【除夜】『藪ヶ池の怪』其ノ貳

     四


「伝七よォ」としばらく考え込んでいた様子の幣六が口を開きます。

「するってェと何か?オメェが岡惚れした西洋髪のきれいな女ってのは物の怪の類だったてェことかい?」

「そこがいまいち俺には分からねェんで。女の幽霊にしては足もありやしたし、触れても霞のように掴めないなんてことはありやせんでした。けど握った手からは確かに温かみも何も感じやせんでしたし。何だか俺ァまるで屍体に化かされたってもんじゃありやせんかね?」伝七の答えに幣六は何とも云えず、唸るようにして考え込みます。

「そいでよォ、オメェはこれからどうしたいってんだい?おいらンとこまでわざわざ来て、幽霊をさかなに茶呑み話でもあるまいに」

「へい、幣六兄さんのお師匠の権八親方に取り次いで欲しいんで」

「おうおう、そこでうちの親方の名が出るったてなァどうしたこったい?」

 権八とは幣六の石工の師匠筋にあたり、当時の界隈の古老としても知られておったそうです。

「へい、俺が知りたいのはあの武家屋敷のことで。権八親方なら何かご存じではないかと」

「オメェはあれか?まぁだその幽霊だか屍体だかの女にほだされてんのか?」

「いや、そうじゃねェんで。こっぱずかしくて云いたかねェですが、兄さんにだきゃ隠し事はしませんぜ。逃げ帰った晩はガタガタ震えながら、いつの間にかうとうと寝ちまいましてね。ただ翌晩からおかしな夢を見るんで。夢じゃ俺はまたあの『藪の御池』の端に突っ立っておりやす。ただ女どころか誰も周りにゃいやせん。俺はどこか物寂しくなって、あの武家屋敷を目指す一本道に入ってくんで。そうすりゃ自然と屋敷の築地塀に至りやすな。そこまではうつつにも一緒でありやしたが、夢ン中の武家屋敷はその立派な長屋門が開きっぱなしになってるもんで。そうすっとちょいと内側の方が気になってきやす。周りには相変わらず誰もいやしやせんし、門の内を覗いても家人すらおらなんだ。じゃあちょっくらどんなお屋敷だか拝見してみますか、てんで門をくぐりやすと——」伝七はそこで一旦言葉を切り、俯くように思案しておるようです。

「それからどしたい?」幣六が先を促します。

「いや、わからねぇんで。あくまで夢ン中でやすが、屋敷ってのは沓脱くつぬぎがあってかまちがあって玄関の間って風に続きやすでしょう?ところが門をくぐって中庭に入り、そっから見える建物ってのはまるで“御堂みどう”なんでやす。その堂も妙な作りで、瓦屋根の両端が迫り上がるようにして尖ってる。武家屋敷ではまず使われねェような朱塗りの柱なんぞがそこかしこに在って。そのおかしな御堂の入り口を覗いて見るべェってとこで夢から醒めるんで」

「その妙な夢と“御堂”のことまで権八親方に尋ねてこいってのかい?オメェは」

「いえ、俺の夢のことなんざどうでもイイでやすが。武家屋敷ンことは権八親方ンとこに行く用があればついでに訊いて貰えりゃアて話で」伝七はそこまで云うと、何やらハッと思い出したかのようで

「いや長々と兄さんにはつまらねェ話に付き合って頂き、失礼致しやした。今日ンとこはこれでおいとま致しやす。茶なんぞありがとうございやした。奥方さんにもよろしくお伝え下せェ」と急くかのように伝七は立ち去って行ったのです。

「なんでェ、妙な奴だな」と幣六はひとりごちるも、人情家の彼は明くる日、師匠の権八に挨拶がてら会いに行くことにしました。


     五


 宿場町とは一里ほど離れたうら寂しい森の辺に山小屋が在り、そこが権八の住まいでした。

「幣六でございやす。権八親方はご在宅ですか!?」と声を掛けると

「どなるねィ!こちとら耳は遠くねェぞ」とすぐに権八らしき老人の唸るような声が聞こえます。

「サッサと入れ、こんちきしょうが!」とまた憎まれ口が聞こえてきましたので幣六は苦笑いしながら、作業場と思しき半分屋外になった多数の石の転がった方に向かいます。小柄ですがずんぐりと肩幅のがっしりとした体格で、髭も髪の毛もこんもりとしてどこか若々しく見える老人が、叩きのみで何かを彫塑ちょうそしている作業風景がそこにありました。

