恋愛系ミステリ

ラピ丸

第二話 『落とし物は』事件編

 何度擦っても落ちないなと思ったら、汚れではなく傷だった。雑巾を握る手の力を弱めて、頭を持ち上げる。長時間覗き込んだ体勢を取っていたせいで首が凝ってしまった。勢いをつけてなんとか立ち上がり、近くに置いてある水を張ったバケツへと向かう。

 我らが初芝高校は、立派なことに六限と帰りのHRまでの間に、十五分ほど清掃の時間が設けられている。生徒は割り当てられた清掃場所につき時間いっぱい拭き掃除や掃き掃除、ゴミ出しや備品チェックを行うのだ。オレも理科室や地学講義室の並ぶ特別棟の一階廊下を担当していて、つい今しがた頑固な汚れと見間違えていた床の傷跡との対戦を終わらせたところだ。

 二年生も折り返し地点を間近に控えた九月。西日が映ったバケツの前にしゃがみ込んで、えっちらおっちら雑巾を洗っている。まだ尾を引く夏の気配が嫌でも視界に入ってくる季節。衣替えはまだ始まっていないものの、冷房の利いている教室から外へ出ると背中にじんわりと汗が浮かぶ。ただ、概ね平和な風景だ。

 しかし、大抵の場合は平和を感じている時に限って事件は起こるものだ。

 それも突然やってきた。

不意に、竹で固い物を引っぱたく剣呑な音が響いてきた。虚を突かれて思わず身がすくみ、雑巾を勢いよく水中から持ち上げて、バケツの水がズボンにかかった。しまった。漏らしたみたいじゃないか。

 驚いたのはオレだけではなかった。近くを掃除していた女子達も手を止め顔を見合わせて「びっくりしたぁ。なにぃ」と言い合っている。よく考えてみれば、音がなくても手を止めて雑談をしていたような気がする。

 次に聞こえてきたのは怒声だった。大きく、くぐもった声で、内容までは聞き取れない。滑舌の悪い男の声で、理科室の方から聞こえてきた。どうやら清掃場所の監督役の教師が、担当の生徒を叱りつけているらしい。

 掃除の時間は正確には授業時間外のことなので、そのルールはかなり緩い。私語にしてもそうだし、極端な話が掃除をせずにただお喋りをしているだけでも、少しばかり注意はされるだろうが目くじらを立てて怒られるようなことはない。つまり、怒声が廊下まで響いてくるこの状況は非常に稀なことだった。あまり関係のないことに積極的に首を突っ込むのは良くないとは感じつつも、それ以上に何が起こっているのかが気になってしまったため、オレはこっそりと様子を見に行くことにした。

 教室のドアは開けっぱなしになっていて、中が簡単に覗けた。掃除がしやすいように、ズラリと並ぶ実験台の上には、教室中のイスが残らずあげられている。オレが顔を覗かせるドアと反対側には手前から順に教卓と黒板が備えられていて、その黒板の前にここの清掃担当達が一列で並べられていた。彼ら、彼女らを睨みつけるように仁王立ちで腕を組んでいるのは、科学の教師であるしかめ面な男だった。そっと聞き耳を立ててみると、

「そもそも、こんな物を学校に持ってくるんじゃない。簡単なことも守れないのか」

 と語気からも怒りが伺えた。

 男は口をへの字に歪ませて、両手に渡した竹の棒に目一杯力を込めている。白衣に覆われて詳しくはわからなかったが、足下だけやたら揺れているところから伺うに激しく地団駄を踏んでいるらしい。相当お怒りのようだ。

 成長するにつれて自分が本気で怒ることも、周囲の人間が怒鳴り散らすことも少なくなってきた。反面、久しぶりに見る他人の怒りは一周回って怖さすらある。まして、二回り以上年が離れている男性から凄まれているのだ。女子生徒はたまったもんじゃないだろう。

 それにしても、一体何が起きたらこんなに怒ることがあるのか。きっと校門前に飾ってある校長の立像に落書きをしてもここまでは怒らない。いったいこいつらは何をやらかしたのかと生徒の方を眺めていると、知っている顔がある気がした。それが誰なのか思い当たると同時に、オレは小さく呟いていた。

「冗談だろ」

 そこにいたのは麗花だった。

 春日部麗花はお転婆からもはみ出すような女子だ。活発、快活を具現化して生活していると言っても過言でない。

 麗花とオレは小学校からの幼なじみで、先日、とある事件をきっかけに再び関わるようになった。彼女は確かにやんちゃで、度々無茶をやらかすことはあったが、それはあくまで小学生の頃の話。高校に入ってからはオレも彼女の好奇心や行動に振り回されることはあっても、迷惑を被ったことはない。だから、その麗花に対して教師が怒髪天を衝かせていることが信じられなかった。

 詳しい事情を知りたいところだったが、声を出してしまったのが悪かったらしい。それまで目くじらを立てて怒鳴りつけていた教師が、不意にくるりとオレのいる方を振り返ったのだ。感覚が鋭敏になっていて、不自然な声に反応したのだろう。必然的にジッと目を凝らしていたオレと視線が合ってしまう。

 マズいと直感するが、遅い。のぞき見する生徒の存在に気がついた教師は、肩を高くつり上げ拳を握りズンズンと大きな足音を響かせながら、オレが顔を覗かせる出入り口へと直進する。そしてオレの前に仁王立ちすると教室の扉に手をかけてこちらを睨みつけた。

「見世物じゃない!」

 ピシャリと勢いよく閉じられる扉。間もなく、扉の向こう側から施錠した音がして足音は再び理科室の正面に戻っていく。再開された説教は、先ほどよりもいささか苛烈さを増していた気がした。

 哀れ麗花とその他一行。オレのせいだ。スンマセン。

 他人の不幸を喜びも、自分の失着を他人のせいにするつもりもない。せめてもと心の中で理科室担当の生徒達に向けて手を合わせてから、オレはノコノコと自分の持ち場に戻った。

 説教の声は、ついに掃除の時間中、止まることはなかった。

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