ、上半身を起こした直後だった。

 自室の扉がノックもなしに開かれ、どこか気の抜けた顔の父親が入ってきた。

「えっ」

 と、驚いたのは父親の方だ。

「え?」

 まるで知らない人へたずねるように親父が言う。

「ああ、すみません。その、ここは誰の家、なんでしょうか?」

 オレは状況が把握できず、呆然とするばかりだ。だってここ、自分家じゃん。

 すると父親は何を思ったのか、扉を閉めて戻っていった。

「……は?」

 何が何だか分からない。オレは夢を見ているのか? さっきのは父親だよな? オレの親父だよな?

 落ち着かない気持ちになり、すぐに布団から出てリビングへ向かった。

「だ、誰……?」

 リビングで怯えていたのは妹だった。生意気盛りの中学一年生、普段ならオレへの挨拶は「ちゃんと寝ないと背伸びないよ」なのに。

 妹からは気の強さがすっかり消えており、おどおどとした様子でこちらを見るばかりだ。

「おい、何言ってんだよ。からかってんなら――」

 言いかけたところで妹が首を振る。

「ち、違います! っていうか、ここ、どこですか?」

「は?」

 今度こそオレは目を丸くする。同時に胸の奥がざわりとして、全身に嫌な感じがしてくる。

 変なのは父親だけじゃなかった。妹も変だ。――それなら母さんは?

 はっとひらめいてオレは問う。

「母さんはどこだ?」

「お母さん? えっと、分からないけど、知らないおばさんなら、あっちの部屋に」

 と、妹が指したのは両親の寝室だった。

 寝室の扉を開けると、ベッドの上で呆然としている母親がいた。

「母さん、どうしたんだよ」

 と、声をかけて寄っていくと、母さんはびくっとした。

「ど、どちら様ですか?」

「え? 嘘だろ、母さん」

「わたしには、あなたみたいな息子は……」

 おかしい。

 世界がおかしくなっちまった。

「オレのこと、覚えてないのか?」

 たずねると母さんは首をかしげた。

 父さんと妹も「知らない」「覚えていない」と、戸惑った顔で言う。

 リビングへ戻ってテレビをつけると真っ黒だった。テレビが壊れたのではない、どのチャンネルも番組を映していないのだ。

 自室に行き、スマートフォンを手に取った。友人へ連絡を入れてみるが、反応がない。いつもなら、すぐに既読がつくはずなのに。

「クソッ、何が起きてんだよ」

 無性に苛立って、スマートフォンを布団の上へ放る。

 家族のことを忘れ、今いる場所すら分からない両親と妹。

 何も映らないテレビ。

 反応が返ってこない友人たち。

 絶対に何かがおかしい。

 すぐに制服へ着替えて、棚にあった食パンを一枚つかみ、外へ出た。


 家から出てまだ五十メートルほどなのに、オレは異常を感じていた。

 どこからか子どもの泣き声が聞こえる。それもひとつではなく、あちらこちらから。

 それだけでも怖くなるのに、近くの家から出てきた高齢の男性が言う。

「すみません、ここはどこですか?」

 思わず戸惑うオレへ、彼は困惑の表情を向けてきた。

「実は、今朝目覚めた時から、知らない場所にいまして。ああ、いや、自分のことも、実はよく分かっていないんです」

「……マジすか」

 まだ一口しか食べていない食パンが、手からぽろりと落ちる。頬が引きつった。

「何かご存知でしたら、ぜひ――」

「すんません、ちょっとオレにも時間が欲しいっていうか!」

 急いで駆け出し、男性から離れる。

 やっぱり世界がおかしくなっているんだ。

 家族だけではなく、他の人も記憶がないんだ。ということは、友人たちも?

 怖い。何でだ、何でだよ。怖い。

 今すぐ叫び出したい衝動にかられながらも、こらえて走り続ける。

 駅へ着くとシャッターが閉まっていた。中へ入れない。

 踏切の方へ行き線路を見るが、電車はまったく走っていなかった。いや、それどころか――車すら走っていない。

 そういえば自転車も見かけなかったし、普段ならたくさんいるスーツ姿の人々や、制服を着た学生たちの姿もない。

 気がついた瞬間、オレの中の恐怖心がむくりと大きくふくらんだ。

「あ、あああああああ! 何なんだよ、何なんだよもう!!! 意味分からねぇよ!! どうして誰もいないんだ!? いったい何が起きてるんだよ!?!?」

 口から出るままに叫ぶと、少し気分が落ち着いた。

 ふうと息をつきながら、警報機のそばでしゃがみこみ、あらためて街をながめる。

 車の走っていない車道。

 人の姿はあっても、ここがどこだか分からずさまよっている様子だ。

 子どもの泣き声はどんどん増えていく。赤ん坊だけでなく、小学生や中学生、大人まで泣いているみたいだ。

「オレも、泣きたい……」

 どうしてオレだけが記憶を持っているんだ? どうしてオレだけが、この異常事態に気づいているんだ??