「どうも、お師匠。お忙しいようで」と幣六が挨拶すると。

「そう見えるかい?兵六玉のおめぇにお師匠呼ばわりされる謂れはねェぞ、こっちゃあよ」と悪口あっこうで返されるのは常でございました。ただこの権八、口は悪いモノの面倒見は悪くなく。半ば押しかけ弟子として勝手に入門してきた幣六の事を追い出すでもなく。見様見真似で仕事を手伝うのを憎まれ口を叩きながらも、その表情はどこか穏やかに見守っておったのです。

「唐突なんですがねお師匠、おいらの遊び仲間ってのが『藪の御池』の辺りで女の幽霊を見たって云うんで。そいでその幽霊ってのが武家屋敷に住んでた後家さんのもんなんじゃねェかと。まァ世迷い言に聞こえるでやしょうが、もしそうならあの武家屋敷の謂れが知りてェと。物知りのお師匠にどうか尋ねてくんねェかと頼まれやしてね」

「そいつがオレの仕事を邪魔する要件ってわけかい?一体いつの時代の話してんだ。武家屋敷なんて云われてるがな、ここいらに城が建ってたなんてそれこそ江戸の将軍が秀忠公ひでただこうの頃の事だ。もう三百年は経ったろう大昔だ。とっくのうにお侍さんなんざ居やしねェ。形ばかりに門構えが残ってたってな。中身が別モンなら、そら武家屋敷とは呼ばねえだらァな」

「それってのはつまり立派な築地塀と長屋門が残ってても、屋敷の方はもう残ってねェてことですかい?」

「ここいらだってそうだろうよ。そら昔は街道沿いに大層賑わって城下の宿場町として発展したまではイイが、なにしろ火事が多くてよ。明治の大火で宿場町風情なんざあらかた失われたらァな。今はそれこそ外面だけ整えて、中身は別モンだろうよ」

「じゃあ伝七が見たっつう後家さんの幽霊てのは何モンなんで?」

「後家さん後家さん云うがなァ、オレが知ってる武家屋敷の後家さんてェのは未亡人でなくて『行かず後家』のお嬢さんだわな。確かおシヅさんだかって名めェだったか・・・」

「そいつです!おいらの仲間の伝七って野郎が、そのおシヅさんて女の幽霊だかに池に引き摺り込まれそうなったて話なんですわ」

「おシヅさんねェ・・・、そのお嬢さんが生きてたってのもオレのガキの時分だからな。明治の昔、日露の戦争よりも前の話だ」

「そのおシヅさんが恨めしやと祟るようになった因縁話か何かはあるんで?」

「いんや、誰か人様を激しく恨むような話ってのは聞いたことがねェ。ただ箱入り娘だったてのと、嫁ぐことができねェほどの『ご病気』だったてのは聞いた話だ。その最期も世を儚んでか自害しなすったとな」

「やはりそりゃ、藪の池での入水自殺で?そのご病気ってのは一体何なんで?」

「そう人様のことズケズケ根掘り葉掘り探るんでねェよ、こん兵六玉が!ご病気ったって心の臓が弱ェとかではねェ。今の時代で云う“神経”の病だって話だ。憑き物筋ってわけでもねェのによお、どっかで恨み買ったんだかお家そのモンが呪われたんだか、とにかくお嬢さんが何かに取り憑かれたなんて噂もあった」

「ツキモノってなァ何です?お狐が憑いたとかお犬様がどうとかのアレですかい?」

「あゝよ。オレも詳しくは知らねェが、大体は動物の霊魂なんぞが人に取り憑いて悪さするってな話だ。ここいらよりもっと田舎にゃたんとある話なんだろうが。腐ってもかつては栄えた宿場のここらじゃほとんど聞かねェ話だな。咒師まじないしなんてのは江戸の昔じゃそこらに居たろうが、今じゃ科学で証明できないモンはも何でもイカサマペテンの類よの」

