03 慌ただしい出勤


 私の勤める会社は徒歩圏内になるオフィスビル。


 割と近場とは言え、普通に歩いていると20分程度はかかる。


 今日はどういうわけかイレギュラーが生じてしまったため、やや小走り……いや、ほぼダッシュで職場に向かっている。


「あっついんですけど」


 7月ともなれば、うだるような暑さが充満している。


 私は思わず悪態をつきながら急ぐ。


 酸素を求めようとする肺の苦しさを無視している内に、どうにか始業時間内に職場に着く。


 エレベーターに乗り、自分のデスクまで一直線。


 キャスター付きの椅子に腰を下ろす。


 澄ました顔で座っているが、心臓はドキドキである。


 肉体的にも精神的にも追い詰められてしまったからだ。


 ……つ、疲れた。


「あれ、上坂うえさか先輩。今日は遅刻ですかぁ?」


 そうしてようやく一息着いていると、妙な猫なで声が私を呼んでいる。


 はあ、と溜め息を吐いて首を少しだけ右に回旋させて隣の人物に目を配る。


「始業時間には間に合ってるんだから、遅刻じゃないでしょ」


「いやいや、いつもわたしより早いのに珍しいなぁと思って」


 本当に関心があるのかないのかよく分からない独特のテンション。


 茶色の髪を編んでサイドに下ろし、流行りのメイクで20代前半の若さを前面に押し出しているのは七瀬杏ななせあん


 私が指導係を務め、妙に親し気に接してくる入社2年目の後輩だ。


 まあ、最初から軽薄そうな雰囲気はあったものの入社時はまだ社会に慣れず初々しさがあったが、この1年ですっかり変化。


 色んな意味ですっかり垢抜け、こなれ感が出てしまっている。


 若い女子の一年の変化は凄まじい。


「たまにはそういうこともあるの」


「彼氏でも出来ました?」


 ……朝からこいつ。


 頭の中、ピンクに染まりすぎている。


「出来ません」


「えー。それなのに先輩が遅刻って、何があったんですか?」


 家に女子高生を連れ込んでしまった。


 ……こんなことを告白できる社会人がいるものか。


「むしろ、どうしてそれしか選択肢がないわけ」


「だって、他に先輩の生活サイクルを狂わすようなイベントないじゃないですか?」


 ……そうと言えば、そうなんだけど。


 なーんか妙に上から見られてると言うか、若干小馬鹿にされているような気がするのは私の被害妄想だろうか。


「ただの寝坊」


「そうなんですかぁ。でもいい人が出来たら教えてくださいね?応援してますから」


 ……なんだろう。


 口では応援されてるのに、そんな気が一切しない。


 そもそも私の恋愛事情を聞きたがるのもこの子くらいの不思議ちゃんだから、あまり気にしてはいけない。


「そういう七瀬ななせの方はどうなのよ」


「最近、別れました。なんか束縛激しくて。次の恋を探してます」


「……へえ」


 うん、これだよねぇ。


 このリア充感が、私のくすんだ生活とギャップがありすぎて妙に上からに感じてしまうのかもしれない。


「ですから、今のわたしは先輩と同じ立場ですよっ」


 全然同じ立場じゃないし。


 こっちは高校以来、恋人なしなんだよっ。


 なのに年齢は私の方が遥か上で、深刻さが段違いなんだよ。


 あと、胸の前に寄せた小さな両手のガッツポーズやめろ。


 いきなり可愛いポーズをとるな。


 どーせ私に向けている様に見せて、他の男性職員にアピールしてるんだろこいつめ。


 あざといなっ。


「はいはい、仕事します」


「えーん。全然聞いてくれなーい」


 もう隣は無視して、パソコンの電源を立ち上げる。


 会社の中は冷房が効いている。


 けれど、この涼しさによる急激な寒暖の差に肌が驚いているのが分かる。


 これはこれで体調崩しそうで怖いんだよね……。


 冷房の空気は苦手だし、急いだせいで汗もかいている。


 これが急に冷えると体が凍えてしまうのだ。


 隣の七瀬はブラウス姿だが、私はジャケットを脱げそうにない。


 はあ……もうちょっと前はそんなこと気にしなかったんだけど。


 外の空気とか自分の体調に関しての関心が高まっている。


 そんなことあまり考えなかったというのに……。


 そんな若さを意識してしまうのは隣の七瀬のせいもあるが、やはりあのギャルのせいだろう。


 七瀬も若いが、あの雛乃ひなのはもっと若い。


 あんな弾けるような肌は、10代にしか到底持ち合わせないものだ。


 若さというエネルギーを直接叩きつけられたような感覚だった。


「――先輩、やっぱり何かあったんじゃないですか?」


「えっ、なに」


 気付けば、じーっと七瀬が私を訝し気に見ていた。


「いえ、いつも着いたらきびきび準備して仕事始めちゃうのに。黙って遠く見てるから」


「あ……いや、急いで来たからちょっと休憩してたのっ」


「ええ?本当ですかぁ?なーんか怪しい匂いがプンプン……」


 こういう嗅覚だけは妙に鋭いな。


「そんなに無駄話する余裕があるのなら、この案件手伝ってもらおうかしら?」


 私の書類をちらりと七瀬に見せる。


「さーってと、そろそろ仕事しないとですねぇ」


 七瀬はワザとらしく聞こえないフリをして自分の仕事に取り掛かろうとする。


 まあ、ひとまずはこれでいいだろう。


 それよりも、私が七瀬に見透かされるほど変化しているとは。


 全てはあのギャルのせいだけども。


 もっと気を惹き締めないと。



        ◇◇◇



「ふあー。今日も疲れたなぁー」


 定時になった途端、隣で伸びをしながら露骨に仕事終わりムードを出している七瀬。


 いや、あんた結構スマホ触ってたよね。


 絶対仕事以外のことしてたでしょ。


「先輩は今日も残るんですか」


「あともう少しだけね」


 結局、朝の一件のせいで一日を通して集中力しきれなかった。


 なるべく今日の仕事は今日の内に済ませておきたい。


「働きすぎないで下さいよ。体壊しますから」


「はいはい」


「あと、たまには遊ばないと息詰まっちゃいますよ」


「あんたに比べたら誰だって遊び足りないでしょ」


 どうもこの子の最近の流行りは、仕事終わりに飲みに行くことのようだ。


 彼氏とも別れたようだし、尚更お盛んなことだろう。


「あ、わたしは遊びも全力ですよ?」


「聞いてない」


 むふーっと、なぜか鼻息を荒くしてキメ顔をしてくる。


 妙な所で会話がズレる。


 歳の差だろうか。


「それじゃお先に失礼しまーす」


「はい、お疲れ様」


 七瀬は軽快な様子でオフィスを後にする。


 その足どりに、仕事終わりの疲れなど微塵も感じないのは気のせいだろうか……。







 それから一時間ほどして、仕事を終えた私も会社を出る。


 その足でコンビニに寄る。


 今日の夜ご飯は何にしようかと検討していて、ふと思う。


「あの子の分も買っておいた方がいいのかな?」


 家にいて欲しくはないが、恐らくいるであろう雛乃の存在を思い出す。


 まあ……買っておいた方が無難だろう。


 面倒だなと思いつつ、二人分のお弁当を買ってから私は帰路につくことにした。

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