 いや、もしかしたらオレがおかしいのか? オレはオレだよな? ここはオレのいていい世界だよな???

 思考はうまく働かず、出口のない迷宮に入りこんだみたいに、ただ不安が増していく。

「――ああ、だけど」

 思えばオレの人生、ずっとこんな感じだったな。

 確か、小学一年生の時の遠足で、オレだけ置いて行かれたのが最初だっけ。あの時は周りの大人が助けてくれたけれど、怖くて泣いたのを覚えている。自分だけ置いて行かれたことを、ひどく恐怖に感じたのだ。

 中学では、いつもオレだけあまっていたな。二人一組になる時はいつも相手がいなかった。いじめられていたとか、そういうのとは違う。ただ何故か、いつも奇数であまるだけ。

「……こんな時でも、オレはみんなと同じになれないのか」

 ずっと、みんなと同じになりたかった。一人ぼっちにされるのが嫌だった。奇数は嫌いだ。

 奇数じゃなくても、やっぱりオレだけがみんなの中には入れてもらえない。孤独になるしかない。

 ああ、本気で泣きたくなってきた。

 これが悪い夢ならいいのに。オレの人生、これからどうなっちゃうんだ。

 オレもみんなみたいに記憶がなければ、こんな風に、道端で泣きそうになることはなかった。

「何で……何でだよ、マジで」

「教えてあげようか?」

 びくっとして顔をあげると、いつの間にか目の前に見知らぬ少女が立っていた。

「君、レストレーショナーだよね」

「え? レス、何?」

 返しつつも立ち上がり、わずかに後ずさる。

 少女はピンク色のミニスカートを履いていたが、上は真っ黒の長袖パーカーにフードまでかぶっていた。いかにも季節外れな格好だ。

 淡い金色の髪で顔の半分ほどが隠れており、右耳の下から三編みが外にたれている。

「ボクはサン。君を排除しに来たんだ」

 は、いじょ……????

「仕事が早くてえらいでしょー? 褒めてくれていいよ」

 楽しそうに言った少女が、後ろに回していた両手を前へ出す。

 その手が大きな鎌を持っていることに気づき、オレは後ろへ飛びのいた。

「ひっ!!!」

「えー、怖がってくれちゃうんだ?」

「こ、ここっ、怖いに決まってるだろ!? っつーか、それどこから出した!? 物理的にありえないだろ!!」

 さっきまでは何も持っていないように見えたのに、彼女は両手でしっかりと鎌をかまえていた。まるで死神のようだ。

「あっ、まさかお前、死神か!?」

「いやだなぁ、そんな物騒なやつらと一緒にしないでよ」

 むすっとしたように言いつつも、にこりと口角を上げる。

「ボクはただの管理人さ。にしても、運がよかったなぁ」

「はあ? どういう意味――」

「今回の大規模なエラーが幸いしたんだよ。これに乗じて、真っ先に君を排除できるんだもの」

 彼女がくすくすと笑いながら、鎌を大きく振り上げた。

 に、逃げろ。逃げろよ、オレ! 何で足が動かない!?

