第15話 雅人の視点①

 俺が真希ちゃんと初めて会ったのは、中一の春だった。


「ほら、チビ雅人!」


 先月まで小学生だったんだから仕方ないけれど、短絡的で嫌な悪口が時々耳に入ってくるのが俺の日常だった。

 背の順で前へ倣えをするときは、腰に手を当てる。

 席替えでは、一番前の席に割り当ててもらう。

 組体操では、誰よりも高いところに登る。

 それが、俺だった。


「西小から来ました。入江いりえ雅人です」


 入学式の翌日。離婚する前だったから、俺はまだ海原姓ではなかった。俺が進学した中学校は、南中学校といい、地元の南小学校を中心に、西小学校、東小学校から生徒が集まってくる市立の学校である。知っている顔はクラスに十人前後いたけれど、残り二十数人はほとんど初対面なので、こうして改めて自己紹介の時間が取られた。

 一クラス三十三人の自己紹介は、十二歳の俺にとって運命的な出会いを求めるワクワク感と、どこか退屈な気落ちが織り交ざった不思議な時間だった。出身校と名前、そして好きなアニメやら入りたい部活やらを延々聞き続けるのも終盤に差し掛かったとき、キミが現れた。


「南小出身、帆波真希です! よろしくお願いします!」


 キミは――真希ちゃんは、誰よりも元気で、笑顔で、太陽みたいだった。他の男子たちは目もくれなかったけど、俺はそれが逆に嬉しかった。この子の素敵な笑顔を、俺だけが知っているのかもしれない、と。

 でもまあ、それを恋心だとは思ってなかった。ただ、仲良くなりたい子ができた! って感じで。これまで誰かを好きになったことなんてなかったし、恋愛なんてテレビの向こう側のおとぎ話だと思っていたから。

 そんな気持ちを芽生えさせ、中学校生活は始まった。俺は時々、真希ちゃんのことを見ていた。すると、授業中の発言も積極的だし、宿題や提出物を忘れているところなど見たこともない。さらに休み時間は友達と楽しそうに話している。クラスで目立つ方ではないけど、それはそれは楽しそうに生活していた。


「チビ雅人、宿題やった? 見せてくれん?」


 対して俺は、地味な生徒だった。友達は一人二人。コミュニケーション能力が低いと感じたことはないけど、なんとなく多数派に馴染めなくて、チビの便利屋扱いをされる毎日。


「分かった。佐藤くんは宿題、家でやるの禁止なの?」


「は? 何言ってんの? とにかくさんきゅな、あとで返すわ」


 だから、真希ちゃんは俺のできないことを楽しそうに、簡単そうにやっていて……これはそう、多分憧れだった。

 夏休み明け。十月に開催される音楽祭の実行員に選ばれた。クラスに二人。面倒な役を押し付けられた俺と、自ら名乗りを上げた真希ちゃん。初めての実行委員会の集まりに向かう途中、日に焼けた真希ちゃんの黒い肌と白い肌の境目にドキリとしたのは今でもはっきり覚えてる。


「入江、大丈夫?」


「あ、いや、大丈夫。ごめん帆波さん」


 下心なんて持っていなかったつもりだったけど、真希ちゃんの体を見ていたことがバレて、ドギマギしてしまった。

 実行委員会は三学年四クラス二人ずつが集まり、二十四人の生徒と担当の先生で行われた。そういえばこのときは全く認識していなかったけど、のえりーもそこにいたらしい。

 音楽祭は、各学年クラス毎に一曲ずつ合唱曲を選び、本番までに練習して保護者の前で披露する。各学年ごとに優秀だったクラスが表彰を受け、賞状を渡される。クラスの親睦を深めたり、集団で一つの目標に進む力を養うのが目的だったろうと思う。

ただ、俺はそんな行事の実行委員が不安で仕方なかった。学校生活では、修学旅行、体育祭に次ぐ大きな行事だし、自分なんかに務まるのだろうかと震えていた。

 二年生、三年生の先輩たちは俺なんかより一回りも二回りも大きな図体だし、一年生も他のクラスの実行委員は仕事が出来そうな面々が揃っている。こんなところでやっていけるうのかな……。

 なんて考えていたら、いつの間にか初回の委員会は終了していた。大半は役割決めとスローガンの候補集めについてだった。

 ふぅっと溜息を吐き、俺は真希ちゃんと一緒に自分のクラスへと廊下を歩く。


「……あんたさ、ずっと自信なさそうだよね」


 真希ちゃんは前を向いたまま、言った。


「ま、まあ俺は押し付けられてなっただけだしね……」


 あははと笑い、俺は真希ちゃんの横顔から目を逸らす。


「入江と私、ペアなんだから、もっとやる気出してもらわなきゃ困る」


 その言葉は強かったが、語気はそんなにきつくなく、むしろ優しささえ感じられた。


「……ご、ごめん」


「入江は、優しすぎて色々押し付けられ気味だけどさ、それでも文句一つ言わないで最後までやり遂げるでしょ。そういうところ、すごいと思うよ。……だから、頑張ろ」


 不意に真希ちゃんから言い放たれたそのセリフは、些細で、ありふれていて、きっと言った本人は忘れてしまうような言葉だっただろう。だけど、俺にとっては特別で、劇的で、天地がひっくり返るようなことだった。ただただ、周りに馴染めない俺は、なんとなく人の役に立とうとすることで許されている気になっていた。でも、その行動を「すごい」と言ってくれて、肯定してくれて、嬉しかった。