「それでおシヅさんの亡霊だかってのはいつ頃から現れだしたんですかい?」

「オレを圓了えんりょう博士だかのように扱うんでねェ!そんな噂を小耳に挟むようになったのは近頃だろうがよ。所詮そんなどこにでもある幽霊話なんぞ本気にする奴ァいねェ。けどよ、あの『藪の御池』に関しちゃそれだけじゃねェって話だ。オレの知ってるとこだとおシヅさんの自死ってのが入水かどうかは知れねェ。それってのは『むくろが上がんなかったから』って理由があんだ。要は実際は『行方知れず』だ。それだけじゃねェ。おシヅさんがいなくなる前後から、つまり明治の昔からよぉ『あの池で入水したモンの屍体は上がったことがねェ』って話だ。あの池で入水した女が『シヅ』って名前なだけでなく、あの池には骸を引き込んで浮き上がらせねェ『お沈め様』ってヌシがいるのがホントのとこじゃねェのかって話だ」

「池んぬしのお沈め様でやすか!?伝七を池に引き摺り込もうとした女の正体はそいつなんですかい?」

「漢字の御に沈める女と書いて『御沈女おしずめ』って物の怪じゃあるまいか?なんてな。そいでよ、オレは丁度さる高名な比丘尼びくに様から、その祟りだかを鎮める為の地蔵作りを依頼されてな。なに、担がれてるわけじゃあねェさ。前金はたんまり貰ってる。だからよ、オメェもそんなにお仲間の命が大事ってんならオレの仕事を手伝うこったな。まぁオメェの方から巧いこと話題にする前に乗ってくるとはオレも思わなんだが」

「そのビクニ様ってのは尼さんのことですかい?その尼さんが法力で物の怪を封ずる為の地蔵が必要だと?」

「あゝよ。なんたって『百躰地蔵』だ。そら『千躰地蔵』にゃ及ばねェが“百躰”だって生半なまなかな仕事じゃねェぞ」

「地蔵が百躰も必要ってことはつまり——『百人は沈んでる』ってことですかね?あの藪の御池に」

「比丘尼様の見立てじゃァそういうこったな。なんたって遺体が上がらねェんじゃ数えようもねェ事だかんな。何人沈んだかどうかは御沈女おしずめのみが知ってるこったよ」

「けどよォお師匠、それもおかしかないですかい?明治の昔から続いてるったって百人かそれ以上も入水してる『人喰い池』ってのなら、もっと人の噂に乗るでしょうよ。おいらなんか今日この時まで知らなかった話ですぜ?」

「別にオメェが兵六玉の唐変木だから知らなかったわけでもあるまいて。何度も云うが仮令たとい隠れた自殺の名所でも『肝心の遺体が上がらねェ』んじゃ風聞にもなるめぇよ。官憲だって間抜けじゃねェ。何度か池をさらってみても、鯉だの鮒だのしか見付かりっこねェんじゃ『この池じゃ入水はなかった』て結論にもならァな」

「じゃあ一体、こんなこと云うと怒られちまうかもですが、お師匠はそんな人の知らざる“内密”な話をどっから仕入れたんでやすか?」

「たまたまよ。きっかけはオメェと同じ幽霊の噂だ。そんな美人の幽霊なら逢ってみてェもんだと、そっち方面に詳しい連中に話を聞いてた。それに件の比丘尼さん、オレに仕事を周旋してくれる良い方でな。その玄空庵主げんくうあんじゅさんに藪の池周辺の幽霊話をしたら、わざわざ御自分で調べられたそうだ」

「その玄空だかって比丘尼さんに任せりゃ、その物の怪を退治して万事が万歳ってことになりやすか?」

「おいオメェ、その前に地蔵作りが肝心だ。玄空さんが云うには沈んだ人数分の地蔵供養と、『祓い給い、清め給え』と奉る“ほこら”が要るって話だ。そうとわかりゃあオメェもいつまでもくっちゃべってないでオレのお地蔵作りを手伝え!」