 立っていられなくなり、どさりと後ろに尻もちをついた。もうダメだ、殺される――。

 ぎゅっと両目をつむり、息を止めた。どうせいつか死ぬんだから、今ここで死んだって同じだよな。

「きゃあっ!?」

 ふいに少女の悲鳴が聞こえ、無意識に両目を開けた。

 直後、目の前に誰かがやってきて、オレの腕をつかみ叫ぶ。

「逃げるぞ!」

 無理やり立ち上がらせられて、そのままどこかへと駆けていく。

「えっ、ちょ――!?」

 もつれそうになる足で必死についていき、彼が自分より背の高い男性であることに気づいた。

「あんた、誰っすか!?」

 長い黒髪をなびかせながら、男は言った。

「日本支部のレストレーショナーだ」

「はあ!?」

 説明されてもまったく分からない。

「っつーか、待って! オレ、インドア派だから、腹がっ」

「死にたいなら、今すぐに手を離すが?」

「やめてえええええ!!!!」

 せっかく助け出されたのだから、手を離されたらかなわない。

 痛くなる腹を我慢して走り続けていると、男が言った。

「越えるぞ。しばらく呼吸を止めとけ」

「!?」

 ぎょっとした直後に男がふわりと宙へ舞い上がる。オレの体も連れて行かれて、半ば無意識に呼吸を止めた。

 体の中から何かが……いや、何かの中から体が出て行くような、奇妙な感覚がした。

 ゆっくりと地面へ近づいていき、何の感触もなく着地する。

「もういい」

「ぷはっ! 何すか今の!?」

 こらえていた驚きや戸惑いをぶつけつつも、オレたちはまた地面を走っていた。

「あとで説明する」

「はあ!?」

 分からないことだらけで頭がおかしくなりそうだ。でも、今は彼についていくしかなかった。


 やっと立ち止まったのは、誰もいない倉庫の前だった。

 とっくに体力の限界が来ていたオレは、日陰のコンクリートにべたっと倒れこむ。

「死ぬ……」

 腹はもう痛いどころではない。両足も痛い。そういえば、朝食をちゃんととっていないから、空腹の限界も感じる。

 辺りをきょろきょろと見ていた男は、オレの近くまで来ると座りこんだ。

「ひとまず、まけたようだ」

「そ、そっすか……それよりオレ、わりとガチで、死にそうなんす、けど」

 ぜえはあと情けない呼吸を繰り返す。

 男はじっとオレを見つめると、怪訝そうにたずねた。

「もしかして、まだ目覚めてないのか?」

「は……?」

 少しずつ呼吸が落ち着いてきた。オレは顔をちらりと上げて彼へ問う。

「何の話っすか? っつか、何が起きているのかすらも、まったく分からないんですが」

「……そうか。一から説明するしかなさそうだな」

 と、男は息をついて、視線を前へ向けた。

「俺は全並静ぜんなみせい。この地球を守る、東アジア担当日本支部のレストレーショナーだ」

 顔立ちは整っていてイケメンだ。身長も百八十はあるだろうし、筋肉もしっかりついていてたくましい。

「その、レストなんとかっていうのは?」

「レストレーショナー、次元間を重複して存在している者のことだ」

 疲労困憊ひろうこんばいの体では、説明されてもうまく頭に入ってこない。

「そういえば、まだ名前を聞いていなかったな」

「オレは外野燈実とのとうみです」

「燈実。お前はマンデラエフェクトを知っているか?」

 心当たりはあった。

「えっと、スピリチュアルやオカルト界隈でよく言われてる、集団記憶違いですよね」

「ああ、そうだ。お前も経験したことがあるはずだが、どうだ?」

 静さんは真剣だった。普段ならこんな話しないし、はぐらかすところだけれど、オレも真面目に返す。

「あります、何度か」

 オーストラリアの位置が違うとか、某自動車メーカーのロゴが違うとか、一部界隈では有名な話だ。オレもその一端を経験したことがあった。

「マンデラエフェクトを感知できる者は限られている。感知しても、ただの記憶違いだと思いこみ、なかったことにする人も多い。だが、マンデラエフェクトは世界線をまたいで起こる、次元の揺らぎだ。感知できる者は、無意識のうちに次元間を移動している」

 難しい説明だ。全然分からない。

「その中でも以前の記憶をはっきりと持っている者が、レストレーショナーと呼ばれている」

「えーと、つまり、いわゆるマンデラーがレストレーショナーってこと?」

「そういうことだ」

 初耳の情報に、少なからず好奇心が刺激されていた。上半身を起こしてオレはうながす。

「で?」

「レストレーショナーは次元間を重複して存在している。分かりやすく言うと、三次元で死んでも、四次元や五次元では生きていられるんだ。物理的な死が訪れただけで、精神的な死ではないということだが、普通の人間は物理的な死とともに、精神的な死も経験する。それが大きな違いだな」

「ふぅん?」

 分かるような、分からないような。難しい話を理解できるだけの体力はまだ戻っていなかった。

「しかし、こうした異常事態で意識を保っていられるのは、目覚めたレストレーショナーだけだ」

「え、じゃあオレは?」

 思わず自分を指してしまったオレへ、静さんは言う。

「選ばれたのだろう、地球に」

 地球に選ばれた???

 今になって非現実的な事が起きていることに気づいた。そうだ、全然おかしいじゃないか。――でも。

「オレだけ、取り残されたんじゃなくて?」

「ああ、むしろ選ばれた。そうでなければ、お前も記憶を失ってさまよっているはずだ」

 無意識に口角が上がってにやついた。

「オレ、選ばれたんすね」

 ずっと寂しい思いをしてきた。でもそれは、地球がオレを選んでいただけ。オレは特別な存在だったんだ!