 そのとき、俺の心は人生史上初観測の感情に見舞われた。

 それが何という名前の感情なのか、そのときの俺には分からなかった。


  *


 その年の音楽祭は、大成功に終わった。

 大体は先輩方の慣れた段取りのお陰だと思うけど。個人的な仕事も、真希ちゃんと二人で本番は滞りなく成功。一年生の優勝は俺たちの隣のクラスだったので、大きな盛り上がりはなかったけど、それでもいい思い出としてクラスメイトたちの心に刻まれたと思う。

 そして、一か月半も共に仕事をした真希ちゃんに、俺はこのとき既にすっかり心を奪われてしまったと今では思う。音楽祭が終わった後も、気付けば目で追いかけ、笑顔を見つける度、俺の表情も綻んでいた。でも、異性と関わった経験なんてほとんどなかった俺は、真希ちゃんに用もなく声を掛けるなんてできなくて、ただただ時間が過ぎるばかりだった。委員会に一緒に出ていたころはこんなこと一回もなかったのに、近づこうとするだけで、心臓が飛び出そうになったり、足が勝手に反対方向に動いたり。

 そういえば、同じころのえりーとも初めて話したんだった。音楽祭が終わり、いよいよ冬らしい季節がやってくる十一月。下校中、後ろから突然話しかけてきたのが、のえりーだった。


「ねえ! 入江くん? だよね、音楽祭実行委員だった!」


 少年と見間違えるくらい短髪で、俺より背の低いのえりーは、さらっと自己紹介を済ませ、俺の横に並んで歩く。そのまま流れで一緒に下校することになって、その後も度々一緒に帰る仲になった。のえりーがなんでそんなに俺と仲良くしてくれたのかは分からないけど、女の子と話す練習になったので、俺としてはありがたかった。

 そして、時間が経つにつれ俺の真希ちゃんへの気持ちは募る。時々、グループワークや偶然の遭遇などで話ができることがあって、それも俺の気持ちに拍車をかけた。一度、こんな会話をしたことがある。


「ほッ帆波さんって、いつも誰かと話してるよね……! 話すの、好きなの?」


 声が震えていたかもしれない。


「え? うーん、好きっていうか、休み時間に友達と話すのは当たり前って思ってるから、分かんないや」


 あっけらかんとした感じで言う真希ちゃんは、根っからの明るい子なんだと俺は思った。ますます惹かれ、気持ちが大きくなる。

 俺が自分の気持ちにちゃんと気づいたのは、年が明けてもう三月になる頃だった。あと数週間で二年生になる。長くもなく短くもない春休みがやってきて、また学校が始まるのだ。


「おうおう、チビ雅人。お前一年間で全身長伸びてねえな、分けてやろうか」


 修了式当日。俺は相変わらず廊下でクラスメイトにいびられていた。


「次も同じクラスになったらさ、また宿題見せてくれよな」


 ……そうだ、クラス替え。

 考えてもいなかった。小学校は小規模で、生徒が少なかったからクラス替えがなかった。だけど、来月には新しいクラスになる。全部で四クラス。真希ちゃんと同じクラスになれるか、俺は真っ先に考えていた。

 もしかしたら、違うクラスになってしまうかもしれない。

 その考えが頭を過ったとき、胸がきゅうっと痛くなり、居ても立っても居られなくなった。俺は、なりふり構わず走り出す。


「お、おい雅人?」


 さっきまでほくそ笑んで俺を見下していたクラスメイトの間抜けな声が後ろに聞こえた。

 勢いで飛び出したものの、特に行く当てもないので、なんとなく生徒の少ない特別棟と教室棟の渡り廊下に来た。すれ違った先生に、「もうすぐ修了式始まるぞ」と言われて、俺は何やってるんだと思い、踵を返す。

 修了式の最中、俺はずっと考えていた。どうしてクラスが真希ちゃんと別々になるのがこんなにも辛いのか。どうして真希ちゃんと同じクラスになることをこんなにも期待しているのか。そして、巡らせた思考は、よく聞くけどよく分からい、それに終着する。


「……恋してるんだ、俺」


 思わず口に出してしまった。

 が、その瞬間に校長先生の話が終わり、拍手が体育館に響いたことで幸いにも掻き消された。

 そう。

 俺はこのとき初めて、真希ちゃんへ恋心を抱いていることを自覚した。

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