「へい、わかりやしたよお師匠」こうして幣六はその日を見習い石工として地蔵作りに費やすことになりました。

 権八師匠の元を辞したのは丁度、日の暮れる“魔際まぎわ”であります。


     六


 そう、あたかも図られたかのように『夕間暮れのこと』にございました。幣六は一旦宿場界隈まで戻り、酒の一瓶でも買い求めるのに仲通りの辺りをぶらついておりましたが、そこで『奇妙な女』を見かけました。

 それは決して伝七が見惚れた様なきれいな女なぞではなく、むしろ真逆の印象。そう、どこか禍々しさをも感じさせる“異妖”な女でした。

 その風体はというと着衣はむしろ整った進歩的なインテリ女性を想わせる洋装で、幣六は「教師のようだ」という印象を持ちました。

 ただしその色彩は決して地味ではなく、燃えるような“深緋色こきあけいろ”。それが夕に傾いた陽射しの中で揺らぎ、何か不吉な象徴に視えたのは云うまでもございません。

 また何より“異妖”さを感じたのはその千々に乱れた「藪のような蓬髪ほうはつ」でありましょう。お仕着せの衣装に対して、髪はまるで浮浪児のような有り様ですから、そのチグハグさは仮令たとい幣六以外の者が見ても奇怪な印象を与えたかと思います。しかしながら仲通りを流れる多くの群衆はさほどその女を気にしてないかのように見えます。いえ、むしろもっとはっきり云うなら幣六には

「この妙な女はおいら以外に見えちゃいねェんじゃないか?」とすら思えたのであります。

 そうなると、すこぶる気になってくる。もはや女から目を離せなくなる。伝七のように跡をいて行きたくもなる。その気持ちはよく解るのでした。自分の判断に疑問に感じながらも、彼はごく当たり前かのように『蓬髪の女』方へと足を向けておりました。

「そういや伝七も云ってたが、最初は女の後ろ身しか見えなかった。この女も同じだ」と思い起こしたように、その女の背面しかまだ彼は知り得ませんでした。同時に「正面からそのツラ拝みてェ」と伝七の思考を辿ったかのように幣六も考えます。

「ただ伝七の時と違うのはこっちの女には妙な臭いがするってとこだ。それにしても何の臭いだ?とてつもなく生臭ェ。ついでに化粧粉の匂いらしきモンまで混じって五、六間ろっけんは離れてるのにここまで漂ってきやがる」。


 彼は自分でも不思議に思うのでした。異様な風体に鼻を捥ぎたくなるほどの悪臭。普通の神経なら真っ先に関わり合いになろうとするのは止したくなる類の女です。ただそれを追跡をする意義はございました。なぜなら蓬髪の女の目指す先は伝七が怪異に遭った“藪”の方としか思えなかったのです。

 女はふらふらと左右に酩酊しているかのような千鳥足で、それでも着実に繁華を抜け街外れに至り、更にあらかじめ行き先を定めているかのように足取りを変えません。幣六は声を掛けて足止めすることも考えましたが、どうにも鼻に纏い付く悪臭のせいでその距離を詰められずにおります。しかしながら女の追跡を止めることはせず、ついに女は藪の入口へと至りました。そこへ幣六も鼻を塞ぎながら追いつき、ようやく『蓬髪の女』の横顔を目の当たりにしたのです。


 幣六はその女のかおを“能面”であるかのように錯覚しました。木目に穴を穿っただけのように素っ気ない眼窩に、黒目がちの眼球が窮屈に収まっております。その黄味がかった肌はそれほど年齢を重ねているようには見えませんが、砂地のように乾燥し生命力を感じません。

 能の女面に『曲見しゃくみ』という、その名の通り顎がしゃくれた中年女性を表したモノがございます。もちろん女は実際面をかぶっていたわけではございませんが、曲見に似た「人で無き者の“面”」のような顔貌でありました。


 幣六は恐れ慄き女から一歩下がります。そうした幣六の挙動を一切我関せずといった態度で、女はひとり藪へ分け入って行きました。幽鬼のような乱れ髪に能面のような顔の女。常人でしたらこの時点で躊躇せず逃げ出したことでしょう。しかしながら彼は一時とはいえ勝負の世界に身を置いた、元博徒であります。ここでむざむざと引き返しては男が廃るといったモノでしょう。怯気付いた心を瞬時に平常に戻し、女の追跡を再開致しました。