 単純かもしれないが、嬉しくてたまらなくなってくる。自分が特別なんて、誰もが夢見る展開じゃないか。

「だが、目覚めてもらわないとな」

「え? どうすれば目覚めるんですか?」

「アセンションという言葉を知っているだろう? それだ」

 ――アセンション、すなわち次元上昇。

「いやいや、無理でしょ。オレ、いろいろやってみたけど、全然できなかったんですよ!」

 と、声を大きくしてしまい、はっとした。

 静さんがにやりと口角をつり上げる。

「独学では難しいものだ。何しろ、正しいやり方というものがある」

「えっ、マジで」

「ああ。だが、今の追われている状況ではできない。落ち着ける場所がないと」

 静さんはそして腰を上げ、オレを見下ろす。

詩夏しいかを頼るしかないな」

 誰だか分からないけれど、オレも立ち上がった。

「どこかへ行くんですか?」

「ああ、テレポーテーションを使えば一瞬で行ける」

「わっ、マジで使えるんですか!?」

 フィクションだと思っていた技術に、ついテンションが上がってしまった。

 静さんは「アセンションしていれば、の話だ」と、呆れたような目を向けてくる。

 理解できず戸惑うオレへ、彼は言った。

「俺一人でならテレポーテーションできるが、燈実を連れては出来ない。お前だけ置いて行ってしまう」

 置いて行かれる――!?

 一気にトラウマがよみがえり、オレは叫んだ。

「今すぐアセンションしますううううう!!!!」

「無理だからやめろ」

 と、肩に手を置かれてオレは涙目で問う。

「それじゃあ、どうすれば?」

「詩夏にテレパシーを送って、こちらへ来てもらうしかないな。俺たちはそのためにも、安全な場所を見つける必要がある」

「目の前にある倉庫は?」

「ここだとまだ、住宅地が近い。もう少し人気のない場所が望ましい」

 なるほど、そういうものか。

「そんなことしてる間に、さっきの女の子が来るんじゃないですか?」

「大丈夫だ。俺たちがいるのは五次元だからな。やつらは三次元を探しているだろうから、すぐに見つかることはない」

「うぇっ、ここ五次元なんですか!? 何も変わった気がしないですけど!?!?」

「ああ、目覚めていない燈実にはそうだろうな。いずれにしても、感覚は三次元に投影しないと機能しない。とにかく行くぞ」

 と、静さんが歩き出し、オレは慌てて後を追った。

「五次元にいるなら、あっという間に移動できるのでは?」

「否定はしないが、五次元に留まるだけでも力を使うんだ。次の行動に支障が出ないよう、温存しておきたい」

「なるほど」

 非現実的な現実が始まったかと思ったが、妙に現実的なルールもあるらしい。それがまた信憑性しんぴょうせいを濃くしており、オレは少し微妙な気分になった。


 落ち着ける場所を探す途中、オレは空腹を訴えてコンビニへ寄らせてもらった。財布はないがスマホは持ってきていたからだ。

「あれ?」

 しかし、中には誰の姿もなかった。

「誰もいない、っすね……?」

「記憶をなくしたせいで混乱し、どこかへ行ってしまったんだろう」

 そう言って静さんは、お弁当やおにぎりの並んだ棚の前へ立つ。

「好きなだけ持っていけばいい」

「えっ、盗むんですか!?」

 さすがにそれは良心が痛む。いくら世界が混乱していて、店員の姿がないとしてもだ。

 静さんはオレをじっと見つめてから言った。

「どうせなかったことになる」

「はあ……?」

 まったく理解ができない。しかし、店員が戻ってくるとも思えない。

 しぶしぶながらオレは罪悪感を押し殺し、おにぎりを二つとペットボトルの緑茶を一本、もらっていくことにした。


 それから山奥にある廃墟を見つけ、一時的な拠点とすることにした。

 おにぎりを食べ始めたオレへ静さんが言う。

「詩夏を呼んでくる」

 さっと背中を向けて入り口へ戻っていく彼を、無言で見送った。――少しくらい休めばいいのに。それとも、ちっとも疲れていないのか?

 そうだとしたら人間じゃないのかな、などと思考をめぐらせつつ、食事を進めていく。

 ちょうど二つ目のおにぎりを食べ終えたところで、静さんが戻ってきた。後ろには小柄な女の子がついて来ている。もしかして、詩夏って女の子だったのか?

