第3話
氷月凛は教室に入ってから席に着くまで一言も発さなかった。しかしその所作は清流のように静かであった。
教室中の注目を集めている事を知りながら、氷月凛は眉一つ動かすことなく淡々と授業の準備を始める。一糸乱れぬ黒髪ロングも相まってか、彼女こそが大和撫子の擬人化なのであった。
彼女が存在感を示すのに口を開く必要は無い。そこにいればいいのである。
来栖はほぅとため息をついた。
「今日も氷月さんは可愛いねぇ。どう、けんジィも氷月さんから目を離せないでしょ」
「そうだね」と答えて僕は学校に置きっぱなしにしていた小説のページをめくった。来栖にとられた小説の前巻である。
「めっちゃくちゃ興味ないじゃん!?」
「だって同級生なんだもの」
僕にとって大事なのは美しさではない。重ねた年月が醸し出す深みこそ至高。せめて彼女が2年くらい先に生まれてきていれば僕も注目したかもしれないが、同じだけの時間を生きている女子に興味はない。
「筋金入りだなぁ」来栖が飽きれたように呟いた。
氷月さんを意識する気持ちは分かるけれど、注目する必要は無いように思う。なぜ来栖が驚くのかが理解できない。
女性は年を重ねる事すら化粧なのである。人間性に磨きがかかった女性の表情の奥深さを見よ。さながら年代物のシャルル・ド・ゴーニュがごとし。酸いも甘いも経験した奥行きある微笑み。角が取れた言葉遣いは僕達を包んでくれるかのように柔らかく、一見すると厳しい意見の中にも優しさが垣間見えるのだ。それらはすべて人生経験によってのみ会得できる宝石なのであり、体という入れ物の中で心という一個の煌めきを作り出すさまは真珠を作る貝のようである。
「氷月さんがいかに美しかろうと僕に言わせれば薄氷のような薄っぺらさだ。入れ物が綺麗なだけで中身が未熟。あれでもっと深みがあればいいんだけどねぇ」
「へぇ、八重山は私が子供っぽいと言っているわけね」
「子供というよりはお人形だね。容姿以上の美しさを手に入れていない女性に興味はない」
「ほぉう……良い度胸しているじゃないの。この私に向かって興味が無いとは、それ相応の覚悟をもって言ってるんでしょうね」
「…………あれ?」
僕は話し相手がすり替わっている事に気づかなかった。さっきまで目の前にいたはずの来栖がいつの間に隣に移動しており、真っ青な顔で袖を引いている。「謝って、いますぐ謝って!」という来栖の声は今にも死にそうだった。
「何を謝る必要があるのだ」
「それ、私じゃないよ! けんジィいま氷月さんに向かって言ってんの!」
「あ、そう。ふぅん」
「ふぅん、じゃないよバカ!」
しかし僕は謝らなかった。未熟だから未熟と言って何が悪い。未熟と言われて怒る事こそ未熟な証。いったい何を謝る必要があるのだ。
むしろ僕は面と向かって言ってやった。
「これしきの事で怒るような人が子供でなくて、なんなのだ」
「……………………」
「なんで火に油を注ぐようなことをーーーーーー!」
氷月さんはゴミを見るような目で僕を見下ろしていた。刀身のような美しさがさらに冷え込んで触れたら凍傷は間違いない。誰がどう見ても怒っていた。
僕達はしばし睨み合った。バチバチと火花が散る。一触即発とはまさにこの状況を言うのであろう。他のクラスメイト達は飛び火しないように遠巻きに離れて様子を窺っていた。
「八重山兼人。私、あなたに興味が湧いたわ。もちろん悪い意味でね」
「そうかい。そりゃ光栄なことだ」
「今日の事を後悔する日がくるわ。その時を楽しみにしておいてね?」
「じゃあ、僕が忘れる前に頼むよ。最近どうにも忘れっぽいから」
「――――――――ッ!」
氷月さんが頬を引きつらせた。その瞬間、空気が凍る音が教室中から悲鳴のように響いたのが、僕の耳に確かに聞こえた。
しかし、氷月さんの怒りが爆発する方が早かった。彼女の中でどんな化学反応が起こったのか知らないが、水素同士が爆発を起こすように一瞬で、なんの前触れもない発露であった。
「これでも!」と僕の胸ぐらを掴んでグイと引き寄せる。
「私の顔を近くで見ても子供っぽいと言える?」
「…………………」
「どうなの。美しい私のどこが幼稚なのよ。言ってみなさい! 言えるもんなら!」
いつも周囲から誉めそやされて、美しすぎるがゆえにいつも独りでいる氷月さんにとっては外的美しさの方が重要なのだろう。行為はとても子供っぽいのに顔を見て褒めろなどと馬鹿馬鹿しいにもほどがある。しかし、彼女の眼力には蛙を殺してしまいそうな殺気が宿っているのを見ると適当な事は言えない。逃げる事も出来ないだろう。
「高くて細い鼻も、小ぶりな唇も、二重瞼も、澄んだ瞳も、間近で見ても美しさの破綻しない肌も、君のすべてが美しいと思う」
仕方なく、僕は思ったことを正直に言った。
「あぇ……、ほ、褒めるの……? 嬉しい――――じゃなくて! だったらなんで子供っぽいのよ! 私が綺麗だって認めるんでしょ!」
「だけどね、このうちに氷月さんの努力が関係するのは肌だけだ。それ以外の全部が親からの貰い物だろう? 笑顔だって泣き顔だって人の美しさを判断する材料になるはずなのに、君は板についたすまし顔。顔の良さに甘えているだけの君が大人だとは、僕は思えないね」
「………………………」
これが正直な感想である。
僕は人の美しさというのは表情に表れるものだと思っている。料理を例にとるなら目元や鼻や口といったパーツは食材。喜びや悲しみや怒りは調味料である。表情や仕草が顔の良さを引き立てて初めて美しい、可愛いと思えるのに、氷月さんのような無表情では原材料のみの料理である。塩も胡椒もソースもない挽き肉だけのハンバーグを誰が美味しいと思うのか?
僕は勝ち誇った気になって、持論をとうとうと語って勝利の余韻に浸りたい気持ちになっていたが、タイミング悪く教師が入ってきた。もうホームルームの時間らしい。タッパのある体育教師の登場のせいで僕の気持ちは宙に放り投げられたままになってしまった。
「お前らいつまで話してるんだ! 席につけ!」
「わあ! ごめんなさい!」
来栖もクラスメイト達もクモの子を散らすように席へと戻っていく。
が、氷月さんだけは動こうとしなかった。
「………………」
「おい、氷月! お前も早く席につけ!」
「………呼ばれてるぞ」
「…………………」
伏し目がちに僕を睨んでまだまだ何か言いたそうな様子だったが、何度も教師に怒鳴られてようやく動く気になったのだろう。
「褒めてくれたときは嬉しかったのに」と言い残して去って行った。
「どういう意味だ、それ?」
僕は思わず立ち上がったが、もうホームルームが始まってしまったために追いかける事は出来ない。
「今度はお前か、八重山! 夫婦漫才なら後でやれ!」
「……すいません」
氷月さんが去り際に見せた悲しそうな横顔が僕の中で後を引いた。
初めて氷月さんの事を綺麗だと思った。
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