 伝七には通い慣れぬ一本道でしたでしょうが、在所の幣六にとっては幼き頃に幾度か通った道でございます。女の放つ異臭に苦しみながらも、彼は伝七が誘い込まれた池の端へといつの間に着いておりました。

 女はと云いますと、岸から水面へ何の躊躇もなく足を入れました。幣六はそれを止めるようなことはせず

「アレはそういった化生けしょうの類に違いねェ」と達観してその光景を眺めておりました。伝七が見たという『耳隠しの女』とこの『蓬髪の女』にどういう関係があるのか彼には解りませんが

「あいつがどんな姿で化けて出てくるか?それは見かけた人間次第で変わるのかもしれない」という事を直感していました。女はそのまま淵へ淵へと沈んで行き、遂には頭まで水面に隠れ見えなくなりました。


 しばらく経っても気泡の一つすら浮かんで参りません。幣六は「やはり物の怪であったか」と断定し、池に対して背を向けました。その時、ザバッとした水音が一つ。振り返ると「つぶし島田の芸者のような女の首」がニュウっと水面から現れ出でました。思わず見惚れるほどにきれい廿にじゅう前後の若娘です。

 幣六は「なぜ蓬髪の能面女が、島田の芸者小町とすり替わった?」と著しく混乱しました。しかも島田髷しまだまげの女の首が浮いているのは水底も深い辺り、岸辺から六、七間しちけんは離れていたでしょう。

「なぜあんな淵に女がいる?遊泳しているにしても、髷の形が崩れていないのも如何にも奇怪おかしい」そう幣六が怪訝に思うのも無理はありません。

 それだけでなく、その女の頸は轆轤ろくろを廻すように「擦る擦る、擦る擦る」と水面から際限なく伸び上がっていきます。


 一説には轆轤首というのは喉に「紫色の筋」があると申します。その代わりにこの『島田髷の女』には、喉の下あたりに手術痕のような『継ぎ目』がございました。通常の人間ですと首と肩が繋がる辺りでございましょうか。ただし首の伸びたその女は『継ぎ目』の上までは「人の白肌」であるものの、『継ぎ目』から下の「擦る擦る」と伸びゆく部分の肌は“鱗”にみっしりと覆われていたのでございます。

「擦る擦る、擦る擦る」と注連縄しめなわのように首が二丈ほど、つまり六米ろくメートル前後も伸びた頃でしょうか。目を伏せるかのように俯いていた女の瞼がカッと見開かれ、岸辺でただ魅入られたように立っていた幣六の姿を捉えます。

 女の顔貌かおは、ただ嗤っておりました——声も出さずにカラカラと。その口はニッとして毒蛇のように横に大きく広がり。視線は狙い定めた獲物に絡み付くような眼付きで。その表情は厭らしい嘲りに満ち——ただ嗤っておるのです。


 あゝこのままでは間違いなく己は喰い殺されると幣六は本能的な恐怖に駆られました。幸い怖気が肉体を縛るようなこともなく、脚も震えてもおりません。彼は瞬時の判断で走り出しました。

 ただし幾分は動揺があったのか——来た道を戻ることはせず——なぜか池の周囲を廻るようにして伸びる右側の「武家屋敷への一本道」を彼の脚は選択しておりました。

 一度だけ振り返ると『島田髷の蛇女』は「擦る擦る」と首を伸ばしたままに、ゆっくりと水面を滑るようにして岸辺の方へ近付いて来ております。

「女を追っかけてたはずが、今度は追いかけられる破目になるなんざ洒落にもならん」と思いながら、意外にも鍛えられた駿足はすぐに武家屋敷跡の長屋門へと到達しました。

 そこで幣六が驚き見たのは伝七の夢のままに「開かれた門扉」であります。後ろから来る『大蛇女』の気配もありますから、再び瞬時の判断を求められる場面です。好奇心がそうさせたのでしょうか、彼が迷いなく門をくぐった処——そこにあったのは確かに武家屋敷とは異なる情景でした。