 緑茶を飲んで食事をひとまず終えてから、立ちあがって二人が来るのを待つ。

「紹介しよう。彼女は協力者であるレストレーショナーの、詩夏だ」

 と、静さんが紹介してくれる。

 女の子は一歩前へ出ると、にこりと笑った。

「はじめまして、重守詩夏しげもりしいかです」

「は、はじめまして! 外野燈実ですっ」

 詩夏さん、めっちゃ可愛い。年齢も近そうだし、ぶっちゃけ好みのタイプだ。やや外ハネ気味のショートヘアにぱっちりとした二重、着ているのは可愛いうさぎ柄の――パジャマ??

 思わず眉間にしわを寄せてしまったオレへ、彼女が言う。

「二度寝してたところなんです。こんなことになったので、とりあえず寝ようと思って」

「せめて着替えてから来い」

 と、静さんが呆れた視線を向けると、詩夏さんはにこっと笑った。

「さっそく結界、張っちゃいますね」

 オレの方へ寄ってきたかと思えば、目の前で立ち止まってじっと目を見てくる。身長差は十五センチくらいだろうか、小さな鼻と少しぽてっとした唇が何ともいい。

「目覚めてないって、本当なんですね」

「え?」

 詩夏さんがその場でくるりと回り、オレへ背を向けた。

 祈るように、胸の前で両手をぎゅっと組み、少しうつむく。そして唱えた。

「我が身より湧き出づる守りの力よ、彼の覚醒する時まで固く庇護せよ。――施錠、庇護円ビーフーイェン

 空気が一瞬にして変わったのを感じた。壁が、オレの周りに見えない壁がある。

「これで覚醒するまでは大丈夫です。敵意のある人は、この結界が役目を終えるまで近づけません」

 振り返った詩夏さんが言い、オレはぱちくりとまばたきをする。

「この、何か重たい感じのが、結界なのか?」

「あ、感じます? そうなんです、これがわたしの持つ超能力『庇護円』です」

 にこりと微笑みを浮かべた彼女を見て、オレは無性にほっとした。

「すごいな、こんな力があったなんて」

 すると静さんがこちらへ近づいてきた。

「燈実も目覚めれば、自分だけの超能力を使えるようになるぞ」

「えっ、オレも!?」

 驚きに声をあげると、詩夏さんが説明してくれた。

「超能力は人によってさまざまです。練習すれば誰でも使いこなせるものから、その人の特性を活かしたものまで、いろいろあるんですよ」

「さっきも少し話したが、テレポーテーションやテレパシーは誰でも使える能力だ。だが、詩夏の『庇護円』は詩夏にしか使えない」

「なるほど」

「燈実さんにもきっと、燈実さんにしか使えない能力があると思います」

 詩夏さんがまたにこりと笑う。あどけなくて子どもっぽく見えるのも、また可愛い。

 つられて頬をゆるめたオレだが、ふいに静さんが話を変えた。

「それより、燈実の覚醒を手伝ってやってくれ。俺は仕事に戻る」

「分かりました」

「え、どこか行っちゃうんですか?」

 静さんは早くも背中を向けており、顔も向けずに彼は言う。

「俺の仕事は、やつらからこの地球を守ることだ」

 そしてさっさと歩きだして行ってしまい、オレは少々寂しい気持ちになった。

「お気をつけてー」

 と、詩夏さんは明るく見送っている。

 いったいどうしたら……と、途方に暮れる間もなく、彼女がオレへ顔を向ける。

「燈実さんって、もしかして真面目な方ですか?」

「え?」

「だって、制服着てるから」

 急に詩夏さんから指摘されて、オレは慌てた。

「こ、これはそのっ、すぐに着替えられる服が、これだったっていうか! 平日だし、学校行かなきゃっていうか!?」

 詩夏さんはくすくすと笑うと言った。

「すぐに着替えてくるので、待っててください」

 直後、彼女の姿が一瞬で消える。

「え、マジか」

 まるで画像編集アプリで消したみたいだった。本当に一瞬だった。

 一人になってしまったオレは、しかたなく辺りをうろうろと歩き回った。

 結界はぴったりとオレにくっついてきて離れない。目には見えないのに感じるなんて、とても不思議だ。

「にしても、ファンタジーだなぁ」

 ぽつりとつぶやいて息をつく。

「超能力とか、テレパシーにテレポーテーションとか……ちょっと、いや、だいぶ信じられないなぁ」

 言葉にしておきながら、オレはそれらの存在を確かに感じてもいる。静さんの説明も、詩夏さんの説明も、知的好奇心が旺盛なオレはすっかり受け入れていた。

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