「それにしたって、権八師匠の云った以上だ」と思うのも無理からぬことであります。

 武家屋敷どころか大きな敷地全体の殆どが、屋敷の土台らしきモノだけを残し“更地”になっておるのです。城跡や遺構を訪れた際、「その痕跡だけを見ても往時の面影は偲び難い」といったことは間々ございますが、そのような状態を想像していただければと思います。ただし敷地奥の一画にだけ、“異質”なと表現する他ない建築物が残されておりました。


     七


 それは確かに伝七が夢で見たような“御堂”にございます。幣六はこれを「唐人屋敷か?」と考えました。恐らく“六角堂”と呼ばれる型の建造物——外に大きく撥ねたような瓦屋根に“朱”を基調とした建材と白壁の色彩的対比——それは確かに大陸由来の意匠を想わせるモノでした。また朱に塗られた正面扉の上には大きな“扁額”が掛けられ『女媧宮』と堂号が記されておりました。

 そこで再び彼の“好奇心”に火が点いたのでしょうか。バケモノに追われる危機的状況にありながら“御堂”の内部を拝見するという、匹夫ひっぷの勇に出たのであります。


 幸い正面扉には鍵は掛かっておりませんでしたので幣六は素早く身を滑り込ませると扉を閉め、内側からかんぬきを掛けました。堂の内部は香でも焚かれているのか、異国情緒を想わせる嗅ぎ慣れぬ臭気に満ちておりました。更に扉は閉ざされ、採光窓もございませんのに完全な冥暗でないのは、奥にある祭壇の燭台に数本の赤い蝋燭の火が揺れているからなのでした。

 薄暗闇に目が慣れますと、内装も外装同様に木材の部分は“朱”塗りに。壁の部分は白色に。と対比されているのが解ります。奥の祭壇には金糸で刺繍した緋毛氈ひもうせんのような布が敷かれ、その上には燭台だけでなく供物皿やいくつかの香炉が置かれているようです。

「明らかに人の手が入ってやがる」と幣六も勘付くものの「では一体誰が?」といった問いには答えは浮かびません。更に祭壇の手前——“六角堂”の中央には大釜のような常香炉じょうこうろが置かれ——そこには思わず目を背けたくほどの奇怪な“物体”が鎮座してございました。


 大釜並みの常香炉といってもそこからは薫煙くんえんが発しているわけではなく、あくまでその“物体”の容れ物としてのみの役割を負っているようでありました。窯口から見えるのも香の灰塊などではなく、何か塗ら塗らと湿り気を帯びた「ぬばたまの如く黑い、獣じみた肉塊」。その“肉塊”には「幾本もの串刺し」が植わっている様が見えます。

 俗に“首人形”と呼ばれる「頭と首に木串を通しただけ」の傀儡くぐつがございますが、それを人間大にしたモノをご想像下さい。

 打首獄門といった刑の場合“生首”といっても獄門台にそれを乗せ、晒し首とするが目的の為、仮令たとい女性の御首みぐしであっても大抵は「頸の中途」で斬られてしまい、その外観を損なうことが屢々しばしばございます。

 しかし、その肉塊に植えられた“生首”は丁度胴と繋がる辺りまで美しく「頸全体」が残され、頸から下の部分は太い“木串”に支えられ、まるで「生きた人間で作った雛人形のかしら」といった風情がございました。


 遠目にては“異妖”に見える情景でも、いざ近くで仔細にあらためて視ることで印象が一変するということはございます。この時の幣六もそのような心境でありました。一見では奇怪としか思えなかった「生首の串刺し」が——いざ手に取れるような距離で観察すると——それはそれは美しい一つの“工芸品”のように想えたのです。

胡粉ごふんを塗った人形のように白い肌に、唇と目尻にはべにが入れられ、その瞳は閉じておりましたが今にもそれを見開き、銀鈴の音色で語り出す」。そんな情景を想像できるほど生々しくも蠱惑的なそれは——『生き首』——と称して良いモノなのでした。


 その『生き首』は総計“六躰”ございました。それが植わっている「黑い、獣じみた肉塊」ははなはだ奇態にございますが——「生き首の女たち」は全員が器量好しの小町でありまして——それぞれの顔には個性もございました。

 割鹿子わりかのこ傾城けいせいのような婀娜あだな女がおります。京風の先笄さっこうに青眉の年増の色気に満ちた女もおります。奴島田やっこしまだの武家の者らしい娘は凛々しい眉と目元をしております。桃割れのわかい娘は溌溂はつらつとしたお茶屋の看板娘を想わせます。

 そういった「大正三美人」では事足りぬ「六躰もの美女の生き首」がそこには在ったのでございます。これらの中に伝七の申していた「耳隠しの女」がおるのなら是非探さねばならぬと自身に云い聞かせ、六躰の『生き首』の検分に憑かれたかのように夢中になっていた幣六でございますが、御堂の外からの“異音”には正気に戻らざるを得ませんでした。


「ずちゃ、ずちゃ——」と、それはまるで「濡れた大きなモノが歩み寄って来る」足音のようでございます。

「ずちゃ、ずちゃ、ずちゃ——」と、段々“御堂”の直ぐそこまで近付きつつ在り

「ずちゃ、ずちゃ、ずちゃ、ずちゃ——」と、正面扉の前でその重みある歩みを止めたのです。

 先ほど扉には頑丈そうな閂は掛けてあるので幣六は慌てることはせず、そろそろと逃げ道確保のために辺りを見回し——奥の祭壇側の左右に「閂が掛けられていない二つの扉」があるのを確認し——扉は三つある、例えどれか一つを破られても逃げられると判断しました。

 とその時、正面扉側——御堂の外からわかい女の声で——“童唄わらべうた”が聴こえて参りました。


〈な〜〜かのな〜〜かの小坊主さん——や〜〜ぶのお池に行ってきておくれ——〉

 それに応えるように『生き首』の一つが唄いました。

「ヌ〜〜シが怖くて行かれない——」

 突如唄い出した『生き首』に幣六は驚愕するも、御堂の外からの“童唄”は続きます。

深泥みどろヶお池に行ってきておくれ——〉

 それに応えて二躰目以降も次々と

「お女郎怖くて行かれない——」

〈お女郎ヶ池に行ってきておくれ——〉

御沈女おしずめ怖くて行かれない——」

〈お隠れ家池に行ってきておくれ——〉

身罷みまかり怖くて行かれない——」


 五躰目と六躰目が交互に唄う曲調は『かごめかごめ』のように替わり

「シ〜ズメ、シズメ〜、池の中のヌ〜シ〜は〜」

「いついつ出〜〜る〜」

「夜明けの晩に〜」

「ヘ〜ビとヒ〜ヒがまぐわった——」

 そして、正面と背後“七躰”の御首が一斉にこう問いを掛けます。


〈〈〈〈〈〈〈うしろのしょうめんだ〜〜〜〜〜〜〜れ???????〉〉〉〉〉〉〉






【幕間・其の一】〜大学生・中山桂馬の視点〜


「これにて最初の御噺、『藪ヶ池の怪』は終いでございます」とぬらり翁は告げた。

「その後の話と致しましては、伝七はあれから行方知れずとなりました。幣六は命からがら“御堂”から抜け出し、この一連の話を権八親方へと伝えました。その話が玄空ばば様の耳に入り、最終的にわたくしにも伝わったという次第でございます。但し、まだここでは藪ヶ池の“因縁”は終わらぬのでございます。御賢察であろう皆様に於かれましては、あの物の怪の“正体”は『ろくろ首』『濡れ女』『沼御前』辺りであろうかと考えられる方もおられるかとは存じます。けれどまたそれとは“別怪”に成りましょうと予告致します。ただ怪談噺としては切りが良いのでここで一旦の終わりとし、続きは後の御噺と致しましょう。ジジイばかりがお噺して、お若い方を退屈させては成りませぬでな。では次の語り手は、そちらの方にお願いしても宜しいですかな?」とぬらり翁が指名したのは制服姿の少女だ。

 あの年頃だと突然の指名に戸惑ってしまう事も多いだろうに。彼女——巳津塚桜花みつづかおうか——は何ら困惑した表情を見せず。淡々と「彼女自身の体験」として、忌まわしい怪異譚を語り始めた。

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